研究テーマ

この世界は幻想なのか(後編)

「私たちがいま生きている現実の世界は、もしかすると幻想かもしれない」。こんな突拍子もないことを主張する物理学の学説があります。「ホログラフィック理論」というものです。一般の感覚ではとうてい理解しがたいこの学説は、ブラックホールの謎の解明を通して生まれてきました。なぜ、こんな不思議な学説が誕生し、最先端をゆく物理学者たちに支持されているのか。3月18日公開のコラム(前編)に続き、今回は後編をお届けします。

ブラックホールの謎

太陽の30倍以上もある大きな恒星が「死」を迎えると、自らの巨大な重力で内側に向かって崩壊が始まります。自分の重さで自分を押しつぶし、どこまでも星は圧縮され続け、ほとんど無限の密度を持つ一点にまで凝縮されます。想像を絶する巨大な重力の影響で、この「点」からは光すら脱出できません。外からは見ることができない「ブラックホール」が誕生するのです。
光すら飛び出せない「ブラックホール」の中を覗くことは誰にもできません。だから、ブラックホールの中は、長い間謎に包まれていました。その謎のひとつが、ブラックホールに落ちていった「モノの情報※1」はどうなるかというものです。

物質の情報は消えてしまうのか?

「モノ」はいろんな情報を含んでいます。色や形や大きさ、構成している分子や原子の配列など。そういった情報は、ブラックホールの中に落ちていくと、どうなるのでしょう。ブラックホールは、光も出てこない暗黒の世界です。そこは一度足を踏み入れたら二度と戻れない"別世界"のようなところ。そこで多くの科学者は、ブラックホールに落ちていった「モノの情報」は、巨大な重力によって無限小にまで押しつぶされ、消滅してしまうと考えました。
ところが、この考えに異を唱えた人がいます。イスラエルの物理学者ベケンシュタインです。彼はブラックホールに落ちた「モノの情報」は消えるのではなく、別の場所に保存されるのだと主張しました。その"別の場所"というのは、ブラックホールの外側を取りまく球面状の「事象の地平面※2」です。つまり、ブラックホールをシャボン玉に見立てれば、内側に入った「モノの情報」は、外側の虹色が渦巻く球面上に保存されるというのです。ベケンシュタインのこの説は、当初学会から猛反発をくらいました。しかし、後にスティーブン・ホーキングの研究によって、数学的に正しいことが立証されたのです。

この世はデジタルでできている?

ベケンシュタインの説をさらに推し進めたのが、ノーベル物理学賞受賞者のゲラルド・トフーフトやスタンフォード大学教授のレオナルド・サスキンドです。彼らの発想は突拍子のないもので、ブラックホールの原理から、「この現実世界にあるモノ・コトのすべては、どこか遠くにある二次元平面に書き込まれたデータの投影にすぎない」という結論を導き出したのです。しかも、さらに驚くのは、彼らがこの世をアナログではなくデジタルでできていると見なしていること。コンピュータが0/1の二進法で情報を記録するように、世界のモノ・コトのすべては0/1のデータで、空間領域の外側にある球面上にコーディングされているというのです。この理論は、三次元映像を二次元のフィルムに記録する「ホログラム」に似ていることから、「ホログラフィック理論」と呼ばれています。

「ひも理論」による裏付け

普段私たちが見ている映画は、デジタルメディアに記録された「情報」をスクリーン上に投影したものです。映画そのものは本質ではなく、実体はあくまでも記録メディアの方にあることを私たちは知っています。「ホログラフィック理論」が主張するのも同じこと。私たち自身の存在は投影された幻影に過ぎず、実体は宇宙のどこか遠くにある球面上に記録された「情報」だというのです。
実は「ホログラフィック理論」とは別のルートから、同じようにこの世の"本質"を突きとめようとしている学問領域があります。「ひも理論」と呼ばれるものです。この「ひも理論」の研究者たちが到達した結論は、奇しくも「ホログラフィック理論」と同じものでした。別々の山を登っていたと思っていた研究者が、頂上でばったりと出くわし、両者が同じ山を登っていたことに気づいたのです。「ひも理論」の強力な裏付けを得て、「ホログラフィック理論」は、この研究分野のメインストリームに躍り出ました。いまや最先端の物理を研究している多くの科学者が、この理論を支持しているのです。

「現実世界は、テーマパークの幽霊屋敷で見られるホログラムのようなもの」。こんな珍説を「はい、そうですか」とすんなり受け入れることはできません。しかし、16世紀にコペルニクスが「回っているのは太陽ではなく地球だ」と唱えたときも、多くの人は同じような反応を示したのではないでしょうか。つまり、「そんなバカげたことはありえない」と。
まだ、「ホログラフィック理論」が正しいと決まったわけではありませんが、宇宙の真の姿を記述した有力な学説のひとつとして注目されていることは確かです。今後、この学説がどのような形で発展し、証明されていくのか。世界中の人々が固唾を飲んで見守っています。

※1「モノの情報」という表現は厳密にいえば正しくありません。モノが持っている秩序の度合いを表す「エントロピー」という言葉を使うべきでしょう。しかし、エントロピーの概念は一般の人には分かりにくいので、あえて誤解を恐れずに「モノの情報」という言葉を使用しました。

※2「事象の地平面」については3月18日公開のコラム(前編)で説明しているので、こちらをご覧ください。

※参考図書:
「隠れていた宇宙/ブライアン・グリーン著 竹内薫監修 大田直子訳」(早川書房)
「ブラックホール戦争/レオナルド・サスキンド著 林田陽子訳」(日経BP社)
「大栗先生の超弦理論入門/大栗博司著」(講談社)

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