研究テーマ

じぶんに帰る時間

「インスタ映え」という言葉が流行語大賞になったように、SNS上で多くの人とさまざまな情報を共有して楽しむことは、いまや現代人の日常になっています。「いいね」ボタンの数に一喜一憂する人が多いのも、その数で人とのつながりを確認できた気になれるからなのでしょう。もちろん、人とつながることは楽しいことですが、それにばかり気を取られすぎると、なんだか疲れてしまうことはありませんか?

たまには、ひとりで

東京・杉並に、「会話お断り」を謳うカフェがあります。高円寺の路地裏にあるちょっと現実離れした読書空間、『アール座読書館』がそれ。入り口には「店内は静寂を楽しむ空間となっておりますため、他のお客様がいらっしゃる時は声高なお話、小声でも長いお話をお控えください」と書かれた札が掛かっています。
店内に入ると、静かに流れるBGM、水槽に落ちる水の音、本のページをめくる音、時々鳴る柱時計の音…静かだけど、まったくの無音というわけではありません。ひとりの時間を邪魔しない、耳に心地よい音だけは残されているようです。

心地よさの背景

「森の中の読書」をイメージしてつくられたという店内空間は、いくつかのゾーンに分かれていて、それぞれに工夫が凝らされています。
熱帯魚の泳ぐ水槽をゆっくり覗けるソファ、大きな机、古い列車のような座席、絵画作品や写真作品を映し出されるスクリーン付きの席、備え付けの万華鏡を楽しめる席、机の引き出しがジオラマになった席などなど。
手作り風の本棚には、文学(短編集、詩集)から写真集、画集・美術書、絵本、自然科学、思想・哲学・心理学、文学系漫画、旅行書など、幅広いジャンルの本が並んでいます。いずれも、オーナーの蔵書の中からお店のコンセプトに合わせてピックアップされたもの。もちろん、自分で持ち込んだ本を読んでもかまいません。

ひととき、日常から離れる

「お席に腰掛けて…出来るだけ現実的なことを忘れて、読書やお飲み物や瞑想や妄想なんかを楽しんで下さい。…お仕事やお勉強にご利用頂いても構いませんが、合間に一時でもそれを忘れる時間を作って頂けると幸いです」──メニューの最初に書かれた「この店の楽しみ方」からの抜粋です。
ただ静寂の時間を提供するだけでなく、「いつもの自分」からひととき離れる場を提供したいという思いが伝わります。実際、だれよりもこうした静かな空間が欲しかったのは、オーナーの渡辺太紀さん自身だったとか。
「静かな所でしばらく頭を休めていると少しずつ感覚が開いてきて、普段見過ごしているような微かなことが感じられるようになり」、「今の自分の立場を俯瞰から見るような感覚で、今とらわれていることの中の大事なこととそうでないことが見えて」、「感覚が開くとお茶やコーヒーがとても美味しい」と綴られたブログの言葉に共感される方も多いでしょう。

ひとりの世界

周囲を見回すと、本を読む人、書きものをする人、ただお茶を飲んでボーッとする人、水槽の魚を眺める人、パソコンを持ち込んで仕事をする人、スマホでメールを打つ人…ひたすら勉強に励む高校生らしい姿もあり、それぞれが好き勝手に時間を過ごしています。共通しているのは、だれもが周りの目を気にせず、素顔の自分になって「ひとりの世界」に浸っていること。
それなら自宅の個室でもよさそうですが、家という日常空間を離れ、その場所にわざわざ出向いて行くことで、本当の「ひとり」を味わえるのかもしれません。毎日のように訪れる人がいるというのも、また、ここを訪れる多くの人が来店時に比べておだやかな表情で店を後にするというのも、うなずけますね。

大きな深呼吸

仕事、勉強、家事、育児、人との付き合い…現代人は常に忙しく、時間に追われています。そして、それをスピーディーにより多くこなせる人が「できる人」とされています。そうした世間の評価に合わせてひた走ることが自分の幸福感と一致するなら問題はありませんが、そうでない人も多いでしょう。だとすれば、どこかで立ち止まり、日常の時間の流れを断ってみることも必要かもしれません。渡辺さんが『アール座…』の役割を「日常から一時離れるための場所」と言うのも、きっとそんな理由から。大きな深呼吸をするように、強制的に自分をリセットすることで、はじめて見えてくるものもあるような気がします。

とはいえ、どこの街にも『アール座…』のような場があるわけではなく、自分をリセットする場は自分で探すしかありません。公園の片隅のベンチ? オフィスのビルの屋上? トイレの中?…いえいえ、「場」に限らなくてもよさそうです。空に浮かぶ雲をただボーッと眺める「時」、通勤電車の中で目を閉じて聴く音楽、逆に雑踏の中のほうが落ち着くという人だってあるかもしれません。自分なりの方法で、自分に帰る。毎日の小さなリセットが自分を元気づけるきっかけになれば、それでいいのではないでしょうか。
みなさんは、いつ、どんなところで、自分をリセットしていらっしゃいますか?

研究テーマ
生活雑貨

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