研究テーマ

各国・各地で

逃げる力

何か困難なことにぶつかったとき、「負けるな」「がんばれ」と思う強い心を持つことは大切でしょう。でも、同時に求められるのは、「無理するな」「逃げ道を探せ」と自分に呼びかける柔軟な心のあり方ではないでしょうか。春、新生活が始まるこの時期に、「逃げる」ことの有用性について考えてみました。

鎌倉市図書館のツイート

2015年8月25日、ツイッターに投稿されたある文章が大きな話題を呼びました。ツイートしたのは、鎌倉市図書館。「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。」この言葉には多くの人が心を打たれ、直後からつぶやきを引用する「リツイート」が急増し、その数は数万回に及んだといわれています。このツイートの背景には、増えつづける子どもの自殺の問題がありました。
2016年版の「自殺対策白書」によると、警察庁の調べで、2015年に自ら命を絶った人の数は前年比1,402人減の2万4,025人で、4年連続3万人を下回ったそうです。ところが、19歳以下の若者と80歳以上の高齢者に限ってみると、その人数に変化はないとのこと。とくに15歳~35歳の世代で、死因の第1位が自殺となっているのは、先進7カ国の中で日本のみだそうです。国際的に見ても日本の若者の自殺率は非常に高い水準にあるのです。

9月と4月の2つのピーク

子どもが自ら命を絶つという悲しい出来事、それが増えるピークは年に2回あるといいます。ひとつは、2学期が始まる直前の9月1日前後。もうひとつは、新年度が始まるいまこの時期、4月の初旬です。共通しているのは、どちらも新しい学期の始まりであること。不登校やいじめの悩みはもちろん、子どもたちは思春期に訪れる不安定な精神状態を抱えながら、おそるおそる新しい環境と向き合うことになります。
何事も始めが肝心。果たして学校に行けるだろうか。行けたとして友だちとうまくやれるだろうか。新学期のよそよそしい空気の中で、子どもたちは不安と期待の入り混じったドキドキを抱えながら、教室に顔を出します。そんなとき、以前から続いていたいじめが再発したり、孤独や孤立感を味わったりすると、そのつまずきが引き金となり、うつ状態を悪化させることもあるそうです。とくに「学校に行かなければならない」と親や先生が強く思っている場合、子どもたちは逃げ場を失います。親にも、先生にも、もちろん友だちにも、誰にも相談できず、悩みを抱えた小さな心は、荒涼とした灰色の世界の中にポツンと取り残されてしまうのです。

「逃げてもいいよ」というメッセージ

アスリートの為末大さんは、「諦める力」という本の中でこんなことを書いています。「日本では『やめる』『諦める』という行為の背後に、自分の能力が足りなかったという負い目や後ろめたさや敗北感を強く持ちすぎるような気がする」と。当初100メートルの選手だった為末さんは、自分の能力に限界を感じ、より戦いやすい400メートルハードルという競技に舞台を移し、世界選手権でふたつの銅メダルを獲得します。「自分が苦手な分野」でがんばりつづけるより、戦略的に「自分の得意な分野」に鞍替えし、そこで活躍する方が有利であると考えたのです。途中でやめたり、諦めたりすることは悪くない、これは為末さんが自らの競技人生を通して導き出した結論でした。
ただし、このときに立ちはだかるのが、日本人が抱いている「逃げる」ことへのマイナイスメージです。「敵に背を向けるのは卑怯者」という昔ながらの観念が、「逃げる」行為を否定し、逃げ場のない状況へと人を追い詰めていくのです。とくに若い人に向けて、年配の方はこんなアドバイスをよくします。「そんなことで逃げてどうする。逃げてばかりの人生じゃ、何をやってもダメになるぞ」。客観的に考えれば、「逃げるリスク」と「がんばるリスク」は同じはず。とりあえず目前にある障害を回避しただけで、即「何をやってもダメ」とはならないはずです。別の道を選択したことで、明るい未来が開けることもあるのです。
ことわざに「三十六計逃げるにしかず」というものがあります。「三十六計」は中国の民間に伝わる兵法書で、戦いに勝つために有効な三十五の計略が書かれています。そして、これらの計略を用いても勝てない場合は、第三十六計、「走為上」(逃げるが最上)と説いています。「逃げる」ことは「ずるい」わけでもなく、「卑怯」なわけでもなく、立派な戦略的行為であるというのです。

冒頭でご紹介した鎌倉市図書館は、「つらいきもちをかかえているあなたへ」という言葉とともに、こんなツイートもしています。「図書館はあなたの居場所になりたいと思っています。心のすみっこに『としょかん』をおいてね。図書館にはいろいろな本があるよ。疲れた心によりそうような本が見つかるかも。」
つらいとき、苦しいとき、逃げ込めるシェルターを持つことは、負けない気持ちを持つことと同じくらい、自分を強くしてくれるのかもしれません。

参考図書:「諦める力/為末大」(プレジデント社)

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