研究テーマ

東日本大震災、その後。 ─聞くこと。物語ること。─

画像提供:浮船の里

震災から三年が過ぎようとしています。被災された方、被災者の支援をされてきた方、何かしなきゃと思いながらも何もできなかった方、それどころではなかった方、もう忘れかけていた方…いろいろな方がいることでしょう。

被災された方も、一様ではありません。被災を機に、新しい人生に挑戦している方もいれば、全てを失ったショックから、どうにも前に進めなくなってしまっている方もいます。「震災から三年」と一口に言っても、人によって、全く状況が違います。そして、時間が経てば経つほど、そんな被災者間の違いは鮮明になっていきます。「どうして…」という思いは、むしろ、震災直後よりも大きくなっているのかもしれません。

震災後三年たってもどうにもならないのが福島第一原発の事故による放射能汚染の影響を受けた地域です。原発から20km圏の市町村と、汚染の激しかった飯館村などの一部の市町村は、いまだに人が住むことはできません。津波に流されずに家は完全な形で残っているのに、放射能のために我が家に住むことができない。そういう人が、福島県にはたくさんいるのです。その数は、自主避難も含めれば、15万人以上と言われています。

放射能の問題は、あまりにも問題が大きすぎます。それでも、ただ途方に暮れているだけでなく、何とかしなければと立ち上がっている方々がいます。今回は、そんな方々のうち、南相馬市小高区で活動をしている「NPO法人浮船の里」の取組みを例に、どうにもできない現実を前に、人は何ができるのかを考えてみたいと思います。

「浮船の里」は、2012年4月まで人が立ち入ることができなかった南相馬市小高区で、主婦を始めとした地元の女性達によって、2013年4月に立ち上げられたNPO法人です。10~20km圏内に位置する小高区は、2012年4月からは避難解除準備区域となり、昼間は人が立ち入ることができるようになりました。この昼間だけ入ることのできる場所に、「浮船の里」の活動拠点「あすなろ交流広場」はあります。

「あすなろ広場」は、いつか小高区に人が住めるようになった時に戻りたい人が戻ってこられるよう、バラバラになってしまったコミュニティをつなぎ直すための場所です。遠くに避難している人が自宅を掃除しに来た時、あすなろ広場に人がいることを見つければ立ち寄ってくれるかもしれない。立ち寄ってくれた人が連絡先を残していってくれれば、知人の行き先を知ることができるようになる。そうやって小高区の住民を少しずつつないでいくことが、当初の狙いでした。だから、あすなろ広場では、人がいることの目印になるよう、いつも鯉のぼりを立てています。そして、立ち寄ってくれる人がいたら、お茶を出しながら、その人の問わず語りの話を聞くのです。

画像提供:浮船の里

あすなろ広場で聞き役を務めている「浮船の里」理事長の久米静香さんは、「訪れてくれる人は、誰かに話を聞いてもらいたがっている」と言います。「誰かに話を聞いてもらって、愚痴や不平・不満、不安な気持をひとまず吐き出してしまわないと、次にいけないんだよね」とも。それは、震災後、毎日泣き暮らしていた頃の自分自身が、人に話を聞いてもらう中で、だんだんと癒され、前を向けるようになったという経験をしてきたからです。だから、彼女はとにかく人の話を聞きます。時には一緒に涙を流しながら、この人も自分と一緒だ、と思いながら、ただ聞き続けるのです。

あすなろ広場では、月に一回、「芋こじ会」という会を開いています。これは、今は仮設住宅等に住んでいる小高区の住民たちによる話し合いの場です。「芋こじ」とは、江戸時代後期、相馬藩の農村復興に尽力した二宮尊徳が、農村復興に際して行なったという村人同士の話し合いの名にちなんだもの。水の中で互いにこすりつけ合うと泥が落ちる里芋のように、村人たちが互いに磨き合いながら、復興の方策を考え、心を一つにする。そのための話し合い、学び合いの場を尊徳は「芋こじ」と呼んだのです。

画像提供:浮船の里

「芋こじ会」の開催を提案し、毎月の芋こじ会のファシリテータをボランティアとして務めてきた井上岳一さん((株)日本総合研究所)によれば、最初の三回くらいは、行政や東京電力に対する不平・不満や自分の境遇に対する愚痴、それに、先行きが見えないことへの苛立ちや不安が話の中心だったと言います。ただ、それらを聞き続けているうちに、次第に「愚痴ばっかり言っていてもしょうがない」「何かしなきゃ」という声が聞かれるようになってきた。そして、それまでとは違う前向きな雰囲気の中で出てきたのが、「もう一度、絹織物をやってみたい」という声でした。

小高区は、以前、養蚕が盛んな場所でした。それをもう一度やり直してみたい。放射能のせいで農業はもうダメかもしれないけれど、桑なら育つだろうし、その葉を食べて育った蚕の糸には、放射能の影響は出ないかもしれない。どうせなら、機械ではなく、手で糸を紡ぎ、手で布を織ることからやってみたい…。

その話を聞きながら、井上さんが思い浮かべていたのは、大量生産・大量消費の経済社会のあり方に異を唱え、最期まで自ら糸車(チャルカ)を回し続けたインド独立の父、マハトマ・ガンディーのことでした。大量生産・大量消費の経済社会が必要とした原発の事故によって不毛になってしまった場所で、蚕(=天の虫)の力を借りて、手で糸を紡ぐことからもう一度やり直してみる。それは、この場所を捨てないで住み続けようと言っている人たちがやるのに、ぴったりの仕事のように思えました。そこで「お蚕様プロジェクト」を立ち上げることとしたのです(小高の人は、蚕のことを、親しみを込めて「お蚕様」と呼びます)。

今、あすなろ広場では、「お蚕様プロジェクト」を形にすべく、浮船の里のメンバーが中心になり、手織りの練習を始めています。機織り機を買う算段もつけました。暖かくなったら、蚕を飼うことも始める予定。素人集団に何ができるのかと不安になりますが、それでも何とか形にしてみたいと頑張れるのは、そこに物語の力を感じるからだ、と久米さんは言います。

ただ聞いてあげることが、人が前に進む手助けになる。聞き合う中、語り合う中で生まれてきた物語が、人が前を向いて歩いていく原動力になる。聞くことの力、物語の力を、小高区の住民たちによる小さな取組みは教えてくれます。

聞くこと。物語ること。みなさんの体験やご感想をお聞かせください。

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