MUJIキャラバン

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100年後の家具づくり

2012年11月16日

無印良品広島パルコ店を訪ねました。

なんとも温かみのある店構え。

中に入ると、店構えに負けない温かいスタッフたちが、
10月下旬からスタートしたキャンペーン
「ウール地球大」を体現しながら迎えてくれました。

すっかり寒くなってきた今日この頃、
世界中の寒冷地帯に生きる動物たちからの恩恵をまとって、
温まってみるのもいいですね☆

そんな広島パルコ店での人気商品は、
こちら!

「リアルファニチャー」無垢材家具シリーズです!
無垢材は、木のぬくもりが感じられて、心安らぐから不思議です。

ところで無垢材って、一体何のことなのでしょうか…?

「純粋無垢」という言葉がありますが、この場合の無垢は
「けがれがないこと」を意味します。

それと似たニュアンスで、無垢材とは、天然木をそのまま切り出し、
余分な手を加えていない木材のことを指すようです。

その分、重たいですが、木本来の質感が楽しめ、
使うごとに色艶が深まり、味わいを増していきます。

実は、これらの無垢材家具シリーズは、広島県で作られていました。
広島県は、全国でも有数の家具の町としても知られているんです。

早速、広島県府中市にある、
無垢材のダイニングテーブルを生産する工場を訪ねました。

案内してくださった瀬尾さんに、
府中市が家具の産地になったゆえんについて教えてくれました。

「もともと、旧松永港(現・尾道糸崎港)に入ってきた桐材を使って、
農閑期に家具を作り始めたのが由来です。
その後、タンスなど婚礼家具の需要にともない、発展していきました。
他の産地に比べ、そこまで木材が多くあった土地ではないので、
ノミ・カンナを使わせたら一丁前ですよ」

職人によってなんと40年も使い込まれたノミ・カンナを
特別に見せていただきました。

「機械化された現在でも、商品の良し悪しを決めるのは、
最後は人の手。木は生き物ですから」

その道40年の職人は、そう語ります。

実際、工場内には、大型機械が導入され、
家具用の大きな木材も自在に姿を変えていきます。

しかし、その多くの工程で、職人の手が加わっていました。

瀬尾さんは、
「何より、木を見る目がとても大切」
と語ります。

FSC(Forest Stewardship Council、森林管理協議会)等が認証した、
世界の森林保全のために、適切に管理された森林からの木材の中でも、
最高クラスの木材を仕入れ、

その中でも、良質な木材が職人の目によって厳選されるのです。

現在では、なかなか手に入りにくい節ありの木材を、
アメリカまで直接、仕入れに行って作られたダイニングテーブルも展開中。

節ありの木材は、そもそも少量しか採れず、扱いにくいため、
これまではあまり市場で使われてこなかったそうですが、
あえてそんな木材に注目し、味のある家具として世の中に蘇らせていっています。

「世界に一つとして同じ模様のないオリジナルのテーブルを、
ぜひ、店頭で見て、触ってみていただきたい」

瀬尾さんがオススメする無垢材(節あり)ダイニングテーブルは、
全国の無印良品大型店舗で、数量限定で販売中です。

続いて、無垢材のチェアを生産する工場を訪ねて、広島市佐伯区へ。

日本で最も古いデザインの椅子を生産し続けている工場で、
木材の複雑な加工を得意としています。

こちらでも同様に、
FSC認証の木材から厳しい目で木材が選ばれていっていました。

工芸の工業化を牽引した工場でもあり、
技術力の結晶のような機械が、目まぐるしく稼働しています。

「高価な機械でも、それを使いこなせるかが鍵です。
複雑なプログラミング技術を要しますが、それが技術力の差を生みます」

生産本部を担う三井さんは、そう語ります。

事実、座り心地を追求した曲線を実現するために、
こちらの機械では、縦×横×高×角度×回転の、
なんと5次元を制御しながら稼働させていました。

優秀な技術者でもプログラムを組むのに、
約2カ月を要するほど高い技術力が求められるそうです。

「ただ、仕上げはやっぱり人の手です。
ここで良品か否かが決まるといっても過言ではありません」

ここにも、日本の職人のていねいな手仕事がありました。

営業部門を統括する千葉さんは、
家具づくりにかける想いをこう語ります。

「100年後も世界で愛され続ける家具を作りたい。
そのために、長くものづくりを続けることが大切だと思っています」

一つひとつ異なる、生きた木材を使って、
常に同じ形のものを作り続ける難しさ。

その背景には、細部にまで手を抜かない、
日本の確かな技術力が生きていました。

国産の無垢材家具シリーズには、
日本のものづくりの技術と想いが結集しているように思いました。

広島から世界へ

2012年11月15日

広島に国産スニーカーブランドがあることをご存じでしょうか?

「SPINGLE MOVE(スピングルムーヴ)」

今から10年前に、広島県府中市で誕生したブランドです。

実はこのブランド、
1933年創業のゴム総合メーカー(株)ニチマンが立ち上げたものでした。

当初より、ゴム製の長靴や草履などを手掛けてきましたが、
輸入品などに押され、不況のあおりも受けて工場閉鎖の危機に。

「なんとか自社工場を残したい」という一心で、
約70年間にわたり培ってきた技術と知識を結集させ、
2002年に正式にスニーカー市場に参入したのです。

ブランド名の「SPINGLE MOVE(スピングルムーヴ)」とは、
スピンの進行形を意味し、世界に通用するシューズとして
一歩一歩らせん階段を上るように進化し続けたい、
という想いが込められていました。

すでにその技術力は海外からも評価され、
有名ファッションブランドとのコラボ商品も生まれていっています。

特筆すべきは、その製法です。

1839年にアメリカで開発された、
最も歴史のあるスニーカーの基本製法「バルカナイズ製法」。

アッパーとソール部分を別々に作り接着する
「セメンティング製法(写真左)」と比べ、
「バルカナイズ製法」で作られたもの(写真右)は、
アッパーとソールが密着している印象です。

この製法は、基本的に多くの工程を手作業で行うため、
生産効率の問題で、現在、国内工場はほとんど残っていないんだとか。

たまたまバルカナイズ製法で作られた靴が
加硫缶から出されるタイミングを拝見することができました。

「シュオーーーー!!」
という蒸気を発しながら開いた缶の中からは、

宙吊りのスニーカーが!
できたてほやほやのスニーカーに遭遇する機会はなかなかありません。

硫黄を混ぜたゴム材を加硫缶で加熱することで、
弾力のあるゴムに変わるんだそうです。

アッパー部分には創業当時、日本では珍しかったレザーが多用されています。

代表格のカンガルーをはじめ、牛、馬、豚、ラクダ、ゴート(ヤギ)、
シープ(羊)、クロコダイル、パイソン(ヘビ)、リザード(トカゲ)など、
実に様々なレザーが使用されてきましたが、
このバルカナイズ製法の加熱に耐えられる革を探すのは至難だそう。

これまでには、県内の尾道帆布を使用した布製靴など、
多種多様な素材・企業とのコラボレーションを実現していっています。

こうして生み出されるSPINGLE MOVEスニーカーは、
イタリアやアメリカの展示会でも高い評価を受け、海外へも展開し始めています。
おかげで現在では工場も朝から晩までフル稼働だそう。

生産者の持田さんは、
スニーカーづくりに対する想いをこう語ります。

「"安く仕上げよう"ではなく"より良いものを作ろう"。
これが、日本のものづくりに対する姿勢ではないでしょうか。
履き心地を追求して、細部にまでこだわっていきたい」

一度は閉鎖の危機に見舞われた日本の工場が、
想いと技術を結集させて蘇り、世界を席巻し始めています。

尾道帆布

2012年11月14日

「"すごいね〜すごいね~これ何かに使えないかしら!"
最初はね、そこから始まったんですよ」

少女のようにキラキラと輝く瞳で、
そう話してくださったのは
「工房尾道帆布(はんぷ)」代表の木織雅子さんです。

もともと飲食店を経営されていた木織さんは、
中小企業家同友会 尾道支部女性部の仲間と数名で
尾道に残る、向島の帆布工場見学に出掛けました。

「尾道には食べ物はたくさんあるけれど、
持って帰れるお土産物がないので、何か作れないかねぇ…」

ちょうどそう考えていた1998年のことでした。

織機の大音量が響き渡る工場で、
少しずつ織り上がっていく木綿の布を前に心が躍ったといいます。

尾道はかつて北前船の寄港地だった関係から、
帆布が盛んに織られていました。

帆布はもともと文字通り、帆船の布として生まれましたが、
厚手で丈夫、熱に強く通気性がいいという特徴から、
時代ともにテント、シート、作業服などにも使用されるようになり、
70年前には尾道市内だけでも帆布工場が10社ほどあったそう。

しかし、戦後になると化学繊維の台頭により、
帆布のニーズは減っていき、
今では工場も市内で1ヵ所になってしまいました。

木織さんは、縫製経験のある田口さんを誘って、
1999年に小さなポーチづくりから始めました。

「初めは布が厚くて家庭用ミシンでは針が通らなくて
とても苦労しました。
工場に相談して業務用ミシンを1台もらい、
クリーニング店の片隅でスタートしたんです」

と田口さんは当時を振り返ります。

今では作り手の数も増え、
トートバッグを中心に、小物・雑貨を広く展開しています。

生地がとてもしっかりしていて、使うほどになじんでいく、
シンプルですが、どこか優しい味わいです。

ちなみに、工房尾道帆布にはデザイナーはいません。
このタグのロゴも北前船のシルエットをモデルに
自分たちで考えたんだそうです。

現在、お店と併設して工房を構えており、
使う人の声をヒントにものづくりをされています。

「お客様のワガママをできるだけ取り入れたいと思って。
右利きと左利きの人だと、ファスナーの向きや
使いやすいポケットの位置も違うんですね。
お客様からいつもたくさん教わっています」

近年、尾道にはしまなみ街道のサイクリングを目的に
来られるお客様も増えているとのこと。

そんなライダーさんたちのための、
自転車用グッズもいろいろ開発されていました。

また、木織さんたちは地元とのつながりを大切にしています。
学生と共同で商店街の空き店舗を利用した
「尾道帆布展」を開催したり、
帆布を使ったワークショップを行ったり。

「駆け出しの頃、お金も場所もなくて困っていた時に
手を貸してくれたのが地元の人たちでした。
それを恩返ししていきたいと思っています」

地元の小学校でも、月1回出前授業を行い、
子供たちに帆布を知ってもらう取り組みもされています。

最後に今後の抱負を伺いました。

「今、お店の前でも帆布の原料である、綿(わた)を育てているんですが、
夢はしまなみ街道沿いを綿で埋め尽くすこと!」

帆布工場で「なんだか素敵!」と感じた感性を元に
次々と勢力的に取り組まれてきた木織さんたち。

実は、14年前、木織さんたちが工場見学をした時に、
別の団体も同じく見学に行っていました。
しかし、彼らは工場の社長の話を聞いて、
「繊維産業はもう厳しい」という判断をしていたんだそう。

同じ現場を見ても、こうして未来につなげられるかどうかは、
そこに可能性を感じられるか、
ワクワクできるかなんだなということを知らされました。

木織さんたちの地域に根差した取り組みは、
東南アジア諸国からも注目を浴び、
来月には実際に海外から視察団が来るそうです。

その土地の財産

2012年11月13日

「以前東京で働いていた時に帰省すると、
"もみじ饅頭(宮島名物)やきびだんご(岡山名物)を買って来て"
って、周りのみんなに言われましてね。
福山にもいいモノがたくさんあるのに、日持ちするモノが少なくて。
日持ちする福山産のお土産を作りたかったんです」

そう話すのは、15年前に帰郷し、
実家の製菓原料問屋を継いだ中島基晴さん。

2004年に地元の有志を集めて
「備後(びんご)特産品研究会」を発足し、
地元の特産品を次々と開発していきました。

まず初めに中島さんらが目をつけたのが
「保命酒(ほうめいしゅ)」と呼ばれる健康酒です。

保命酒は江戸時代の初めに、瀬戸内海の鞆の浦(とものうら)で誕生し、
もち米ベースの甘口のお酒の中に、
16種類の薬草を溶け込ませて造られたもの。

古くから万病・長寿に良いとされ、
江戸期には備後福山藩御用達のお酒として
贈答や献上品としても喜ばれてきました。

幕末には黒船で日本を訪れたあのペリー提督も
饗宴の席で口にしたんだとか。

「この保命酒は地元でも埋もれていたんです。
保命酒を身近に感じてもらうために、
これを使ってお菓子を作れないかと思いまして」

お酒や酒粕を使った飴、たいやき、ゼリー、
ジェラートなどを開発。
製造は地元のお菓子メーカーに担当してもらいました。

しかし、地元の小売店などで販売するも、
最初はなかなか広まりませんでした。

そんな折、静岡県・伊豆半島の下田港が
開港してから150周年を迎え、ペリーの子孫が来航する
という記事を新聞で読みます。

「これはチャンスだと思って、すぐに電話しました」

2005年5月の開港150周年記念式典の晩餐会で、
保命酒は来客に振る舞われ、
メディアを通してその存在が一気に全国へ知れ渡ったといいます。

その後も毎月商品を開発し続け、
その数は30種類以上までになりました。

実はこのスピード展開の裏に、
中島さんの戦略が隠されていました。

「特産品を1つや2つ作っても、
ジャンル別の棚に置かれてしまうと、それは埋もれてしまう。
"福山コーナー"を作ってもらうためには、
商品の数も必要だったんです」

商品には購入者に福山市を知ってもらう工夫もされています。

商品の裏に表示されているQRコードを読み取ると、
福山市のPRページに飛ぶ仕掛けや、
商品が一人歩きしても大丈夫なように、
パッケージに"ちょいと小話"というコラムを書いて、
福山の歴史や文化、特産品のいわれなどを発信しています。

また、将来を担う地元の学生にも協力してもらい、
ラベルやリーフレットのデザインをお願いしているそう。

普段自宅と学校の往復がメインの学生たちに、
実際に地元を歩いてもらうことで、
彼らにも地元の良さを発見してもらおうという企みです。

中島さんいわく、福山にはもともと船頭さんが多く、
各自が独立し、横のつながりを作るのが難しい土地柄だったそう。

「だけど、これからは横のつながりを強く持っていかないと、
世界で勝負できない」

もともと専門商社で働いていた中島さんは、
海外の様々な地域からコーヒー豆を輸入する仕事をしていました。

「コロンビア産、コスタリカ産、ブラジル産…
というように、コーヒー豆に地域の特色があったんです。
それは地元も同じだなと思って。
歴史の中でこれまで培ってきたものを活かして
協力して取り組んでいくことが地域の未来を作る」

中島さんのおっしゃる通り、
"歴史"とその中で築いてきた技術やモノこそが
変えることのできないその土地の財産なのではないかと、
これまで各土地を練り歩いてきた私たちキャラバン隊も、
感じていたところです。

「これは全国どこでもできること。
私はそれを実践しているだけですから」

そう謙虚に話された中島さんですが、
それを、身をもって体現されている中島さんは
間違いなく地域を盛り上げようとしている人たちにとっての、
素晴らしいロールモデルとなる存在でした。

はっさく大福

2012年11月12日

"フルーツ大福"といったら、
いちご大福を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、
広島の因島(いんのしま)で
「はっさく大福」なるものに出会いました。

袋の緑色のテープが葉っぱを表し、
まさにはっさくそのものを表現しているんだそう。

中を割ってみると…

みかんの皮が練り込まれた、うっすら黄色の餅生地で
白あんと、採れたての因島産はっさく果実がそのまま包まれています。

食べてみると、はっさくの実が口の中でプチプチと弾けます★
そして、ジューシーな果実の酸味と白あんの甘さが合わさって、
大福なのに甘過ぎない、絶妙なコラボレーションが完成しているのです!

大福というと、これまで和菓子のイメージ強かったのですが、
このはっさく大福は、コーヒーやワインなどにも合いそうですよ♪

白あんと、はっさくがここまでしっくりくるとは!
正直意外でした。

「甘いはっさくよりも、すっぱいはっさくを使う方がいいんじゃ」

そう教えてくれたのは、大きな窓からしまなみ街道のひとつ、
因島大橋が一望できるレストハウスで各種餅菓子を製造販売する、
「はっさく屋」代表の柏原伸亮さん。

「はっさく大福」はもともと因島発祥のはっさくを
広く知らせたいという想いから、
平成元年頃に餅菓子「かしはら」で生み出されたもの。

中身は同じなのに、皮の色みなどの問題で
規格外となってしまっていた、はっさくに目をつけました。

その後、家庭の事情で「かしはら」がお店をたたもうとし、
「これをなくしたらもったいない!」と思った柏原さんが
店主に頼んで技を伝授してもらい、「はっさく屋」を始めたのだそう。

「今でこそ、メディアに取り上げられて有名になったもんじゃが、
最初は大変だった。わしが配って歩いたんや」

柏原さんは、はっさく大福のおいしさを多くの人に知ってもらおうと、
土日に車でパーキングエリアを回って、試食を配りました。

後になって、その時大福をもらった人が
お店に訪ねて来ることも多かったと、柏原さんは振り返ります。

現在、はっさく大福は、はっさくが収穫される
10月中旬~お盆頃までの販売です。

使用されているのは、水気の抜けたパサパサの実ではなく、
採れたてのジューシーなはっさくのみ。

「わしの子供や孫の代まで、
因島産のはっさく大福が作れるといいんじゃが…」

因島のはっさく農家は高齢化が進んでいて、
後継者がいない家も多いといいます。

柏原さんご自身がそうだったように、
今度は、はっさく屋のはっさく大福を味わった人が、
「これを未来に残したい」と感じて、
今後につながっていく動きが生まれると素敵ですね。

それにしても、「はっさく大福」おいしかったなぁ…♪