MUJIキャラバン

「長崎」カテゴリーの記事一覧

原木われ椎茸

2013年12月04日

1980年、無印良品が生まれた年に発売された、
「こうしん われ椎茸(しいたけ)」。

生のものと比べ、旨みも風味も豊かで、高額だった干ししいたけを、
不ぞろいや割れたものも一緒に販売することで、市場に安価で流通させたのです。

「大きさはいろいろ、割れもありますが、風味は変わりません」

パッケージに印刷されたそのコピーには、
「訳あって安い」という無印良品の理念が込められていました。

それから三十余年。

市場環境は変化し、原木栽培が主流だったしいたけは、
菌床栽培(おが粉等をブロック状に固めたものに種菌を接種し、
きのこを栽培する方法)が、全体の約85%を占めるほどになりました。

現代において原木しいたけはもはや希少な存在ですが、
今でも原木でしかしいたけを栽培していないという地域があります。

長崎県の対馬(つしま)です。

海からこんもりと山が突き出したような地形の対馬には、
コナラやアベマキといった落葉樹が豊富にありました。

その風倒木などに、大陸から飛来する胞子が付着したのが、
対馬の原木しいたけのはじまりといわれています。

「対馬でも一時期、しいたけの菌床栽培がされたこともありました。
ただ、やっぱり原木栽培のものには敵いませんでした。
以来、誰が作ったしいたけでも、対馬産のものはおいしいと思ってもらえるよう、
原木栽培一筋でがんばり続けていますよ」

そう話すのは、とても朗らかな笑顔が印象的な永尾賢一さん。
対馬市で10名ほどしか認定されていない、原木しいたけマイスターの一人です。

永尾さんのほだ場(原木しいたけの栽培場所)を訪ねると、
そこには、見渡す限りに立てかけられた原木の光景がありました。

主に使われている原木は、アベマキやクヌギ。
いわゆる"ドングリ"ができるような木が、栽培に用いられています。

この原木に、等間隔で無数に打ちつけられているのが、
しいたけの菌です。

この菌が、原木に蓄えられたいっぱいの養分を吸収しながら、
夏場を越えて、秋から冬にかけてしいたけが生えてくるのです。

「おいしいしいたけが育つ環境は、人間にとっても気持ち良い環境なんです。
夏場は風が通って涼しく、冬場はぬくい(暖かい)。
いかに子育てに最適な環境を選ぶか、これが大事なんです」

そう話す永尾さんについて、今度は森の中にあるほだ場を訪ねると、

そこは木漏れ日が注ぎ込む、気持ちの良い環境です。

「むかで伏せ」と呼ばれる絶妙な組み方で並べられているのも、
できる限り陽の光が当たるようにとの工夫からでした。

それでも毎年、思うような天候にならないのが自然。
冬の寒さで、しいたけの成長が遅くなったときには、
袋がけで対策していたこともあるそうです。

「そうすると、"余計なことはすんな"としいたけから言われるんですよ。
現に、袋がけして育てたしいたけは、食感がいまいち。
やっぱり、自然のままに育ったしいたけが一番、おいしいんですよね」

こうして自然の力で育った原木しいたけは、
香り高く、身が締まっていて、肉厚です。

ただ、なかには厳しい自然環境の中で
割れたり、形がいびつに育ったものも。

「割れていても風味は一緒ですよ。
干すことによって、さらに旨みも凝縮されているんです。
良かったら食べてみませんか」

水に浸して戻した干ししいたけを、
永尾さんがバターと塩コショウでササッと調理してくださいました。

お言葉に甘えて、一口食べさせていただくと、
その歯ごたえと、口いっぱいに広がる風味に驚愕。

浸しておいた水には、しいたけの旨み成分、グアニル酸が溶け込み、
簡単に出汁もとれていました。

「おいしいでしょう。森を食べているようなものですから。
良い食品は、毎日食べていても飽きないのですよ」

満面の笑みで話す永尾さんの食卓では、
煮物から、炒め物、お味噌汁など、様々な料理にしいたけが使われるそう。

なんともうらやましい限りですが、
思えばしいたけはパスタやハンバーグソースなど、
和食のみならず洋食などとの相性も良いですよね。

干ししいたけなら、戻し水で簡単に出汁がとれてしまうのも嬉しいところ。
ちなみに、干ししいたけは急いで戻すのではなく、
冷水でゆっくりと戻すのがよいといいます。

我が家の食卓も早速、しいたけのおかげで、旨みも風味も豊かになりました。

そんな永尾さんをはじめとした、
対馬の生産者が丹精込めてつくった原木しいたけが、
12月7日(土)から、 無印良品 MUJIキャナルシティ博多で始まる
「Found MUJI九州」で、限定販売される予定です。

12月7日(土)14:00〜は、しいたけマイスター永尾さんのトーク&試食イベントも。
(参加費無料)

無印良品としては1980年以来、三十余年ぶりに「われ椎茸」が復活です。
しかも、価格は当時と同じ568円。

原木しいたけの風味を手軽にお試しいただく絶好の機会です。
近くにお越しの際には、ぜひお立ち寄りください♪

対馬の海と森が育てた塩

2013年11月13日

長崎県に属する島、「対馬」(つしま)。
九州と韓国の間の対馬海峡に浮かぶことから、"国境の島"と呼ばれています。

長崎空港、福岡空港から飛行機で約30分、
または博多港からフェリーで、4時間前後で行くことができます。

対馬は島の約89%が山地で、山のミネラルがそのまま海に注ぎ込んでいます。

「対馬の海はとてもキレイで海藻の宝庫。
これだけの海と海藻があるんだから、それを活かした塩を作りたいと思いまして」

株式会社白松の浜御塩(はまみしお)工房を訪ねると、
代表の白木桂介さんが迎えてくださいました。

「もともとは塩の輸入からスタートしました。
専売法解禁後、やはり国産の塩づくりがしたいと思うようになり、
日本全国の塩を調べていくなかで、対馬にたどり着いたんです」

白木さんたちは、"アラメ"や"ホンダワラ"といった海藻を使った
藻塩の作り方を独自に開発。
その作り方を見せていただきました。

まず、取水した海水を逆浸透膜や立体式塩田で濃度を上げていきます。

続いて、塩分濃度の上がった海水に海藻を入れて煮詰め、
平釜で炊いていきます。
海藻をじっくり煮詰めることで、旨み成分が海水に溶け込んでいくのです。

また、この工房では他では見たことのない、
珍しい現場を目にすることができました。

それは、塩工房とパイプでつながったこの小屋の中にあり、
入るとヒノキ風呂のような、木の香りが漂います。

それもそのはず、こちらの塩工房では2011年からバイオマスボイラを導入。
木材チップを燃やして、その蒸気熱を使って釜を焚いていました。

「うちの塩づくりの理念は『ミネラル還元運動』なんです。
山のミネラルが海になり、海水とそこで育った海藻から塩ができる。
燃料には対馬の山から採れる間伐材を利用しています」

工場長の権藤正展(ごんどうまさのぶ)さんが
ボイラ導入の背景を以下のように語ってくださいました。

「木材チップの場合、重油の変動にも振り回されないし、
地域の業者からチップを購入するので、地域内循環が可能になります」

こうして地元の木材と海水、海藻を使ってできた塩は、
まさに対馬の海と森が育てた味。

塩を口に含んでも、しょっぱさをほとんど感じずに
むしろ甘みを感じるほどです。

世界中の塩を知る白木さんに世界の塩との違いを聞いてみました。

「岩塩は塩自体の味が主張するので、お肉などに合います。
一方、海水からできる塩は、食材のうまみを活かしてくれる。
おにぎり、天ぷら、野菜などに合いますね。
海水はそもそも体の蘇生成分に似ているから、
体に入れても抵抗を感じないと思います。
体にスーッと溶けるように吸収されていくはずです」

同じ塩でも、海水からなのか岩塩なのか、はたまた塩湖水なのか、
海藻を入れるのかなどの原料によっても、
釜炊きなのか天日干しなのかなどの製法によっても、味が変わってきます。

その日のメニューや好みによって塩を使い分ける。
それだけで普段の食卓が豊かになるかもしれませんね。

※対馬で作られている「浜御塩(はまみしお)藻塩」は、
Found MUJI取り扱い店舗でお買い求めいただけます

野菜の一生

2012年10月19日

人にはそれぞれ生まれ持った個性があるように、
それは野菜においてもいえることを、
長崎県の雲仙市吾妻町で農家を営む
岩崎政利さんに教えていただきました。

「今はまだ赤ちゃんですが、よかったら見ていってください」

岩崎さんが赤ちゃんと呼んでいるのは、野菜の苗のこと。

私たちが岩崎さんの畑を訪れた10月初旬は、
9月に植えたばかりという種が発芽して間もないタイミングでした。

「こいつらは一つひとつ個性が強いので、
欠点を抑えて、良いところを伸ばしながら育ててあげるんです」

岩崎さんは、まるで我が子のことを話すように、
野菜の育て方について話してくださいました。

この個性が強いといわれているのは、在来種のこと。
岩崎さんは絶滅危惧の在来種の野菜を、種から育てているんです。

江戸時代の日本には、大根一つ取ってみても、
全国に150以上の種類があったそう。

それが流通の発達により、形のそろった均一の野菜じゃないと
市場で値段がつかないようになり、
形の良い大量生産に向いた品種に絞られていきました。

「そうした品種は、種ができにくかったり、
できたとしてもどんな子が生まれるか分からない。
これまで代々受け継がれてきた在来種は、
形はいびつですが生命力にあふれています」

岩崎さんの両親の世代ぐらいまでは、
農家は代々作ってきた野菜の種を採取していたそうですが、
現在では、種苗会社が精力かけて開発した
作りやすい野菜の種を買うのが一般的なんだそう。

そのため、各地で作られてきた在来種の野菜は
絶滅が危惧されているのです。

岩崎さんは、こうした在来種の種を地元はもとより全国から譲り受け、
ここ雲仙の土地で育て、後世に残そうとしています。

収穫した野菜から、母となる野菜を選別。
畑の一角に植えられた母野菜は、
冬を越え、春になると花が一斉に咲き誇ります。

花が輝くこの時期が、一番野菜と近づけると岩崎さんはいいます。
どんな野菜になりたいか、と花と語らい合うんだそう。

そして花はやがてサヤとなり、刈り取られ、じっくりと乾燥させられます。
それを一つひとつ岩崎さんが手でほぐし、
風であやしながら種を採っていくんです。

「在来種が、その風土や作り手の想いに応えてくれるようになるには、
最低5年はかかります。種が採れるのは年1回ですから」

こうして何年、何十年と採り続けられる種は、
徐々にその土地になじみ、農薬や肥料をやらなくても
土そのもので育つだけの強い生命力を備えていくそうです。

そもそも岩崎さんがこうした農業を手掛けるようになったのは、
30年ほど前。

それまで当たり前に使っていた農薬の影響か、
2年間ほど寝たきり状態になるほど体を壊したことがきっかけでした。

「はじめは仕方なく有機農業に切り替えたのですが、
やがて自分にしか作れない野菜を作りたいと思うようになったんです」

今では、全国から岩崎さんの元に在来種が集まり、
県の依頼で、有機栽培に強い品種の検査も担っています。

「野菜の一生を見ることができる農業は素敵」
そう岩崎さんはいいます。

最後に、一つの野菜を大切そうに抱えながら、
こんなことを話してくれました。

「このカボチャは、地震の起こる数年前に、
福島の農家から預かった在来種のカボチャ。
今、向こうでは作れなくなってしまったから、
この種をつないでいくのが、私の使命と思っています」

その土地土地で代々受け継がれてきた在来種は、
今こうして岩崎さんをはじめとした
数少ない生産者の手によって守られています。

地域のためのデザイン

2012年10月18日

先日のブログでご紹介した、
福岡県の小石原COCCIOプロジェクト

このプロジェクトに関わるデザイナーの城谷耕生さんのスタジオが、
長崎県雲仙市小浜町にあると聞いて訪れました。

するとそこは、眼下に橘湾が広がる海沿いのスタジオ。

スタジオ横の緑地では、レモングラスほかを栽培するなど、
自然と触れ合いながら仕事ができる環境です。

小石原をはじめとした焼き物の産地では、昔から「半農半陶」といって、
ある時は農業、ある時は陶器を作りながら生活していましたが、
デザイナーでもこうした生活スタイルを実践している人がいるとは。

「都心で家賃のために稼ぐような働き方はしたくなくってね。
こうした地方の開放的な空間に身を置くべきだと考えたんです」

爽やかな笑みを浮かべながら、
城谷さんは開放的なオフィスの奥から現れました。

かつて無印良品の家具も手掛けた
イタリア人デザイナー、ENZO MARI(エンツォ・マリ)氏と
イタリアでともに仕事をしていた城谷さんは33歳の時、帰国。

帰国当初は都市部のリノベーションの仕事に多く携われたようですが、
デザインの力を地域のために活かしたいと、
故郷であるこの地にスタジオを構えられました。

そして、近年の城谷さんの仕事は、
先述のCOCCIOプロジェクトに代表されるように、
伝統工芸の技術を、現代の需要に活かしてものづくりを行う
というものが多いそう。

例えば、この「FARO」というコーヒードリッパー&カップ。

これは長崎県の波佐見焼で作られたもので、
コーヒーの粉さえあればオフィスでも簡単に
美味しいコーヒーが入れられるようにとデザインされたものです。

上段には環境に配慮してステンレスフィルターが使われ、
蓋はその上段部分の受け皿にもなります。

シンプルでいて高機能とは、まさにこのこと。

また、同じ波佐見焼では、こんなものも。

波佐見焼というと、昨日のブログでも取り上げたように、
少し青みがかった白色の磁器が一般的なのですが、
あえて釉薬にグレーを使用しています。

これは、陶磁器づくりでは付き物の「鉄粉」という小さい黒点を、
デザインとして取り入れるための工夫でした。

焼き物ではこの「鉄粉」が付いてしまうと、
一般的に不良品扱いされるのですが、あえてデザインとすることで、
ものづくりの過程における無駄をなくしたのです。

城谷さんが意識しているのは、
地域の労働者のためのデザイン。

「1日の終わりに、今日も楽しく仕事ができたと、
作っている人に思ってもらえるようなデザインをしたいんです」

そう話す城谷さんは、
必ず作っている人と顔が見える関係であることが重要といいます。

「自分がデザインしたものが、海外の知らない人たちに作られて、
というのは自分の求めるスタイルじゃないので。
自分の仕事に血が通っているか。そこは大切にしています」

今では、日本各地のみならず、韓国でも仕事を手掛ける城谷さんは、
毎月、現地へと足を運んでいます。

日本ほど伝統工芸が残っていない韓国では、
新たな伝統工芸を作り出すプロジェクトを進めているそう。

「伝統には、無意識に引き継がれてきたものと、
あえて作り出されてきたものの2通りがあるんです。
新たに作り出す方が明らかに大変ですが、ワクワクしますよね」

そのために現地の学生たちとともに、
韓国の衣食住について徹底的にリサーチして、それを基に、
未来の陶磁器がどうあるべきかを話し合っているんだとか。

COCCIOにしてもそうでしたが、
この徹底したリサーチと議論の過程を踏むのが、
城谷さんの仕事の真骨頂と言えるかもしれません。

一体、どんなものが生まれるのか楽しみです。

「利益追求のためのデザインをするのか。
それとも地方の資源を活かすために、デザインの力を使うのか。
それはデザイナー次第」

そんな城谷さんの言葉が脳裏に焼き付いています。

こうした城谷さんのような動きが活発化していくと、
地域はもっと面白くなっていきますね。

いただきます

2012年10月17日

私たち日本人が食事の前に言うことば、
「いただきます」。

当たり前のように日々つぶやいている、このことばですが、
改めてことばの意味を考えさせられる機会がありました。

豚カツ、豚汁、豚キムチ…

これらのおかずが食卓に並んだ時に、その「命」を想像することはありますか?

今回訪れたのは、長崎県北部の佐世保市江迎町(えむかえちょう)にある、
林さん親子が運営する「味菜自然村」。

ここでは約70頭のブタが、高原の中でのびのびと暮らしています。

代表の林拓生さんは大学卒業後、
脱サラして農園を営んでいた両親を手伝い始めましたが、
「自分には細かい農業よりも、畜産が向いている」と考え、
6年前に養豚を始めました。

大学で環境循環を学んでいた拓生さんが取り組んだのは、
「自然」をテーマにした、放牧養豚。

ブタたちは、昼間は放牧地帯で自由に過ごし、
夜になると自分たちで小屋に入って寝るそうです。
私たち人間と同じですね。

5ヘクタール(東京ドーム1個分強)の敷地は、
いくつかの放牧スペースに分けられ、兄弟(5~8頭)ごとに放牧されていますが、
使用する放牧地は、草を育てるためにも半年ごとに入れ替えるそう。

拓生さんについて、放牧スペースに行ってみると
肝心のブタが見当たりません。

「ブーチン!ブーチン!!」

拓生さんがそう呼びかけると、
どこからともなく次々にブタが集まってきました!

自然の中で育っているブタですが、拓生さんには
すっかり懐いている様子。

餌をもらえると思ったのかもしれませんね。

餌は1日1回、夕方に与えるそうですが、
地元の病院や老人ホームからもらってきた残飯や野菜を煮てから乳酸発酵させ、
オリジナルの飼料を作って与えています。

発酵飼料はブタの腸内活性を促し、ブタの健康を保つと同時に、
糞のニオイを抑える役目もあるそうです。

そういえば、ブタの近くにいても、
ほとんどニオイが気になりませんでした!

ムシャムシャ… モグモグ…

ブタって草も食べるんですね。
拓生さんがあげた草をおいしそうに食べる彼ら。

すると、拓生さんから驚きの発言が!

「ブタは土も食べるんですよ。ミネラルが含まれているので」

歴代のブタたちが食べてできた洞窟がありました。
放牧したからこそ、分かったブタの習性です。

「味菜自然村」では、出産も自然分娩で、母ブタの生む力に任せるそう。
ちょうど5日前に生まれたばかりの子ブタを見ることができました。

以前は、竹やぶの中で出産したブタもいたそうですが、
生まれたばかりの子ブタが脱走してしまったことがあり、
今は畜舎で出産し、生後数ヵ月経ってから放牧するそうです。

こうしてブタは食肉となるまでのあいだ、
「自然」の中で極力ストレスをかけずに育てられ、
その生涯をのびのびと過ごします。

拓生さんは
「食べる人のためにも、自然のまま元気に育てることが使命です」
と語ってくれました。

今回の取材で数時間いただけでも、ブタに情が移ってしまった私たち。
生まれた時から愛情を注いで育てている拓生さんは
どんな想いで出荷しているのでしょうか?

「あまり何も考えないようにしています。
ただ、ブタに感謝して、無駄にはしないようにしていますね」

「味菜自然村」で育ったブタのお肉は、会員になった人が購入できますが、
注文が1頭分になるまで待ってもらうこともあるといいます。

食事の前の「いただきます」は、
生き物の命をいただくことへの感謝の気持ちを、
食後の「ごちそうさま」は、
おいしい食材を育ててくれた生産者や
その食材を調理してくれた人への感謝の気持ちを、それぞれ表すことばです。

心のこもった「いただきます」と「ごちそうさま」を言うには、
まずは食材の生産現場を知ることが大切かもしれません。

食欲の秋に

2012年10月16日

いつの間にやらすっかり秋ですね。
秋といえば…
読書の秋、スポーツの秋、そしてやっぱり「食欲の秋」!

脂ののったおいしいさんまの季節ですね☆

無印良品アミュプラザ長崎では、
さんまの季節にピッタリの人気商品、その名も
白磁 さんま皿
をデデーンと見せていただきました!

このお皿は昨日のブログでもご紹介した、
長崎県の中央部にある波佐見町で作られているんです。

さんまを丸ごと一尾のせることができて、
仕切りがあるので、大根おろしの汁も気にしなくて済みます。

「さんま皿」という名はついていますが、
もちろんその他のお魚料理にも使えます。

実は長崎県は日本一、島の数が多い県。
つまり、海に囲まれていて海産物に恵まれている土地なのです。
長崎でこのお皿が人気なのも納得ですね♪

そして、長崎では「かまぼこ」も人気って知っていましたか?
通称"かんぼこ"として親しまれ、
様々な種類のかんぼこが売られていました。

そう言われて見てみると、長崎の名物料理、
「長崎ちゃんぽん」にも、

「茶碗蒸し」にも、

「具雑煮」(島原のお雑煮)にも、

しっかり"かんぼこ"が入っていました。

でも残念ながら、長崎が"かんぼこ"で有名って
県外にはあまり知られていない事実。

それをもっとPRしていこうと、
長崎市内のかんぼこ屋さんや飲食店、行政や各種団体が一緒になって
「長崎かんぼこ王国」を昨年、建国したそうですよ!

その戦略商品第1弾として、「長崎おでん」なるものを開発。
飛魚(あご)ベースの出汁に、長崎のかんぼこ屋さんが作った
練り製品を入れるのが条件だとか。

スーパーでも見かけましたし、県内の飲食店で
これからの季節にお楽しみいただけるようです。

「食欲」は冬になっても変わらなそうですね…!

ロングライフデザイン

2012年10月15日

佐賀県と長崎県の県境にまたがる「肥前皿山地区」は、
豊富な天然資源を背景に、各地で焼き物の生産を主産業としてきました。

焼き物の産地に必要だった条件、

1. 斜面があること(登り窯を作るため)
2. 燃料(松)があること(登り窯を焚くため)
3. 水が豊かなこと(唐臼を動かすため)
4. 原料(陶石・陶土)があること

以上の4つが、「肥前皿山地区」にはそろっていました。

4つ目の原料は、「豊臣秀吉の朝鮮出兵」で連れて帰った
鍋島藩の李参平という陶工が、1616年に、有田の泉山で陶石を発見。

ここから、日本で最初の磁器生産が始まったといいます。

肥前皿山地区のひとつで、長崎県の北東に位置する
波佐見町(はさみちょう)は、
四方を山に囲まれた内陸の町で、佐賀県有田町とも接しています。

町を見渡すと、あちこちに窯の煙突を見ることができ、
「やきものの町」であることが一目瞭然です。

献上品などを作っていた隣町の有田と違い、
波佐見では一般の人々が日常使いできる器を作っていました。

その代表ともいえるのが「くらわんか碗」。

江戸時代、商人が小舟で「酒食らわんか餅食らわんか」と声をはりながら
食事などを大型船に対して売った「くらわんか舟」に由来するそうですが、
船の上でも中身がこぼれないように、どっしりとした構えの器です。

手頃な金額で売られた「くらわんか碗」は、多くの庶民の人気を得て、
"磁器は高級なもの、庶民には手が届かない…"
というそれまでの常識を大きく変えました。

そして、需要が増えた波佐見焼の窯は巨大化、
大量生産を行うようになったそうです。

その証ともいえる、全長170m、33窯部屋を持つ、
世界最大といわれる巨大な登り窯の跡がありました。

この手軽で良質な生活の中の器を作る波佐見地区で、
無印良品の波佐見焼および白磁シリーズは作られています。

青みがかった、透けるような白さが特徴です。

そして、これらの白磁を語るのにはずせない人物が、
陶磁器デザイナーの故・森正洋氏。

彼との協業で無印良品の白磁の器が生まれたのです。

今回は、森正洋氏とともに働き、現在も無印良品の器を生産をしている
生産者の元を訪ねました。

「先生はよくこうおっしゃっていました。
"時代やくらしが変わっているのに、焼き物だけ変わらないのはおかしい"と」

当時、森氏のアシスタントをされていた阪本さんはこう振り返ります。

森氏は、素材は伝統を守りながらも、形・デザインは新しく、
現代の生活にいかに根差すかを考えていきました。

森氏が一番大事にしていたものは、
人々の生活の中で長く使われるもの=「ロングライフデザイン」。

※森正洋氏の直筆のラフ画

「孫の代まで仕事があるように、10年、20年続くものを作ろう」と、
例えば、めし茶碗はこのデザインになるまで、
何度も何度もラインの幅などを見直していたそうです。

さらに、商品化された後も、自分がデザインした器を使って、
"生活に根差したデザイン"かどうかを試し、
その使い勝手を追求し続けていたといいます。

さて、そんな波佐見地区で最近人気のこの商品も作られていました。

白磁歯ブラシスタンド

一人暮らしや二人暮らしなどの場合に、
スペースをとらずに歯ブラシを置くことができる優れものですが、
実はこの商品、作る工程においても優れたポイントがありました。

器を焼く際の窯の隙間が埋められるため、焼成の工程において無駄がないのです。

これは、森氏が1961年度の「第1回グッドデザイン大賞」を受けた
「G型しょうゆさし」の開発概念と同じ。

このように氏のものづくりへの姿勢は
現在も波佐見地区の職人に受け継がれていました。

「G型しょうゆさし」が今も変わらず私たちの食卓で使われているように、
「白磁歯ブラシスタンド」はじめ、波佐見地区で新たに開発されるものも、
未来へ残るロングライフデザインとして作られていくのだと思います。