MUJIキャラバン

「和歌山」カテゴリーの記事一覧

棕櫚たわし

2014年03月19日

掃除・洗い物・料理などに欠かせない、
くらしの道具、「たわし」。

現在、市場に出ているたわしの多くは海外製ですが、
今も国内で生産し、一部、原料も純国産にこだわる生産者がいると聞き、
現場を訪ねてきました。

舞台は、和歌山県の北部沿岸部に位置する海南市。

車で走っていると、山の斜面に
南国の空気を漂わせる植物が生えているのに気付きます。

このヤシ科の植物こそが、元来のたわしの原料である
「棕櫚(しゅろ)」でした。

棕櫚は、廃棄する部分がないといわれるほど、
利用価値の高い樹木として、古くから様々な道具に加工されてきました。

葉はハエたたきや草履に、棕櫚の木はお寺の鐘つき棒などに、
また、種は薬に用いられてきたそう。

そして、耐水性、耐腐食性に優れている、棕櫚皮の繊維は、
たわしやほうき、縄などに使用されてきました。

しかし、大量生産・大量消費の時代になると、国内での原料不足により、
海外産のヤシの実の繊維(パーム)に依存することに。

「うちも一時期は、パーム製のたわしを作っていました。
でも棕櫚の良さには敵わない」

そう話す、髙田耕造商店の代表・髙田英生さんに、
たわし作りの現場をご案内いただきました。

まず、毛捌き機を使って、棕櫚の皮の繊維を整えます。
太さのそろった繊維は、まるで馬の毛のようです。

続いて、短くカットした繊維を針金の間に均一の厚みになるように広げていきます。

この時、繊維の絡みをほぐしながら、適度な量を見極めるのが職人技。

この工程が、後から繊維が抜けにくく、
風合いの良いたわしに仕上げる1番のポイントだとか。

そして、棕櫚の繊維が均一の厚みに広がったことを確認したら、
コイル状に一気に巻き上げます。

繊維が抜けないようにしっかり巻き締め、
たわし用の散髪機にかけて繊維を整え、U字型に曲げたら、
ようやく見慣れたたわしの形状が見えてきました。

「棕櫚製のたわしは、細かくてしなやかな繊維が汚れをかき出すので、
力を入れなくてもよく落ちる。
硬いというイメージが強いたわしですが、
棕櫚は使い込むとさらに柔らかくなるんですよ」

髙田さんがおっしゃる通り、
これまで持つとチクチクした印象のあった、たわしですが、
棕櫚製のものを手にすると、ふっくらと優しい感覚が伝わってきました。

髙田耕造商店では、用途に合わせて様々なたわしを開発。

もともと棕櫚の皮は、雨風にさらされても大丈夫なように、
強くしなやかな特性を持っています。
そのため、パームたわしやスポンジなどに比べて、
棕櫚たわしは長持ちし、カビなども生えにくいといいます。

最近では、国産棕櫚を使ったボディたわし(写真上手前)が人気だそう。

「忘れ去られていた国産棕櫚を復活させようとした当初は、
周りから全然相手にされなかったんですよ。
それを息子が頑張ってくれましてね」

髙田さんがうれしそうに話してくれました。

髙田家の長男、大輔さんは料理人の道を目指しましたが、8年前に帰郷。

大好きな祖母と車で近所を走っている時に、
棕櫚を見て言われたある言葉に、はっとさせられたといいます。

「棕櫚のおかげで、おばあちゃんは髙田家にお嫁に来られたのよ」

家業の原点、すなわち自分のルーツにあった棕櫚の存在。

「その時、棕櫚山を守ることが、自分のやるべきことだと思ったんです」

大輔さんは、駆け回って、当時を知るおじいちゃんやおばあちゃん達を探しました。
そこで出会ったのが、峰伸汎さんです。

当時、峰さんは、これ以上使い道のない棕櫚をどうしていくか頭を悩ませており、
山を手放すかどうかのちょうど瀬戸際だったといいます。

「大ちゃんに出会うまでは、数十年、誰も棕櫚には構わなかった…」

一度は人々から忘れ去られてしまった、紀州の棕櫚でしたが、
髙田耕造商店の取り組みによって、再び日の目を浴びています。

しかし、大輔さんの挑戦はこれにとどまりません。

「日本で唯一の国産棕櫚を使用した、たわしを作るという夢は叶えられつつある。
ただ、僕の使命は、棕櫚山を再生し守ること。まだまだこれからです」

近い将来、海南市に新しい棕櫚産業が生まれているかもしれない、
そう思わせてくれる大輔さんの言葉と、
これからの髙田耕造商店の活躍に、とてもわくわくしてきます。

発祥の地の醤油

2013年03月01日

各地で見てきた「同じようで違うもの」の一つ、お醤油。
これまでもいくつかの場所で醤油蔵を訪れてきましたが、
そんなお醤油の発祥の地が、和歌山県の湯浅町にありました。

鎌倉時代に、禅僧・覚心(かくしん)が中国から
「金山寺味噌」の製法を持ち帰り、味噌づくりを開始。

金山寺味噌は調味料ではなく、おかずや酒の肴としてそのまま食べる味噌で、
瓜、茄子、しそ、しょうがなどを刻んで仕込みます。
この醸造過程で野菜の水分が桶の上に溜まり、
それを使ってみたらとてもおいしいことが分かり、
調味料として改良したのが醤油の起源といわれています。

現在、醤油の四大産地とされる、野田(千葉県)、銚子(千葉県)、
龍野(兵庫県)及び小豆島(香川県)には
いずれも湯浅からその製造技術が伝わったんだとか。

最盛期には湯浅町の醤油メーカーは92軒あったそうですが、
今も残るのは4軒で、さらに原料から醸造しているのは2軒のみ。

「醤油は熟成期間が長いので、お金になるまでに時間がかかる。
それもあって醤油メーカーが減少し、うちも父の代で醤油づくりを縮小しました」

そう話すのは、明治14年創業の丸新本家の5代目で、
現在「湯浅醤油」の代表取締役社長も務める、新古敏朗さん。

新古さんは、高校卒業後に大阪の学校に進学し、
そこで自分の故郷が醤油の発祥の地であることを初めて知り、
「醤油の伝統を絶やしたくない」「本物の醤油を世界に広めるべきだ」
という想いを胸に、周囲の反対を押し切って、
新たに2002年に醤油メーカー「湯浅醤油」を立ち上げました。

平均120年前の吉野杉の樽で作られる醤油は、
すべて国産の原料にこだわり、最低2.5年以上熟成させたものです。

「もろみは生き物なので、杉樽じゃないと呼吸ができないんですよ。
ただし、樽を作れる職人は現在では全国に2人しか残っていない」

蔵のご案内をしていただいた、林一郎さんが教えてくださいました。

「原料の違いでこんなにも味が違うというのが分かります。
ぜひ試してみてください」

そういわれて一つひとつ試してみると…

表現が難しいのですが、口に含んだ瞬間にその違いは明らか。
どれもとてもスッキリとしていて、透き通るような味わいです。
そして、それぞれにストーリーがあるのです。

なかでも、こちらの「魯山人(ろさんじん)」と呼ばれる醤油は、
芸術家で美食家としても知られていた北大路魯山人が、
病床に持ち込んでいた手づくりの醤油差しに合うような、
"今の便利さを一切用いず、その昔あったような醤油"をコンセプトに、
「魯山人倶楽部」と共同開発したもの。

主原料の大豆と小麦は、
無農薬・無肥料の自然農法で栽培した北海道の折笠農場のものを使用しています。
ちなみに、折笠農場の折笠健さんは、
青森のりんご農家で難しいとされる自然農法を成功させた、
業界内では知らない人がいない「奇跡のりんご」木村秋則さんの一番弟子だそう。

「魯山人の名に恥じないような"奇跡の醤油"ができたと思います」

ほかにも、新古さんは伝統を守りながらも、カレー専用の「カレー醤油」や、
まぐろのトロをおいしく食べるためだけに「トロ醤油」を開発する一方で、
「子どもたちに体験を通して湯浅の伝統産業を伝えていきたい」
と、8年前から地元の小学生に醤油づくりの授業を行っています。

驚いたのが、小学生は醤油づくりだけでなく、
大豆づくりや麹づくりをも体験するというのです。

その理由を新古さんは次のように語ります。

「原料から作る大変さを知ってほしい。
子どもらに失敗しながらの成功を知ってほしい」

農業指導は、農家の三ツ橋さんが担当。
自身の息子には農業をさせなかったことを反省し、
子どもに農業のよさを伝えたいと、新古さんと共鳴したそう。

子どもたちの醤油づくり体験は、
地域の伝統産業を未来の担い手に伝えると同時に、
学校が地域の人々と結びつくキッカケにもなっています。

「日本には大事なものがたくさん残っている。
もっと日本の伝統文化に目を向けてほしいと思ってやっています」

小学生と一緒に作ったマイ醤油をうれしそうに眺めながら、
その想いを話してくださった、新古さん。

醤油発祥の地・湯浅町では、伝統の味とその味を守り続ける担い手が
確実に育っていっているのだと思います。

無印良品のシール織り

2013年02月28日

和歌山県では、無印良品 ガーデンパーク和歌山を訪れました。
「待っていました!」と店長に連れられて向かったのは、寝具コーナー。

「これ、和歌山県で作られているんですよ!!!」

そういって見せてくださったのは、「綿シール織毛布」でした。

この毛布は日本の中でも和歌山県の高野口地区だけで、
昔ながらの製造方法で作られているものなんだそう!

高野口とは、弘法大師空海が修行の場として開いた高野山の麓。
私たちも週末に、プチ修行体験に出掛けていた場所でした。

既に通ってきてしまった後で、
この旅路では取材に訪れることができない場所で残念がっていると、
「こうやって手作業でよこ糸を引き抜くんですよ」
と、店内でまさかの実演を見ることができました。

実は、昨年10月に近畿エリアのスタッフのみなさんで、
高野口の綿シール織毛布の生産現場に、実際に足を運んでいたのでした。

シール織りとは、SEAL(アザラシ)の毛皮のようにふわふわとした風合いの織り方で、
両面のパイル糸がしっかりと挟み込まれて織られていて、
パイル糸が抜けにくい構造になっているといいます。

シール織りの歴史は明治時代の初めに、
シール織りのルーツとなる再織(さいおり)という特殊織物の製法が
高野口に住む前田安助氏によって創案されたことに始まります。

再織は世界的にもチェコスロバキア以外に類のない手工業的技術の特殊織物で、
当時の外国商館からカーテンやテーブルクロスなどの注文を受け、
アメリカに輸出して好評を博していたとか。

その後、大正時代に研究が繰り返され、シール織物が考案されて、
量産可能な機械化にも対応するように。

とはいえ、生産工程には、手作業の部分が多分に残っています。

よこ糸を引き抜く作業は熟練の職人さんが2人ペアで、
息の合ったテンポで行うそうです。
1本でも抜き漏れると、スジになってしまうので、
集中力と腕力が必要なことの想像が容易につきます。

私たちも店舗で体験させてもらったのですが、
なかなか力のいる作業で、均等に引き抜いていくのは至難の技でした。

表面は機械的に毛羽立たせた起毛ではなく、
糸の撚り(より)を糸に傷がつかない掻き方でブラッシングしてほぐしていくので、
肌触りが抜群! ふんわり綺麗に仕上がることから"花を咲かす"と呼ばれるそうです。

起毛の場合は掻きだすので、
綿だと洗濯後の形状変化や毛羽落ちの問題が出てしまうのですが、
シール織りは使用中に毛玉にもなりにくく、
洗濯を重ねても、毛羽落ちしにくいという優れた特長があるそうです。

裁断も機械ではなく手作業で、
2人組で目視検品しながら行うので、ほとんどのキズなどはこの工程で止められ、
仕上がりがキレイなのはこのためでした。

実際に生産現場へ行ったスタッフからは、以下のような感想が挙がっていました。

「当たり前のように無印の店頭に並んでいると感じていた商品が
『大工場』による『大量生産』でなく、
『職人の手仕事』により『一つひとつ丁寧に作られている』
という事実に改めて驚き感動した」

「国内生産、地場産業により地域の歴史と伝統の継承、
雇用促進、経済活動へつながっていることを知った」

「一つひとつの商品には作り手の想い、愛情、熱意が込められており、
それをそのままの温度でお客様へお伝えしていければ…」

シール織り毛布のよこ糸抜き体験にご興味ある方は、
無印良品 ガーデンパーク和歌山のスタッフさんにお声がけしてみてください♪

未来へつなげる昔ながらの梅

2013年02月27日

おにぎりやお弁当でおなじみの「梅干し」。

中国では紀元前より、酸味として用いられており、
塩と並んで最古の調味料といわれています。

料理の味加減を表す「塩梅(あんばい)」の語源も、
塩と梅のバランスが良いことに由来するのだそう。

原料となる梅の国内シェア約6割を誇る和歌山県では、
例年より早く2月上旬に梅の花が咲き始めていました。

一年を通じて温暖な紀伊半島南西部に位置するみなべ町は、
梅の日本一の産地で、代表品種「南高梅」発祥の地でもあります。

南高梅が登場したのは昭和20年代のこと。

地域で栽培されていた114種類の梅の中から、
5年の歳月をかけ、最優良品種を選抜した結果、
最も風土に適した高田家の梅が選定されました。

その際、調査研究に深く関わった南部高等学校園芸科の努力に敬意を表し、
「南高梅」と名付けられたんだとか。

現在では、みなべ町で生産される梅の約8割を占めるそうです。

そんなみなべ町で、数ある梅農家のなかでも、
無農薬・無肥料栽培に挑む農家があると聞いて伺いました。

「てらがき農園」

減農薬栽培を手掛けていた父の後を継いだ、農園長の寺垣信男さんは、
枝の剪定作業まっただ中でした。

「こうして枝を切ってあげないと、梅の実に栄養が行き届かないんですよ。
大変ですが大切な仕事です」

幼い頃から農作業する父親の背中を見て育ったという信男さんは、
驚くほどのスピードで剪定を進めていらっしゃいました。

ただ、そこにはてらがき農園ならではの剪定のコツがありました。

強いものを残し、余計な枝をカットしていく考えは同様ですが、

一般的には開放自然型と呼ばれる形状に仕上げていくのに対し、

てらがき農園のものはこの通り↓

枝が上へ上へと向かっているのが分かるでしょうか?
これは、あえて下に生えてくる枝を剪定しているため。

こうすることによって実が付いても枝が垂れにくくなり、病気になりにくいんだとか。
農薬を与えずに育てるための工夫でした。

「それでも、農薬を使った場合と比べ、出荷できる品数は1/10程度です。
だからといって価格を10倍にするわけにいきません。
すべては、本当に体が喜ぶ梅を作るためです」

そもそも、てらがき農園が無農薬・無肥料に取り組み始めたのも、
お客さんの「これからも体に良い梅を作り続けてください」という
感謝の声からだったそうです。

どれだけ消毒をしても、毎年何かしらの病気が発生していたことから、
いっそ農薬を減らしてみようと実践し、減農薬栽培を確立。

そんな折にいただいたメッセージだったために、
減農薬でも罪悪感を覚えたんだそう。

完全無農薬に切り替えることに葛藤を覚えながらも、挑戦を始めた信男さんは、
有機肥料で栽培した作物が早く腐りやすいことを知り、無肥料にも挑みます。

今では納豆菌などを散布し、
病原体の繁殖を抑制したり、土壌改良に役立てたりしているようです。

「収穫したら、はい出荷ってわけにいかないのが、梅農家ならではですかね」

信男さんがそう話す通り、
てらがき農園では梅干しづくりまで手掛けていました。

最近では消費者が自分で加工する需要から、青梅で出荷することも増えているようですが、
それでも梅干しにする量の1/10にも満たないそう。

完熟の梅を、塩漬けにし、

これを2週間ほど天日干ししていきます。

ほとんどの農家では、3~4日ハウスで乾燥させ、等級分けされた梅を
二次加工業者へ卸し、そこで味の調整が行われ梅干しとして出荷されますが、
てらがき農園ではその後の工程すべてを自社で行っていました。

自社の蔵で3年間寝かせられた梅からは、自然に中の塩分が出て、
梅本来の酸味がきいた、昔ながらの梅干しに仕上がっていくのです。

一粒いただくと、まるで体が欲していたかのように、
口中から酸味が吸収されるような感覚で、
思わず種の中の"仁"までむさぼるように食べてしまいました。

自然にとって優しい栽培法で作られた梅は、
体にとっても優しいものでした。

「シンプルに考えるようにしているんです。
自然の恵みからいただく農業なら、ずっと続けていける。
梅の木が持つ本来の力で、実が付けられるようにお手伝いをするだけです」

今や3児の父となる信男さんは、
まるで子供を育てるような口調で梅についても話します。

次の世代、その次の世代にも続けられるようにと、
100年後も見据えた農業を追求していました。

紀州備長炭

2013年02月26日

旅の序盤、栃木で取材させてもらった「下野菊花炭」。

くぬぎを原料に低温で焼かれる"黒炭"で、
樹皮も残り、軟らかい仕上がりでした。

その切り口が菊の花のように美しいことから「菊炭」とも呼ばれ、
火着きもよく、茶道の世界で重宝されています。

一方、焼鳥屋やうなぎ屋など、炭火を使う店先で、よく目にする「備長炭」の看板。

高温で焼き締められる"白炭"で、硬くて火持ちがよく、
調理用の炭として重宝されています。

そんな備長炭発祥の地・和歌山県、
その中でも紀州備長炭生産量日本一の日高川町を訪ねました。
人里離れた山中に、炭焼き窯は点在していました。

「煙が出るから、あまり人里に近いわけにいかんわけです」

田中孝(たかし)さんは、その道30年以上の製炭業のプロ。

備長炭の"備長"とは、紀州・田辺藩(現田辺市)の商人、
備中屋長左衛門が販売したことに由来するんだとか。

現在では、その製法が伝わった高知で"土佐備長炭"、
宮崎で"日向備長炭"が作られています。

紀州備長炭の原料は主にウバメガシと呼ばれる、
紀伊半島南部に多く生息する繊密で極めて堅い木材。

主に樫の木が用いられる"日向備長炭"と比べると、さらに堅い印象です。

※写真左「ウバメガシ」、右「樫」

曲がった枝の角に切れ目を入れて、木製のくさびを挟むことで真っ直ぐにして、

これを自家製の窯の中で縦にくべ、3日間かけて徐々に蒸していきます。

「土佐備長炭の方では、同じウバメガシを用いながらも横にくべる。
このやり方は紀州備長炭の特徴やな」

縦にくべる方が、木内部の水分が抜けやすく、高い温度で焼成できるそう。

こうして徐々に乾燥させた木を、窯口を閉めて蒸し焼きにし、
その後、徐々に窯口を広げて酸素を送り込み、炭化を促すのです。

この時、窯の温度は1000度以上。

自然と対話しながら、天候によって窯の加減を最高の状態を保てるか。
炭焼き師の腕の見せどころです。

そして、徐々に窯から出し、素灰をかけて消火。

ゆっくりと温度を下げ、完成した炭は、
もともとのウバメガシの大きさの1/7程度に縮んでおり、
叩くと金属音のようなキーンという音が響きました。

こうして焼き締められた炭は、着火しにくいものの、
火持ちがよく、煙が出にくいことから、
料理に雑味を与えずにじっくり焼けるのです。

また一見、内部に隙間がないほど焼き締まっているように見えますが、
実は、その内部には無数の小さい空洞が通っていました。

端に石鹸水をつけ、息を吹き込むと、ほらこの通り。

空洞から息が伝わり、細かい泡ができました!

水道水に備長炭を入れておくとカルキ臭が抜けるとか、
部屋に置いておくと消臭効果があるなどいわれるゆえんは、
この細孔に化学物質が付着しやすいためだそう。

時代に合わせて炭の用途は変化してきています。

「これは私の父が焼いた炭です。重くて堅いでしょう。
今の時代、ここまで焼き締めてしまうと、着火しにくくて好まれない。
使ってもらう人に合わせて、炭づくりも変化させていかなくてはならないんです」

田中さんと窯を並べる和歌山県木炭協同組合の副理事長でもある、
日高川町紀州備長炭保存会の会長・足川修さんは、
炭を見つめながらしみじみとそんなことを話してくれました。

伝統製法を守りながらも、時代のニーズに柔軟に対応していくことは、
どの業界においても必要なことなのかもしれません。

「秋津野ガルテン」にきてら

2013年02月25日

今回の舞台は、和歌山県中南部に位置する田辺市上秋津(かみあきつ)地区。
昔からこの地域は、みかんと梅の里として知られ、
私たちが訪れた2月上旬は、ちょうど梅の花が咲き始めた頃、
山の斜面にはみかんの果実が輝いていました。

その日は地域の農家レストランがリニューアルオープンするということで、
ランチをしに行ってみると、そこは木造建ての小学校の校舎でした。

平成に入り、この地域には外部から人が移り住み、人口が急増。
上秋津小学校も手狭になり、近くに新校舎が建てられました。
旧校舎はそのまま解体される予定でしたが、
「地域資源を生かそう」と、住民がお金を出し合って買い取ったといいます。

ドイツ語で"庭"を意味する「秋津野ガルテン」と名付けられたその場所は、
レストラン「みかん畑」のほかにも、スイーツ工房兼ショップの「バレンシア畑」、
みかんの歴史やいろはについて展示している「からたち」に
宿泊施設も兼ね備えていました。

「この地域は、もともと愛郷心が強い人が多くて。
昔からコミュニティづくりに力を入れてきました」

先述した平成初めの人口増加によって、
新旧住民の間にトラブルが増え、それを解決するために、
子ども会や消防団、PTAなど11地区の地域団体が集まって
「秋津野塾」を平成6年に設立したのだと、
秋津野ガルテン専務取締役の木村則夫さんが教えてくださいます。

「地域活動にはそれなりに活動資金が必要で、
当時はまだ珍しかった『直売所』を作ろうって話になったんです。
行政に訴えたけど認めてもらえず、結局地元の有志が31人、
各人10万円ずつ出資して10坪ないプレハブからスタートしました」

しかし、すぐにうまくはいきません。設立して半年で倒産の危機に…。
「みかんの里でみかんが売れるものか」といわれていたそう。

そんな危機を救ったのが、「秋津野まるごとセット」でした。
最初は地元の人がお歳暮などのギフトに購入し、
それをもらった人がリピートするようになりました。

その後は、それまで農協に出荷していて
ほとんど利益の得られなかったジュース用果実を、
自分たちで輸入した機械でジュースに加工することで、
それまでの約10~15倍の利益が得られるように。

地元の方言で「来てね!」を表す「きてら」という名の直売所は
20坪に拡大し、現在では年商およそ1.5億円、年間6万人が訪れる場所になりました。

「『きてら』と『秋津野ガルテン』が相互に影響しています。
地域資源の生かし方を考えて、我々が物語を作って情報発信していかないと。
今は"価値"の時代であり、"選択"の時代。
地域が面白いなぁと思って、若い人に選んでもらえるようにね」

「きてら」代表取締役社長兼
「秋津野ガルテン」代表取締役副社長の玉井常貴さんが話すと、
木村さんもこう続けます。

「粘り強く、いろんな方向から玉を進めてやってきました。
自分たちでお金を出してやってきたのがよかったのかもしれませんね」

住民が主体になり、地域でお金が回る仕組みを作った秋津野地区。
農家だけでなく、商売人もサラリーマンも、
立場の違う人々が皆、それぞれの得意分野を生かして活動してきました。

そして、そこには「外に出て行った人をどうにか引き戻したい」
という共通の想いがありました。