MUJIキャラバン

「香川」カテゴリーの記事一覧

うどん県のうどん事情

2012年12月14日

「このたび香川県はうどん県に改名いたします」

と斬新なキャッチフレーズで観光キャンペーンを打ち出したのは、
記憶に新しい2011年のこと。

事実、香川県民の家計における「うどん」の消費量はずば抜けており、
観光客も香川の魅力について、第一に「うどん」を挙げるというデータもあるそうです。

滞在した1週間のあいだ、うどんを食さない日はなかったぐらい、
うどん三昧の毎日を送った私たちでしたが、不思議と飽きがきませんでした。

それもそのはずで、その食べ方も具材も実に多彩。

釜あげにぶっかけ、しょうゆにダシ汁、カレーはもちろんのこと、

トッピングは肉、人気のちくわ天、ゴボ天、かきあげ、
なかにはたまご天なんていうものまで!

そのお店のスタイルも「一般店」をはじめ、「製麺所付属店」、
最近では「セルフ」といって、カウンターでうどんの玉数を注文し、
あとは自由にトッピングを加えることができるスタイルのお店も多く、
なかには、自分でうどんを湯通しするところもありました。

県内に700店舗ほどあるといわれるうどん店が、
しのぎを削り合っているわけなので、
そりゃどこもおいしいし、様々な創意工夫が生まれるわけです。

そもそも香川県でここまでうどんが食されるようになったのには、
その風土が大きく影響しているといわれています。

降水量が少なく、たびたび干ばつに悩まされてきた香川では、
お米の安定的な生産ができなかったため、代わりに小麦の生産に力を入れてきました。

また、19世紀はじめには全国の約90%の塩が瀬戸内海沿岸で作られていたほど、
香川でも塩づくりが盛んでした。

さらに、先日ブログにアップした良質な小豆島の醤油、
豊富な瀬戸内海産のダシの素になるイリコ(カタクチイワシ)と、
うどんの原料となる素材が手に入りやすい環境にあったのです。

つまり、香川ではうどんは米の代用食のようなものだった様子。
これが、昭和45年の大阪万博で「讃岐うどん」の名が全国に広まり、
その後の瀬戸大橋開通などによって、店舗展開に拍車がかかったそう。

今ではその圧倒的な安さとおいしさゆえに、
他の外食麺レストランの進出は困難だそうです。

それにしても、なぜ讃岐うどんはここまでおいしいのでしょうか?
せっかくなので、讃岐うどんの本場、琴平町で、うどん打ちを体験してきました!

まずは中力粉に食塩水を加え、全体にまぶしていきます。

この食塩水の塩加減を、冬<春秋<夏と変えることが、
年間を通してコシのあるうどんに仕上げるポイントだそう。

そして、しっかり手でこねあげたら、それを袋に入れて足踏み。

これがコシの強さを生みます!

その後、ある程度(季節に応じて1~3時間)寝かせて熟成。
これに打ち粉を振りかけて手で広げ、麺棒で延ばしていくんです。

麺棒を生地に巻きつけながら前方に押し出すように延ばし、
そのまま生地を浮かせながら手前に戻すという「すかし打ち」は、
讃岐独特の高度な技法だそうです。

こうして均等に延ばした生地を重ね、3~5mm間隔で切っていきます。

これをたっぷりのお湯の中に入れて茹でること約10分。

讃岐うどんの完成です!

これをダシ汁で食べるもよし、ぶっかけで食べるもよしですが、
今回はしょうゆで頂きました。

つるつるしこしこの麺は、
ちょっとした味付けだけで極上の味でしたよ♪

その土地に根ざした食には、
その土地ならではの背景、秘伝がありました。

うどん県での人気商品とは!?

そんなうどん県の県庁所在地にある
無印良品 高松店」の人気商品はなんと…、

自転車でした!

平地の多い高松市内では、自転車で通勤・通学する方も多いんだそう。

高松店は、市街地の中心地にあるため、
自転車を買って、すぐに乗って帰るお客様もいらっしゃるそうです。

なかには、三輪車から始まって、16→20→26インチと
ずっと無印良品の製品を使い続けてくださる方も!

おいしいうどんをたくさん食べて、自転車で消費する。
これがうどん県のライフスタイルなのかもしれませんね!

「醤の郷」の醤油づくり

2012年12月13日

このキャラバンのテーマの一つでもある、
同じ名を持ちながら、土地によってわずかに違うもの。

その代表格の一つが「醤油」ではないでしょうか。

これまでの旅路にも各県、必ずといっていいほど、
その地に根ざした醤油蔵が現存し、
地域の味覚に合わせた醤油づくりが行われていました。

一般に関東は濃口、関西は淡口、九州は甘口…といわれるように、
地域の味覚が違うことを象徴しているように思います。

そんな醤油にも、日本四大産地と呼ばれる土地があり、
旅のスタート時に訪れた千葉県の銚子をはじめ、
千葉県の野田、兵庫県の竜野、香川県の小豆島(しょうどしま)がそれに当たります。

その内の一つ、香川県の小豆島を訪ねました。

人口3万人強のこの島には、
最盛期には400もの醤油の蔵元が存在したそう。

温暖で雨が少なく乾燥した気候が、
麹菌の発育など醤油づくりに適した環境をもたらすようで、
現在でも20の蔵元がしのぎを削っています。

なかでも小豆島町の馬木(うまき)~苗羽(のうま)地区は
「醤(ひしお)の郷」とも呼ばれ、
昔ながらの街並みに、食欲をそそられる香ばしい香りが漂います。

国の有形文化財に指定されている蔵も多く、
今回訪ねた「正金醤油」もその一つ。

大正9(1920)年から続く蔵元は、
現在4代目の藤井泰人さんによって引き継がれています。

「小豆島で醤油づくりが発展してきた理由は、
その地の利が大きいと思いますよ」

とても優しい笑顔で、小豆島の醤油づくりの歴史を教えてくださいました。

農耕地が少なかった小豆島では、他地域との交易が必要で、
そのために塩づくりが盛んに行われていたそうです。

そこに、本土から醤油や素麺の製法と桶が持ち込まれたことで、
その塩を使った加工業として醤油づくりも栄えていったんだとか。

また、現代のような陸上交通網が整備されていなかった時代において、
海運輸送の要所であった小豆島はとても有利で、
九州から大豆や小麦を仕入れやすく、大消費地、大阪・京都へ出荷しやすかったことが、
小豆島で醤油づくりが発展していった最大の要因だそう。

その後、品質を担保するための自主規制や、醤油税の導入、
戦争による食糧統制という厳しい時代を切り抜けたのが、
現在、残っている20軒の蔵元というわけです。

「20軒ともに、それぞれの作り方があるんですよ。
"管理方法""熟成する期間""出荷時の成分"、これによって醤油の味わいは変わります」

分かりやすくその製法のポイントを教えてくれた藤井さんの後について、
蔵の方へお邪魔すると、そこには大きな杉製の桶が。

この桶のことを、小豆島では「こが」と呼んでおり、
ひとつで5400リットル、搾ると4000リットルの醤油を作ることが可能。

この桶を128も有している正金醤油では、
中身を管理しやすいように桶の高さに合わせて2階部分が建てられており、
そこからの光景は、まるで木製の温泉を思わせます。

「左は昨日、仕込んだばかりの桶、右は仕込んでからもう1年ほど寝かせた桶」

色みからも、その深みの違いを想像できます。

醤油づくりは、蒸した大豆と小麦を混ぜたものに麹菌を加えた醤油麹に、
塩と水を加え、じっくりと発酵・熟成させたもろみを最後に搾るわけですが、
この発酵・熟成の期間は、蔵によっても桶によっても様々だそうです。

麹菌が作る酵素が、大豆や小麦に含まれる栄養素を旨味成分に分解する過程、
いわゆる"発酵"と呼ばれる期間は、自然醸造では5~6カ月といわれており、
そこから先は、味を落ち着かせるための"熟成"の期間に当たります。

機械で温度・湿度の管理が可能な大手メーカーでは、
一般的に、発酵期間が3~4ヵ月と短くて済み、
熟成前の個性の強い状態のもので出荷されますが、

「カレーは一日寝かせた方がおいしいでしょ」

と藤井さんが表現するように、寝かせることで醤油そのものの"角"がとれ、
こなれた味へと変化していくそうです。

正金醤油では、1~2年間熟成させ、
この使いこまれた桶に住む微生物の働きによって、
ここならではの醤油ができあがるのです。

「杉製の桶だからって、いい醤油というわけじゃないんですけどね」

そう謙虚に話される藤井さんは、
その管理もいい醤油づくりの条件として挙げます。

かき混ぜる工程で飛び散ったもろみをキチンと掃除するか、
そういった基本的なところで、醤油の出来が決まってくるそう。

謙虚な姿勢で、基本に忠実にといったあたり、職人らしさがにじみ出ています。

こうしてじっくり醸造された醤油を味見させてもらうと、
これが実にまろやかな味わい。

「うちは"素材の良さを引き出す"ための醤油づくりを心がけています。
醤油は料理の引き立て役だと思っているので」

そう話す藤井さんは、どこまでも謙虚。
醤油にその性格が反映されるのも、当然のことかもしれません。

出荷先も全国に広い正金醤油では、
淡口醤油(写真左)、濃口醤油(写真右)二段仕込み醤油(写真中央)と、
顧客の味覚に合わせた様々な醤油をはじめ、

料理に使いやすいダシやつゆ、ポン酢も作っています。

もちろん調味料づくりにおいても、
「素材の味を引き出す」という姿勢は変わらず。

醤の郷、小豆島の醤油づくりは、
瀬戸内海の気候のように、実におだやかでゆかしいものでした。

菓子木型と和三盆

2012年12月12日

ものづくりの現場を見て回っていると、最近、
「これを作るのに使われている道具は一体どうやって作られているんだろう…」
そんなことを考えるようになりました。

そして、今回高松市では、私たち日本人の自慢ともいえる
繊細な和菓子づくりを支える「菓子木型」の職人に会いに行ってきました。

「寝て起きて木型を彫って、寝て起きて木型を彫っての繰り返し。
でもレジャーはいらない。木型がレジャーでもあり、ギャンブルでもあり、
木型の仕事がいろんな所へ連れてってくれるからね!」

「人生菓子木型一筋」ときっぱりと言い放ったのがとても印象的であり、
そんな天職に巡り合っている、目の前にいる職人さんを
うらやましくも感じてしまいました。

その方は、木型工房市原を営む、市原吉博(いちはらよしひろ)さん。

菓子木型の卸し業の家に生まれ、付き合いのあった職人さんから基礎を学び、
28歳で自身の工房を設立しました。
菓子木型の職人は、現在全国に数人しか残っていないという貴重な存在です。

作業をする市原さんに質問を投げかけると、返ってきた答えは、
微笑みながら「ワイパーワイパー」。

こちらがキョトンとしていると、

「嫌とは言わない。もし言わなきゃいけない時は笑って"ワイパー"や。これで幸せ」

"ワイパー"とは、左右に動く車のワイパーのことで、
つまり"NO(ノー)"を表しているそうなのです。
なんともユーモアたっぷりの職人さんです!

その後も次々と名言が口から飛び出します。

「NO(ノー)と言えないアーティスト、それが職人」
「"3D"、"でも・だけど・だって"は禁句」
「愛の連鎖は自分から」

市原さんの発する言葉のひとつひとつは
メロディーのようであり、そのまま書いて飾っておきたい作品のようでもあります。

でも、スゴイのはしゃべりだけでなく、もちろん本業の技も!
木に描かれた細かいデザインを、彫刻刀を使って彫っていきます。

1つの作品を作るのに、形や太さの違った、約50本の彫刻刀を使うといいます。
ズラリと整列した彫刻刀たち…

そういえば、この彫刻刀もまた菓子木型を生むための道具ですね。
彫刻刀の持ち手部分は、自分の手に合うように
市原さんご自身で作られるそうです。

上述した通り、NOと言えない、いや、言わない職人である市原さんが
作ってきた菓子木型の数々がショールームに展示してありました。

木型を眺めているだけでも、なんだかわくわくしてきます♪
すると、市原さんが作ったこの木型を実際に使って、
和菓子を作れる場所があるというのです。

市原さんの工房から5軒先の「豆花」です。

ここは市原さんのお嬢様である、上原あゆみさんが3年前に始めた
"和三盆体験ルーム"。

和三盆とは、東かがわ市と徳島の一部で伝統的に生産されているお砂糖のことですが、
これを型押しして作られた落雁(らくがん)のような砂糖菓子(干菓子)の総称としても、
「和三盆」という名が広く知られています。

早速、あゆみさんの指導のもと、和三盆づくりを開始。

薄力粉のようにサラサラな和三盆を、まずは水でしめらせ、ふるいでこしていくと、
ふわりと甘い黒糖のような香りが漂います。
(ピンク色は食紅で色付けたもので、もともとの和三盆の色は白です)

それを木型に入れて、指でギュッと押さえたら、
木型の上板をはずして、そのまま下板をひっくり返したらもう出来上がり!

想像以上に簡単で驚きました。
これなら、小さな子供からお年寄りまで、誰もが楽しめますね。
実際、おばあちゃんとお孫さんや、3世代で体験に来るお客様もいるそうです。

私たちは、今回、2人で8つの型を使って作らせていただきました!
福梅、おたふく、猫&肉球、合格、千鳥、雪の結晶、オリーブにキューブ。

出来立ての和三盆を口に入れると、ふわぁ〜と甘みが口の中いっぱいに広がり、
あっという間にとろけていきました。
なんともおいしく、そして上品なお菓子なのでしょう!

こうして体験してみると、菓子木型だけを見ていた時よりも更に、
ひと味もふた味も違った感動を覚えます。

木型はお菓子のデザインとは左右逆に彫ってあり、
お菓子にした時に浮き出る部分は、より深く彫られているのです。

市原さんが作る木型はほとんど前例がなく、
いつも試行錯誤を繰り返しながら、ひとつを徹底的に作りあげていくそう。

「これよく見てください! ひとつひとつ表情が違うんですよ。
それが手づくりの魅力ですよね」
と、あゆみさん。

実はあゆみさんは、木型そのものにではなく、
実際に木型が使われているシーンを見て、その虜になったんだとか。

「父の仕事のことはほとんど知らなかったんですよ。
それが、数年前に東京でやった、とあるアート展を見に行って、
そこで和菓子職人さんが父の木型を使ってお菓子を作っているのを見て感動して。
それをみんなに知らせたいと思って始めました」

市原さんが菓子木型を作り、あゆみさんがその使い方を伝える…
この親子のタッグでいろいろな場所へ出掛けていっています。
最近では地元の小学生に、和三盆と菓子木型について講演もしているそう。

「職人だって営業していかないといけない時代」

そう話す市原さんが独自に認定する「木型Girls」が、全国に20人ほどいるそう。
その条件とは、「木型もしくは和三盆が大好きなこと」
「木型を10個以上持っていること」「木型を利用してイベントが組めること」。

これまで脇役だった菓子木型という道具は、市原さんとあゆみさん親子によって、
確かにその存在を世の中に知らしめていっています。

鼻緒のはきもの

2012年12月11日

高松市の観光通りを1本入った路地にある「黒田商店」の扉を開けると、
目に飛び込んできたのが、とってもカラフルな鼻緒たち。

鼻緒はご存じ、下駄や草履の台部につけて足にかけるひも(緒)のこと。
台と鼻緒の組み合わせを変えるだけで、こんなにもはきものの表情は変わってくるんですね!

黒田商店は、廃材であるタイヤを使ったタイヤ底草履の製造・卸し業として、1916年に創業。
戦後、2代目の時には高度経済成長時代で自社の製造では追いつかず、
仕入れメインにシフトします。
そして、現在は3代目の黒田重憲(しげのり)さんの時代で、
オリジナルの鼻緒や、自社開発したはきものを販売するようになりました。

きっかけは、重憲さんの奥様、恵(めぐみ)さんが自分で履いてみた時に
履き心地があまりよくなかったこと。
加えて、あまり好みのものも見当たらず、
それでは「自分たちが履きたいはきものを作ろう」と、
ご夫妻で7年半の歳月をかけて、オリジナルのはきものを開発しました。

それがこの「マイソール下駄」です。

革張りの下駄の中身には特殊なゴム素材が入っていて、
足にふんわりとしたやさしい履き心地を与え、
履けば履くほどその人の足にぴったりな形になってくるのだそう。

接客時にマイソール下駄を愛用中の、スタッフ村川さんは
ずっと立ち仕事をしていても足が全く痛くならないと教えてくれました。

「最近の靴は性能がよすぎて足の筋肉が育たないんです。
下駄は筋肉や骨を治すというより、本来の姿にもっていってくれるんです」

私たちも少しの時間でしたが、試し履きをさせていただくと、
ソールに少し傾斜がついていて、
マイソール下駄で歩くと自然と体重移動が起こり、背筋がピンとなるのが分かりました。

それから、下駄の鼻緒はもちろん好きなものに変えることができます。
鼻緒の生地は、恵さんが世界中から集めてきた布。

着物の古布から、

こんなにポップでキュートなものや、

さらにはアフリカ・マリ共和国の泥染めなんていうものまで!

その種類は約1000点にも及びますが、
幅2センチ、長さ15センチの小さなキャンパスに表現されるデザインは、
同じものがほとんどないといいます。

また、鼻緒の中には、足当たりがいいようにと、
日本のふとん用の上質綿をブレンドして使っているそう。

「鼻緒のはきものの魅力を全国行脚でみなさんにお伝えしようと思って」

電話口でそう話されたのは、恵さん。

黒田さんご夫妻は、「実際にはきものを履くお客様の声を聞きたい」と
12年前から百貨店などに出向いて、好きな鼻緒とはきものの台を選んでもらい、
その場で挿(す)げる「ライブ」(展示販売会)で全国を巡っているのです。

年の半分くらいは全国をかけ回っていて、残念ながら
今回私たちが高松にお邪魔している時に、お2人は千葉県にいらっしゃいました。

代わりにお弟子さんの松木さんに、実際に挿げていただきました。

一般の下駄屋さんでは畳の上で作業をするのが一般的だそうですが、
黒田商店では椅子に座って洋服で作業するスタイルです。

松木さんは実は、数年前にたまたま銀座でライブ中だった黒田ご夫妻の姿を見かけて、
そのパフォーマンスに惚れ込んで、何度も頼んでこの世界に入った人でした。

「下駄ってかっこいいなと思って。
靴の時よりも、下駄の方がどんな服着ようかってわくわくしてくるんですよね!
将来的に、町を歩いている人の多くが下駄を履くようになればいい」

そう話す松木さんの足元はもちろん、下駄。

村川さんも松木さんも、洋服にごくごく自然に下駄を合わされていて、
"下駄=和服用の靴"という概念が見事に覆されました。

これまで勝手に抱いていたモノのイメージというのは、知らないからだけであり、
それをきちんとプロデューサー本人から教えてもらえる場はとても貴重ですね。

鼻緒のはきものの可能性を追求し、
お店を飛び出してその魅力を発信されている黒田さんご夫妻には
以下のライブ会場でお会いできるそうです。

2012年12月5日〜18日 @三越 銀座店新館(M2階)
2012年12月25日〜30日 @伊勢丹 新宿店(6階)
2013年1月3日〜15日 @松屋 銀座店(7階)

自然界の縮図「盆栽」

2012年12月10日

日本を代表する文化のひとつ、「盆栽」。

世界でも「BONSAI」として広く親しまれ、
私たちも世界一周中、訪れた欧米では町中に専門店をよく見かけたほどです。

※2010年ハンガリーにて撮影

日本貿易振興機構(JETRO)によると、
庭木をあわせた昨年度の輸出額は10年前の約10倍で、過去最高を記録したそう。

小さな鉢の中で育てられた草木には、壮大な自然の景色が表現されており、
芸術品としての評価も高いようです。

平安時代に中国(唐)から日本へ伝わったといわれており、
江戸時代に武士のあいだで高尚な趣味として親しまれ、
今日まで独自の文化として進化してきました。

「細かい日本人の気質に合っていたんだと思いますよ」

そう語るのは、高松市にある清寿園の園主、平松清さん。
その道40年の盆栽師です。

高松市の西部、鬼無(きなし)と国分寺地区は、
松の盆栽の全国シェア約80%を占める一大産地。

平松さんにその理由を尋ねると、

「昔からこの辺には、よお松が埋まっとったんや。
高"松"っていうぐらいやからのぉ」

高松の名称の所以の真偽は分かりませんが、
その歴史はさかのぼること約200年前、この土地の愛好家が
自生する松を栽培し、販売したことに始まります。

農耕地が少なかった香川では、農家の副業として盆栽の栽培が盛んになり、
水はけのよい砂壌土で育った松は、
「根腐れしにくく、傷まない」として定評があるそうです。

この盆栽、素人の私たちは
てっきり松をミニチュアに品種改良したものと思っていたのですが、
自然に自生しているものなんですよね。

もちろんその種は、秋によく見かける…、

松ぼっくり、通称「松かさ」です!

「この形のええやつを拾ってくるんや。それがいい松に育つ」

平松さんは実際、松かさから苗を育てていました。

本来は松かさから種を採取してそれを植えるようなのですが、
こちらはあえてその姿を見せるスタイルのもの。

鉢の中だけに根を張っていく植物は、
その鉢の大きさに応じて、成長するサイズも変わるんだそうです。

「徐々にその姿形を変えていくのが盆栽の魅力」

そう語る平松さんは、時間をかけてじっくりと育てていく盆栽では、
その植物の特性を熟知し、対話していくことが大切だといいます。

時に「針金かけ」などの技法を利用しながら、枝ぶりを整え、
その芸術性を高めていくのが、盆栽師の腕の見せどころ。

このようにして、様々な樹形が生み出されていきます。

こちらは「吹流し」と呼ばれる樹形。

自然界でも一方向からの風や障害物のために生じる樹形で、
幹も枝も一方向になびいています。

続いて、こちらは「根上がり松」とよばれ、
地中で分岐した根元の部分が、風雨にさらされて露出されている状態です。

縁起が良いとされ、贈呈用としても重宝されてきたんだとか。

平松さんは、人が苗から育て上げるものよりも、
ある程度、過酷な自然環境で育ったものの方が、
素晴らしい姿を見せてくれるといいます。

ただ、現在では気候の変化と松くい虫によって、
自然に自生する松は少なくなってきているそう。

「昔は、近くの山にもいい自然の松が育っとった。
でも、今はなかなか見んようになったなぁ」

そう話す平松さんは、盆栽師のことを"植物のドクター"と呼んでいました。

「販売して以上終了って仕事じゃなくって、
病気などで調子の悪くなった盆栽を、立ち直らせることもよくあります。
キチンとメンテナンスしてあげれば松は100年も200年も生きよるから」

実際、高松市内の名勝、栗林公園には、
樹齢200年余といわれる五葉松がありました。

2世紀ものあいだ、高松を見守ってきた松は、
まさに自然と人間の作り上げる芸術そのものでした。

最後に平松さんに、
「鉢から見上げるように盆栽を見てごらん」
と指南いただき、のぞいてみました。

すると、そこにはまるで自分が小さくなって、森の中に迷い込んだような世界が…。

「盆栽はまさに自然界の縮図。
常に姿を変えていく終わりのない世界ですから、飽きがこないし、楽しいですよ」

平松さんはそういいながら、笑顔で微笑みました。

日本が世界へ誇る盆栽。

それは、自然を身近に感じ、対話していくには、
もってこいの代物かもしれません。