MUJIキャラバン

「愛媛」カテゴリーの記事一覧

昔ながらのレトルト食品

2014年03月05日

日本一周の道中、愛媛で立ち寄らせてもらった
西予市明浜町にある「無茶々園(むちゃちゃえん)」。

今から約40年前、
できるだけ農薬や化学肥料に頼らないみかんづくりをしていこうと、
立ち上がった生産者団体です。

そのネーミングは、無農薬・無化学肥料なんて無茶といわれた当時、
とにかく無茶苦茶がんばってみようと、名付けられたものでした。

環境にやさしいみかんづくりは、特色ある地域づくりにもつながり、
現在では、全国からIターンの若者が集まり、有機農業に取り組んでいます。

その若者のチームが、「ファーマーズユニオン天歩塾(てんぽじゅく)」です。

てんぽとは、この地方の方言で"無茶"を表し、
「てんぽなことすんな~」といえば「無茶なことしてんな~」という意味だそう。

そんな無茶々園の遺伝子を引き継ぐ天歩塾のリーダーに、
今回愛媛を再訪した際に、お会いすることができました。

村上尚樹さんは、石川県出身の32歳。

昔、バイクで全国を旅して巡るなか、
たどり着いたのが、ここ明浜町のくらし方でした。

「ここの気候風土、そして人々の距離感が心地よかったんです」

学生時代、大阪のテレビ局でアルバイトをしていた村上さんにとって、
仕事とくらしが表裏一体の明浜町のくらし方は、新鮮に映ったそう。

そして、しばらくこの地でくらしているうちに、
「こんな生き方もありかな」と思うようになったといいます。

「なんせ、ここの環境は"原始の工場"なんですよ」

村上さんがいう環境とは、この入り組んだ地形のこと。

宇和海に面し、さえぎるもののない丘陵地には、
陽が沈むまで太陽の光が注ぎ込みます。

そして、海からこんもりと隆起した山に囲まれているため、
ミネラルをたっぷり含んだ潮風が吹き込むのです。

そんな環境で、農業を営んでいた村上さんは、
数年前、とあることに気が付きます。

夏場に盛んなシラス漁の網が、冬場には眠っていたのです。

有機栽培の野菜にシラス漁用の網、そして太陽と潮風。

これらが組み合わさり、村上さんが思い付いたのが、
「乾物」でした。

それまで天歩塾では、野菜は生鮮として出荷していましたが、
不ぞろいなものや傷物の野菜は、自家消費か廃棄するしかありませんでした。

そんな野菜を加工して、乾物にすれば、
価値を見いだせるのではないか。

こうして生まれたのが、「切り干し大根」。

大根は、沿岸で天日干しすることによって、
太陽の光とミネラルをたっぷり含んだ潮風にさらされ、
長期保存を可能にしました。

乾きかけの切り干し大根を一口いただくと、これがとても甘い!

さらに、これまで畑の堆肥にされていた大根の葉も、
茹でてカットし、乾物にすることで、商品化に着手。

このように、これまで価値を見いだされずに捨てられてきた野菜たちが、
乾物となることで、日の目を浴び始めているのです。

「乾物って、いわば昔ながらのレトルト食品ですよね」

前回ご案内いただいた、無茶々園で企画を務める高瀬英明さんもそう話す通り、
これなら野菜を買っても余らせがちな、一人暮らしの人たちにとっても、
必要な分だけ湯がいたり、スープや麺に入れたりして食せるのがいいですよね。

「田舎が成り立っていくためには、仲間が必要です。
そのためには雇用を増やさないと」

村上さんがそう話すように、このアイデアによって、
大型設備を導入することなく、産地の経済にも活力を与え始めています。

現に、天歩塾の加工場には、
各地から移住してきた若者たちがイキイキと働く姿がありました。

ちなみにパッケージのデザインは、地元のデザイナー井上真季さんが担当。
なんとこの方、以前高知で取材させていただいた、
地デザイナーの迫田司さんのお弟子さんでした。

もともと地元にある資源を見直し、
いわば昔からある保存の技法から生まれた、無茶々園・天歩塾の乾物。

町を活性化するためのアイデアは、
意外と身近に眠っているのかもしれません。

【お知らせ】
MUJIキャラバンで取材、発信して参りました生産者の一部商品が
ご購入いただけるようになりました!
その地の文化や習慣、そして生産者の想いとともに
産地から直接、皆様へお届けする毎月、期間限定、数量限定のマーケットです。

[特設サイト]Found MUJI Market

我が子菓子

2014年02月19日

小さい頃、家庭で食べたおやつの味を覚えていますか?

それらはお煎餅にかりんとうなど、とても素朴な味。
だけど、どこかホッとする懐かしい味として脳裏に刻まれています。

「大切な我が子に安心な菓子を与えたい」

愛媛県喜多郡内子町にある、宮栄商事有限会社の作る
「我が子菓子 善蔵シリーズ」は、店主のそんな想いから生まれました。

宮栄商事は昭和14年に、食器やお菓子の卸・小売店として創業。

その後、仕入れていたお菓子の製造元が廃業してしまうなどあり、
自分たちでも一部のお菓子を作るようになったそう。

「どうせ作るなら、自信を持って売れるお菓子を作りたいと思いまして」

宮栄商事・3代目の宮瀬貴久さんは、
大学卒業後、大手食品会社と菓子問屋で修業を積んだ後、
家業の宮栄商事に入社。

「自分の子どもに食べさせても安心なものを作りたい。
そうすれば、みんなにも受け入れられるはずだと思ったんです」

宮瀬さんの作るお菓子は、
そのコンセプト「多くを加えず、手を加える」の通り、
保存料、香料などの添加物を一切加えていません。

「昔ながらのお菓子は、もともと添加物など使っていないですからね」

そう話す宮瀬さんは、地元産の素材を使った
新商品開発にも乗り出しています。

工房へお邪魔すると、ちょうどその商品の製造中。

「どうぞ食べてみてください」
そう言われ、ひと口食べてみると、そのフワッとした食感と
意外な酸味と塩味に驚きました。

これは、内子町で栽培された、
"イタリアントマト"を使用したお煎餅でした!

「水の代わりにトマトピューレを使っています。
以前使っていた機械だと、分厚くしかお煎餅を焼くことができず、
しんなりとしか仕上がらずに、一時はあきらめたんです…」

そんな折、機械が壊れてしまい、新しく機械を入れ替えたことで、
うす焼きが可能になったと宮瀬さんは振り返ります。

それでも、"サクッ"とした食感を表現するのに苦労したそう。
そこで、試行錯誤のうえ、米粉を使用することに行き着いたといいます。

こうしてできた「米粉のとまと煎餅」は、小麦粉、卵不使用なので、
アレルギーのお子さんにも安心して食べていただけます。

また、おやつとしてのみならず、
ひと口食べた瞬間に、「これはチーズとワインに合う!」と直感しました。

「このとまと煎餅は、うちの子たちの一番のお気に入りになりました。
手づくりの、まかない料理みたいな我が家用のお菓子ですが、
一人でも多くの人に届けていきたいと思っています」

宮瀬さんが「地味で素朴だけど、飽きずに食べ続けることができる」
と話す、我が子菓子の一部は、
無印良品のFound MUJI 取り扱い店舗でもお買い求めいただけます。

ちなみに、愛媛には柚子の皮を砂糖と醤油で味をつけて煮詰めた
「ゆねり」という郷土料理があり、ごはんのおかずに食べるそう。

ゆず入り芋菓子には、このゆねりの製法を用いた柚子が使われているといい、
お芋と柚子の他にないハーモニーを味わうことができます。

愛媛県の内子町で、一つひとつ手で作られている我が子菓子は、
まさに多くを加えず、手を加えた自然の味わい。

それがまた懐かしい味として、子どもたちの記憶に残っていくことでしょう。

無茶々園

2012年12月21日

空高く昇っていく太陽のように、青空に輝くみかんたち。

ちょうど収穫のまっただ中の12月初旬に、
みかんの産地、西予市(せいよし)明浜町(あけはまちょう)を訪れました。

辺りを見渡すと、山の斜面にはこれでもか! といわんばかりに
みかんの段々畑が広がっていて、

その前には宇和海がキラキラと光っていました。

ここは、町全体が南向きで日当りがよいうえに、海からの照り返しがあり、
水はけのいい土壌、ミネラル分を含む潮風…と、
おいしいみかんができる自然条件がそろっています。
また、段々畑の石垣が熱を保つ役割をしているそうです。

それにしても、段々畑を目の前にすると、その傾斜のすごさに驚かされます。
収穫したみかんの運搬用に、
各畑にはジェットコースターのようなレールが設置されていて、
もぎたてのみかんが運ばれていました。

一般的に有機栽培が難しいとされる柑橘類ですが、
この畑で栽培されているみかんには、除草剤や化学肥料は一切使用されていません。

生産者の川越文憲(ふみのり)さんは、

「除草が大変かなぁ。夏場は毎日刈っても、すぐに草が生えてくるからねぇ。
だけど、一度自然に育ったみかんの味を知ってしまうと、
いくら頑張ったって自然の力には勝てないって思うんだよね」

と、絶景をバックに話してくださいました。

川越さんいわく、自然に育ったみかんは糖と酸のバランスがよく、
しっかりとした味がするのだそう。

「採れたてのみかん、食べたことあるか?」

そういわれて、渡されたみかんを食べると…
とてもみずみずしく、程よい酸味と甘さが口の中いっぱいに広がり、
「おいしーい!!!」
と感嘆の声を上げた途端、次のひと言に今度は驚きの反応をすることに。

「このみかん、市場じゃ値段はついても10円だよ…」

形が不ぞろいなことと、皮に傷がついていることが問題だそう。
それでも、明浜町を中心に80軒以上の農家が有機栽培をしています。

その理由は「無茶々園(むちゃちゃえん)」にありました。

「無茶々園」とは、できるだけ農薬や化学肥料に頼らないみかんづくりをしていこうと、
1974年に3人の青年によって立ち上げられた実験園のこと。

その後、社会への訴えとともに協力者としての消費者会員を募り、
「無茶々園」の栽培方針に賛同した生産者の輪も地域全体に広がっていき、
現在は生産者団体として活動しています。

また、直営の農園も持っていて、
全国からIターンの若者が集まり、有機農業に取り組んでいます。

今でこそ、"有機"や"オーガニック"という言葉をよく耳にしますが、
約40年前からそれに取り組まれているとは驚きです。
それでも理由を聞いて納得しました。

彼らにとって、有機栽培は第一目的ではなく、
"特色ある地域づくり"が主たる目的だったのです。

農業を主軸として、集落や町全体で気持ちよく暮らせる田舎を作りたい。
環境にやさしいみかんづくりを志すのは、
自分たちの住む地域の自然環境を向上させたい、
というのが大きな動機だったといいます。

「無茶々(muchacha)」とは、スペイン語で「おねえちゃん」の意味。
"ネオン街の蝶を追っ掛けるより、蜜柑畑のアゲハチョウでも追っ掛けようや"
"無農薬、無化学肥料栽培なんて無茶なことかもしれないが、無茶苦茶に頑張ってみよう"
という意味を含めて、設立者は「無茶々園」と命名したのだそう。

「無茶々園」で営業企画を担当している、高瀬英明さんは、

「今、田舎は過疎化が進んで疲弊していくっていわれていますが、
人の流れで問題は解決できると僕は思ってるんですよ」

と爽やかな笑顔で語ります。

彼は、10月に発売になったばかりの、
無茶々園発のスキンケアコスメの生みの親。

ジュースを搾った後の柑橘の皮がもったいない!と、
その活用方法を模索していたところ、
奥様がお子さんの乾燥肌で困っていて、
当時使っていた海外産のオーガニック化粧品の原料を見てみると、
これなら明浜にある原料でも作れると思い、開発に至ったのだそう。

原料は、無茶々園の有機農法にこだわって栽培された柑橘類から採れる精油と
宇和海で手塩にかけて育まれた真珠貝のパウダー、
無茶々園の直営農場で育成されたゆずのシードオイル、
そして、段々畑に咲く柑橘類の花の蜜を集めたみかん蜂蜜。

「今回、スキンケアコスメをこうして作れたのは、
無茶々園に関わる人たちが、"美しい景色を後世に伝えたい"と
ねばり強くやり続けてきてくれたからだと思っています。
このコスメを通して、無茶々園のこと、無茶々園のみかんのことを知ってもらい、
そして農業の未来について考えるキッカケになったらうれしいです」

高瀬さんは、地元に伝わるお祭りのかけ声「やー、えーとこー」から、
明浜の"いいところ"を発信する想いを込めて、
このコスメのブランドを「yaetoco(ヤエトコ)」と名付けました。

約40年前から、川越さんのような生産者とともに、
「無茶々園」がこの地で積み重ねてきたものが、
今、新たな風を明浜に吹かせ始めています。

今治タオル

2012年12月20日

愛媛県今治市(いまばりし)は言わずと知れた、タオルの生産地で、
全国のタオルの60%以上が今治で作られています。

その温暖な気候から、江戸時代より綿栽培が盛んだった今治では、
農家の副業として生産し始めた「伊予木綿(いよもめん)」が全国的に広がりを見せ、
綿織物の一大産地として知られるようになります。

しかし、明治時代になると、他の産地からの安価な木綿製品に押され徐々に衰退。
今度は、伊予木綿に代わる織物として
「綿ネル(片面だけ毛羽立たせた丈夫な綿織物)」を生み出します。

その後、大阪で生産が始まっていたタオルに可能性を感じ、
綿ネル機を改良してタオル織機としたことが、今治でのタオル生産の始まり。

今治が京阪神という大市場に近く、海洋航路が整っていたことも、
タオル産業の発展に寄与したといえます
(ちなみに、今治は造船の町としても知られています)。

さて、そんな長い歴史を持つ今治のタオルですが、安価な海外産の台頭により、
15年ほど前まで560社ほどあったメーカーが、
数年前には約100社まで減少してしまいました。

「今治タオルは分業制で成り立っているので、
タオルメーカーが100社を切ったらさすがに業界全体がマズイ…」

生産者の一人、山田素裕(もとひろ)さんは当時を振り返ります。

窮地に立たされた今治のタオル業界…。

2006年に、組合の青年部が中心になって話し合い、
「今治タオルプロジェクト」を始動します。
タオルの魅力の抽出から始め、本当に価値あるものを提供していこうと、
独自の品質基準を設け、再スタートを切ることになりました。

みなさんもどこかで目にしたことがあるかもしれない、こちらのロゴ、
これはその厳しい品質基準に合格したタオル商品のみに表示されるマークなのです。

何よりもまず大事にしているのが、タオルの最大の役割である「水を吸うこと」、
そこには驚きの"5秒ルール"が制定されていました。

今治タオルの品質として、1Lの水が入ったビーカーに、
1cm角の試験片(タオル)を浮かべて、
5秒以内に沈み始めたらOKというものです。

また、小さな子どもから大人まで、あらゆる人に安心して使ってもらえるように、
高い安全基準を設けるほか、全11の基準により、品質を守っているそうです。

ところで、そもそもタオルとは、よこ糸を織り込む際に、
たて糸の一部(パイル糸)を緩めて布地にループ状の部分を形成した布のことで、
その織式はひとつなんだとか。

山田さんが白板に断面図を書いて説明してくださいました。
なんだか、繊維学校にでも体験入学した気分です♪

「布の場合、それ自体は素材ですが、タオルの場合、それ自体が商品なので、
そこにどんな想いを詰め込むか、どう味つけするか。
消費者の価値観が多様化している社会において、
作り手としては需要が多い分、挑戦のしがいがありますよ」

どんな糸を使うか、どんな機械を使うか、どんな後加工をするかなどに
それぞれ生産者の個性が表れるといいます。

例えば、通常は綿花の繊維をねじって1本の糸にして使うのですが、
無撚糸(むねんし)という繊維をねじらない糸を使うと、
ふんわりとしたやわらかな仕上がりに。

また、裏面をガーゼで仕上げたものは、
薄手で軽く、洗濯後の乾きが早いという特徴があります。

「ここまで独自の進化をとげてきたのは、
使う人の立場になってものづくりができる、日本人の感性ならでは」

そう話す山田さんは、実は無印良品のタオルハンカチの生産も担っています。

高速・中速・低速と3つのスピードがある織機のうち、
無印良品のタオルハンカチは低速の"シャトル織機"と呼ばれる機械で作られていました。

効率が悪いので、この機械をいまだに所有している人は数少ないなか、
山田さんは大事に大事にシャトル織機を使い続けてきたそう。
それは、ゆっくり織ると、風合いや手触りがよく仕上がるから。

また、後加工に使っている水は、西日本最高峰である石鎚山(いしづちやま)の伏流水で、
極めて重金属が少なく硬度も低い軟水。
こうした水質が、糸や生地の白度や発色、やわらかさと大きく関係しています。

「このタオルを使ってよかったなぁと思ってもらえるように、日々挑戦しています。
『人生て"人間"になる道やなぁ』って思っていれば、
失敗しても楽やし、分からないことを人に聞くのも楽」

価格では海外産のものに勝てなくても、
その品質と挑戦し続ける姿勢で、国内はもとより、
世界でもその存在を認められるようになった今治タオル。

そこには、業界の生き残りをかけて新たな行動をとった生産者たちの団結と想い、
そして、ひとつのものを追求していく
日本人のものづくりへの執念が込められていました。

和紙の可能性

2012年12月19日

スラリとしたスタイル、キリッとしたまなざし、
物腰柔らかい話し方。

ただ者じゃないオーラを放つその方は、
愛媛県西予(せいよ)市に和紙工房を構える「りくう」の佐藤友佳理さん。

ロンドンでモデル活動後、東京でデザインの勉強を経て、
五十崎(いかざき)和紙発展のために帰郷し活動。
その後、工房を西予市に移して和紙作りに取り組まれています。

「私、中学校の時に、お祭のポスターのコンクールで金賞を取ったことがあって、
その時に和紙でできた十二単を着させてもらったんです。
たぶん、その時から和紙に携わる運命になっていたのだと思います」

そう振り返られる佐藤さんの地元の小学校では、今でも、
自分で漉いた和紙を卒業証書にして渡してもらうんだそう。

その後、モデル活動中に過ごしたロンドンで、
自国のアイデンティティを強く持つ外国人と接するなか、
自分の軸を持ちたい、と思うようになっていった佐藤さん。

一風変わった経歴のように感じましたが、
こうした道を歩まれているのも自然の流れかもしれません。

そんな佐藤さんが作る和紙を一目見て驚きました。

まるで幾何学模様を思わせるような形状。

今まで見てきた和紙は、原料となる楮(こうぞ)の繊維が密に絡み合い、
一枚の紙としての機能を果たすものがほとんどでしたが、
これはその概念を全く覆すものでした。

その名も「呼吸する和紙」。

原料は通常の和紙と同じ楮なのですが、
そこに"ゼオライト"という、結晶構造中に大きな空隙を持つ物質が溶け込み、
湿度調節や消臭機能を有しているとのことなのです。

また、そのモダンな表情ゆえに、趣ある日本家屋にも
現代の住まいにも見事にマッチします。

まさにこれこそが佐藤さんの狙い。

「和紙の持つ可能性の幅を広げたかったんです。
素材は日本の風土に合っているのだから、
デザインももっと今の生活に合うように、と」

その作りは、細くよられた和紙と綿の糸を交互に張り巡らせた土台に、
楮の繊維が軽やかに絡みつき、自然な形で濃淡が生み出されています。

「うちの和紙は漉くというよりも、すくっている感じ。
私、伝統的な和紙の技法を学んだわけじゃなくって」

そう、佐藤さんの和紙づくりは全くのオリジナル。

今まで見てきた和紙づくりでは、
簀桁(すけた)を揺すりながら均一に繊維をならしていっていましたが、
佐藤さんのやり方は、糸で張り巡らされた土台を、
ゼオライト楮が溶け込んだ水に沈めて、すっとすくい出します。

すると、糸の土台が楮の繊維を淡くまとって出てくるのです。

この土台を作るのはお母様の仕事。

まるで熟練の職人のように、一つひとつ丹精込めて編みあげていきます。
こうして母と娘の協働により生み出されたものは「和紙モビール」です。

「情緒に触れるものを作りたいと思っています。
仕事で疲れた時とか、このモビールを眺めて疲れを癒してほしい」

確かに、佐藤さんの作る和紙を眺めていると、
不思議と感傷的な気分に浸れます。

なかにはこんなものまで。

子供向けの「愛媛県から湧き水で漉いた和紙のボール」と名付けられていました。

"和紙は触ってはいけないもの"ではなく、良いものだからこそ小さいうちから
どんどん触って、肌で指でその繊細さやあたたかさを感じてほしい、
というメッセージが込められています。

明らかに和紙の可能性を広げていっている佐藤さんですが、
こうした新しいスタイルを進むことに、不安を感じていたこともあるそう。

ただ、周囲の方のエールがあって今があるといいます。

「どの分野においても、いろいろな人が様々なスタイルを追求していくこと。
そこには伝統的なスタイルも、革新的なスタイルもあっていい。
そうすることで、業界全体の底上げにつながっていけばと思っています」

未来をしっかりと見据えたような視線の佐藤さんは、
紛れもなく和紙業界に新しい風を吹き込んでいます。

日用使いの磁器「砥部焼」

2012年12月18日

これまでの旅路を振り返ると、
随所に"白"という色への人間の追求がうかがえます。

かつて貴重な調味料とされた砂糖も、
サトウキビから抽出される黒糖を、苦労して黒蜜を抜いて白糖とされ、
お隣香川県では「和三盆」と呼ばれる高級砂糖として重宝されてきました。

土を原料とした陶器が一般的だった焼物においても、
有田で磁器の生産が始まって以来、陶石の産地では磁器づくりが盛んに。

※写真は無印良品「白磁めし茶碗・大

その後、磁器が伝わったヨーロッパでは、より白い食器を目指し、
ボーンアッシュ(牛の骨の灰)を混ぜた「ボーンチャイナ」が生まれ、
今でも高級食器として扱われています。

※写真は無印良品「ボーンチャイナ カフェオレカップ

皇室の御用馬に白馬が多いことも、
人々の"白"に対する憧れを象徴しているように思います。

日本でも白い食器として重宝されてきた磁器は、
生産が始まった有田、伊万里をはじめ、九谷、瀬戸など有数の磁器の産地がありますが、
愛媛県の砥部(とべ)もその一つ。

ただ、高級品としてではなく日用雑器を目指してきた点が
砥部焼の一つの特徴といえます。

砥部町では、その地名が示す通り、砥石(といし)の産地として知られ、
江戸時代、「伊予砥(いよど)」の生産が盛んに行われていましたが、
それを切り出す際に出る砥石くずの処理に頭を悩ませていました。

そんな折、天草で採れる砥石が磁器の原料になることを知り、
大洲藩主の命により、砥石くずを使った磁器の生産を始めたことが、砥部焼の由来です。

その後、川登陶石の発見や磁土の改良を重ね、
白い磁器が作られるようになっていきましたが、
それでも他の産地のような白さは実現しなかったようです。

ただ、それこそが砥部焼の特徴につながっていきます。
九谷焼も同様ですが、白さが叶わないと絵付けが生まれます。

あくまでも日用雑器としての焼物を目指した砥部では、
量産のために、複雑な絵付けにも型紙が使用され、
現代の絵付けの多くも、「つけたて描き」と呼ばれる一筆描きのものが多い様子。

また、原料の性質上、ぶ厚く引かないといけなかったため、
ぽってりとした形の、少し重みのある丈夫な器になりました。

この「くらわんか茶碗」は、高台が高く堅牢であると、
揺れる船上でも使われ、評判となったそうです。

「プロが作る料理は、白いキャンバス(お皿)に盛っても美しいですけどね。
砥部焼は、どんな料理も引きたてると評判ですよ」

砥部で最も古い歴史を持つ窯元、梅山窯の岩橋さんはそう話します。

確かに、呉須を基調にサラリと絵付けされた食器は、
和食にも洋食にもマッチするから不思議です。

岩橋さんによると、今の砥部焼のデザインは、
陶工たちが駆り出され廃れそうになっていた戦後、
梅山窯を支えた陶工たちによって、懸命に生み出されたものだったそうです。

その頃に考案されたものが眠る部屋に、特別にご案内いただくと、
そこには何千にも及ぶ、先人たちの努力の結晶がありました。

現代においても、この時デザインされたものが作られているというから、
当時のデザインとしては相当、斬新だったのではないでしょうか。

砥部焼の代表柄の唐草模様は、さりげなく華やかさを演出しています。
(写真右上手前と左下)

そして、その技術は現代の陶工たちに継承され、
今でも手作りで生み出されていました。

最後に岩橋さんは、こうもらしました。

「知ってもらえると、その良さを分かってもらえるんですけどね。
もっと多くの人に知ってもらえたらうれしいです」

梅山窯には資料館があり、砥部焼の変遷や
柳宗悦をはじめとした民藝運動家たちの軌跡を見ることができました。

また、かつて使われてきた大きな登り窯へは、内部に入ることも可能。
内部には人が立っても十分なほど大きな空間がありました。

砥部焼には、
食卓を彩る庶民のための磁器として追求されてきた歴史を
垣間見ることができました。

もうすぐクリスマス★

2012年12月17日

12月初旬にお邪魔した、松山市近くの無印良品 エミフルMASAKI
その店内はすっかりクリスマスモードでした☆

スタッフさんいわく、無印良品が年で一番カラフルになる時期なんだそう♪

店内を見ていると、"あの人にはこれあげたいな…"
"あの子にはこれかな…"と次々に贈り物をしたい相手の顔が浮かんできます。

そんなこの時期に選びたいクリスマスギフトの中から
このお店の人気商品をうかがうと…

ご紹介いただいたのが
自分でつくる お菓子づくりを楽しむヘクセンハウス

楽しみながら"お菓子の家"を作れてしまう手づくりキットで、
完成した食べられるお家には、作り手の個性が表れますね。
こちらは無印良品の店舗スタッフが作ったヘクセンハウスです。

また、こちらの手づくりキットもお薦めだそう!
「モカシンルームシューズ手作りキット」

自分で作ったモノって、より愛着が湧きますよね。

大切な人へのギフト、頑張った自分へのギフト、
みなさんはこのクリスマスに何を選びますか?

受け継がれる灯

店舗スタッフの紹介で、内子町(うちこちょう)を訪れました。
今でも白壁の町並みが残っている、趣のあるこの地区は、
かつてハゼの木の流通で財をなした商人の町でした。

住宅街に突如として現れるこの建物は、
大正天皇の即位を祝して、地元有志の出資により創建された「内子座」。
地元の人々の娯楽の場として発案されたそうですが、
当時の彼らの裕福さを物語っています。

ハゼの果実から採れる木蝋(もくろう)は、
和ろうそくをはじめ、お相撲さんの髪につけるびんつけや、
木工品の艶出し剤、医薬品や化粧品の原料として幅広く使われてきました。

当時、内子町には、約20軒の和ろうそく屋があったそうですが、
大正時代に入ると、石油系のパラフィン蝋が流通し、
現在も木蝋を使った和ろうそくの生産を続けるのは
「大森和蝋燭屋」1軒のみとなりました。

中をのぞくと、奥の作業場で男性が2人、作業をしています。

6代目の大森太郎さんと、7代目の亮太郎さん親子です。

亮太郎さんはアパレル関係の仕事を4年ほどした後、
家業を継ぐために実家に戻りました。

もともと和ろうそくに興味を持っていなかった亮太郎さんですが、
前職場の上司やお客様に家業の話をすると
「それは素晴らしい仕事」とたびたびいわれ、
いつしか自然と継ぐことを考えるようになったといいます。

和ろうそくづくりの工程は、
竹串に和紙と灯芯草(とうしんそう)と呼ばれるい草の茎の皮を剥いだ髄を巻きつけて、
真綿で留めて芯を作り、

その上から溶かした蝋を何度も、何度もかけていくのですが、
なんとその作業は素手で行われていました!

右手で竹串を転がし、左手で40~45℃ぐらいの蝋をすりつけては乾かし、
この作業を何回も繰り返しながら、少しずつ大きくしていくのです。

最後に50℃ぐらいの温度に溶かした蝋をすりつけてツヤ出しし、
先端部分を削って芯を出して、最後に竹串を抜いたら出来上がり。

一連の作業は、途中で置いてしまうと蝋が乾燥してしまうため、
1日で完結させてしまわないといけないんだそう。

1本1本に魂を込めて作られた和ろうそくの断面は、
まるで長年の歳月を経て生み出される年輪のようです!

「これからもこの和ろうそくを作り続けていきたい」

そう話す亮太郎さんの前には、父の背中がありました。

ふと、店内を見回すと、
5代目の弥太郎さんと6代目の太郎さんの仕事風景の写真が。

時を経て、今は手前に6代目の太郎さんがいて、
奥に7代目の亮太郎さんが座っています。

200年余の歴史の中で、代々、父から子へと継承されてきた
内子の和ろうそく。

すべて自然素材で作られ、着色や絵付けも一切されていない
とてもシンプルなものですが、
その蝋の年輪が生み出す炎はとても大きく、
ゆらゆらとゆっくり揺れる灯が、不思議と見る者の心を癒やしてくれました。