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南部裂織

2014年10月01日

「バブルの頃は恥ずかしいものだったんですよ。
貧しい現金収入のない人が古布を裂いて織っていたものなので」

ここ数年、エコの観点からも世間で再び注目されている
「裂織(さきおり)」についてそう語るのは、
青森県十和田市にある南部裂織保存会の事務局長、小林輝子さんです。

裂織とは布を裂いて緯糸にして織った、織物のこと。

布を大切にする女性の知恵から生まれたもので、
そうした織りは全国および海外でも見ることができます。

寒冷な気候のため、綿を栽培できなかった雪国青森では、
麻布がメインで、冬にはそれを重ねて刺し子をして防寒していました。

明治26年鉄道の開通以降に綿が入ってくると、
経糸に木綿糸、緯糸に古布を使い、こたつ掛けや帯を織ったといいます。

「南部には赤い裂織が多かったのですが、
それは暗い家に少しでも明るい光を、という母親の家族に対する愛情の表れでした」

また、こたつ掛けの縁も赤色で作られることが多かったそうですが、
それは昔炭を使ったこたつだったため、
火事にならないように、という"おまじない"の要素も含まれていたとか。

さて、南部裂織保存会の話に戻りますが、保存会は1975年に、
故・菅野暎子さんによって発足されました。

菅野さんは1971年、叔母の形見分けの中にあった裂織の帯に出逢い、
それが地元で織られたものだと知ります。
そして、そこから消滅しかけていた裂織のルーツと、
技を教えてもらえる師を求めて訪ね歩きました。

1年かけてようやく織り手に出会った菅野さんですが、
最初は「お金にならないからやめておきなさい」と拒まれたそう。

昭和初期頃までは各家庭で織られていた裂織でしたが、
その頃、地元の人に裂織は"ボロ織"と呼ばれ、
周りからは見向きもされていなかったのです。

それでも菅野さんは東京の手織り教室に通い、惚れ込んだ裂織の技術を研き、
南部裂織保存会を設立して、自宅で裂織教室を開くなど
裂織の普及に心血を注ぎました。

2002年には、より多くの方に南部裂織を体験してもらえるように、
道の駅の隣に「南部裂織の里」をオープン。

現在、高い天井の梁の見える広々とした工房内には、
過去30年以上にわたって、農家の納屋や古い民家などから
菅野さんが集めた地機(じばた)が70台も並んでいます。

ちょうど教室に来ていた生徒さんの織りを拝見させていただくと、
なかなか一筋縄ではいかない様子。

地機では、「腰当て」という布を文字通り腰に当てて、座って織るのですが、
自分自身が機の一部になって、手だけでなく足も使っていくのです。

「無心で織って、キレイなものが出来上がる。
ここは女性たちの和みの場でもあるんです。
芸術家を養成するのではなく、あくまで裂織を伝え、つなげていく場所です」

小林さんはそう話し、保存会の合言葉をご紹介くださいました。

『暮らしに創る喜びを 手仕事の温もりをいつまでも』

「裂織は京都の友禅のように雅な文化ではないけれど、
とっても華やかですよね。
十和田は自然が豊かで、色彩溢れる環境です。
私自身、知らないうちに"美"に対する意識が育てられたと思っています」

その日、たまたま工房を訪れていた小林さんの娘である、
小林ベイカー央子(ようこ)さんにも話を聞くことができました。

央子さんは、仕事の傍ら「裂織3Gプロジェクト」を運営。

裂織にアートなスパイスを効かせ、
新しいプロダクトを生み出すというプロジェクトです。

3Gは3つのジェネレーションのことを表し、
十和田で活動する南部裂織保存会(60代)と、
プロのデザイナーやクリエイターからなる姉部(40代)、
そして、美大生を中心とする妹部(20代)で構成されています。

そんな裂織3Gプロジェクトからは、
普段づかいがしやすいバッグやネックストラップなどの
プロダクトが開発されていました。

「叔母の家に行くと、ボロ布がたくさん置いてあったのを覚えています」

実は、央子さんの母である、事務局長の小林さんは
保存会の創設者である、菅野さんのお姉さんだったのです。

「妹の菅野暎子は子どもたちに裂織の素晴しさについて伝えていきたい、
という想いで活動していました。
今では市内の中学生はほとんど、裂織を体験しに
ここに来ているのではないでしょうか」

活動当初は、反対していたという小林さんですが、
後に保存会の事務仕事を手伝うようになり、
今では妹の菅野さんの遺志をしっかりと継いで活動されていました。

古くなった布を一度裂いて、それを新たに織って作り上げる裂織は、
個性豊かですべてが一点物。

美しく温もりのあるこの織物が、
かつて"ボロ織"と呼ばれていたとは信じ難いほどです。

ものがなかった時代に、
古の女性たちの、ものを大切に使い続ける創意工夫から生まれた裂織には、
時代が変わった現代でも、
女性たちの想いがたくさん詰まっているように感じました。

BUNACO

2012年07月20日

クリエイティブで、エコロジカル。
伝統工芸でありながら、モダン。

そんなモノづくりが、青森県にありました。

「BUNACO(ブナコ)」

薄い板状にされたブナの木から生み出される
ユニークなプロダクトです。

とてもモダンなデザインですが、その歴史は比較的古く、
1956年、日本一の蓄積量を誇る青森県のブナの木を
有効活用するために開発されました。

右のコイル状に巻かれたブナの木が、
左の木の器に様変わりするんです。

その実態を確かめるべく、訪れた先は弘前市にある
「ブナコ漆器製造株式会社」。

古くから使われ続けている町工場は、昔ながらの趣きですが、
今やこの地で生み出された品が、世界へ発信されています。

まず、見せていただいたのが、BUNACOの材料。

大根のかつら剥きのような手法で、
厚さ約1mm、長さ約2mに削られたブナの木を乾燥したものです。

通常、様々な形状の木地を作るとき、
ろくろを使って削り出す製法が用いられますが、
その際、削り出された木は廃棄されることがほとんどです。

ただ、このBUNACOの場合、その無駄がありません。
エコロジカルのゆえんはここにあります。

これを、板にコイル状にきつく巻き上げ、ベースを作ります。
これがかなり力のいる作業のようでした。

続いて、成型の段階で出てきたのはこちら。

お茶碗です。
それも、なんと無印良品のもの!

BUNACOの成型にはお茶碗の丸みと大きさが絶妙のようで、
いろいろと試した結果、無印良品の白磁の茶碗に落ち着いたんだそう。
こんなところでも無印良品が使われているとは、驚きでした。

そんなお茶碗を中央から外側にかけて転がしながら、
徐々に型を整えていきます。

私たちも体験させてもらったのですが、
これが見た目以上に硬く、ハードな作業で、
力を入れないと曲がらないし、入れ過ぎてもダメ。

ただ、そこがクリエイティビティの発揮どころで、
力の入れ具合によって、様々な形へと変化させることが可能なんです。

同じ木地から作った、私たちそれぞれのBUNACOも、この通り。

深さもシェードも異なる2つの商品が出来あがりました。

成型後に液状の糊を塗るまでは、何度でもやり直しが可能。
若い職人が仮に失敗しても作り直せばいいだけなんです。
ここもエコロジカルのポイントですね。

ベテラン職人の手にかかればこんな形も!

瞬時に、ねじれた表情を持つモノもできてしまいました。

こうして作られていくBUNACOのフィールドは、
今や食器にとどまらず、ティッシュケースから、

ランプに、

スピーカーまで。

その曲線美は、見る者の感性をくすぐります。

過去、そのシンプルかつユニークな存在感で、
GOOD DESIGN賞をはじめ、各種アワードを獲得。
今では、海外からも注目を浴びる存在となっています。

昔ながらの技術に、モダンなデザインが加わり、
現代の生活にも自然に溶け込む形となって生まれ変わる。

伝統工芸の持つ大いなる可能性の広がりを
BUNACOから感じずにはいられませんでした。

ダ サスィーノ

2012年07月19日

おいしい料理に出会うことはありますが、
印象に残る料理に出会うことはなかなかありません。

青森県弘前市中心街の路地裏で
とても印象に残る料理を提供するお店に出会いました。

「ダ サスィーノ」というイタリア料理のお店。

店名の由来を尋ねると、
「私の名字が笹森っていうんですが、イタリア時代のニックネームです。
"サスィーノ"="ささちゃん"って呼ばれてまして」

弘前市出身の笹森さんは、青森県内に3店舗、
イタリアン、ピザ、そしてガレットのお店を経営するシェフ。

学生時代、イタリアンレストランのアルバイトで
自分の作ったまかないのキノコクリームパスタを褒められ、
それがきっかけでイタリア料理の道に入ったといいます。

仙台と東京、さらにイタリアで修業を積んだ笹森さんは
自分の目標通り、30歳で独立しました。
やりたいことを実現させるためです。

それは、自分のお店で使う食材を自分で生産すること。
地元の生産者と契約して、地場の食材を使う
というのは聞いたことがありますが、
レストランを経営しながら、食材を自分で生産するとは
これまであまり聞いたことがありません。

お店のワインセラーには、笹森さんが作ったという
生ハムやサラミが保存されていました。

このスープもご自分の農園で採れたアスパラを使い、
ジャージー牛乳から手づくりしたリコッタチーズを添えたもの。

スープをひとくち口に含むと、途端にアスパラの香りが
鼻の中にふわぁーっと広がりました。

さらに最近では、醸造免許も取得して、ワインづくりまで
されているというから驚きです。

翌日、厚かましくもお願いして
笹森さんの農園を見せてもらうことができました。

笹森さんのご案内で、ご自宅のすぐ裏にある畑をぐんぐん入っていきます。

きゅうり、ズッキーニ、くろキャベツ、アスパラ、ナス…
スーパーで見たことのないような野菜まで。
これはアーティチョークだそうです。

「あっちは、くるみの木とアーモンド、木いちご、洋梨、
さくらんぼ、マルメロー、キウイ…」

くるみの実って、こんなに大きかったんですね!?

他にも、イタリアンパセリ、ローズマリー、エストラゴン、
ミントなどのハーブ類まで、
30種類近い食材をご自分で生産されています。

コッコッコ…

なんと烏骨鶏(うこっけい)もいました!

笹森さんに初めてお会いした時、
「肌がキレイに焼けてるなぁ。サーフィンでもやるのかしら…」
と感じたのですが、それは農作業焼けだったのですね。

自身で食材の生産を始められたのは、
小さい頃から食べ慣れていたおばあちゃんが作った野菜と、
修業していた頃の仙台や東京のお店で使っていた野菜の味が違ったからだそう。

「食べることって生きていく中でも、一番大事なことだと思うんです。
本来はあちこち走り回って、自分でこしらえて
心を込めて提供するものが"ご馳走"なんですよね」

と、笹森さん。そしてこう続けられました。

「私はたまたま実家の畑がここにあったから弘前でやりました。
私は地元の食材を知らなかったんですね。
今後は地元の生産者さんにもお願いして作ってもらおうと思っていますよ」

なんだか少し意外でした。
自分で生産することは本来の目的ではなく、
おいしい食材を手に入れることが笹森さんにとっての真の目的なんですね。

なんでもチャレンジしてみて見極めていく笹森さん。
これまで、蜂蜜づくりやオリーブオイルづくりも試してみたそう。

これまでのキャラバンで見てきた農作物の場合、
もともとそこの風土が生産に適しているという理由が多数でした。

しかし、笹森さんの場合は違います。

「これだけ情報があるんだから、
温度も湿度もコントロールできるし、作れるだろう」

そう思うんだそうです。

笹森さんにお話をうかがって、
人がやりたいことをするのにその場所は関係ない、
置かれている環境に言い訳はできない
ということを感じました。

最後に今後の野望を聞いてみました。

「やりたかったことはほとんど実現できています。
今後はワインづくりにもう少し時間をかけたいのと、
景色のいい場所で料理を提供できたらいいなと思っています。
あとは、子供が小さいので子供と過ごす時間も大切にしたいですね」

こぎん刺し

2012年07月18日

「こぎん刺し」は青森県津軽地方に伝わる刺し子です。
津軽地方では、作業着のことをこぎん(小布)と呼び、
作業着には糸の刺繍(刺し子)がされていたため、この名前がついたようです。

刺し子は、以前、岐阜県の「飛騨刺し子」も取材していたので、
地域による違いも気になり、弘前こぎん研究所を訪れました。

刺し子は補強・保温が目的で生まれたもので、
津軽の厳しい自然条件と、当時の藩政が関係していたそうです。

北国、津軽では綿の栽培が困難なために
一般に使用される衣服の多くは麻布でできていました。

麻は繊維が粗く、夏には風通しがよくて涼しく丁度よいのですが、
冬は津軽地方の冬の寒さを防ぐことができませんでした。
そのため、麻の糸で布目を埋めていき、木綿の糸が手に入るようになると
女性たちが競うように刺繍をして、暖かい空気を服の中にとどめたといいます。

同じこぎん刺しでも地域によって、模様は異なるようです。

これは岩木山の麓の地域に多く見られた"西こぎん"で
山に入って重い荷物を背負う林業が盛んだったために、
肩部分に縞(しま)模様があるのが特徴。

また、飛騨刺し子と比べて見ると、その違いは明白です。

こぎん刺し(上)と飛騨刺し子(下)、
こぎん刺しの方が布全体にぎっしり模様がつまっているのが分かります。

手で触ってみると、刺し子部分は布の厚さが3倍くらいに
感じられるほど、しっかりしています。
そして、その理由は作業を見ると分かりました。

こぎん刺しは、麻布の縦糸を数えながら
拾っていくように奇数の目を刺していくのです。

一方、飛騨刺し子の場合は、図案を布に写し、
線に沿って波縫いをしていました。

実際に私たちもこぎん刺しを体験してみました。

模様の図案を見ながら、ひとつひとつ刺していきます。

麻布の目が見えますか?
この縦糸を数えながら横縫いをしていくのです。
素人の私たちは図案が頭に入っていないので、
さらに図案の升目も数えながら行い、
かなりの集中力と根気がいる作業だということが分かりました。

だけど、徐々に模様が見えてくるのが楽しい!
これ、意外とハマりそうな作業です。
ジグソーパズルを完成させた時の達成感に似ているかも。

こぎん刺し歴30年の先生も
「出来上がった時は毎回『やったぁ!』って思いますよ」
とおっしゃっていましたよ。

「こぎん刺しは売り物じゃなくて、自分たちのために作ったものだから
大事に大事に使って、とっておいたんでしょう。
こうして昔の人たちが残してくれたこの技術を、
私たちには必ず次に伝えていく使命があります」

と、弘前こぎん研究所の成田社長。

最近はこぎん刺しの小物や、

はぎれ布を使ったくるみボタンなども作られています。

これはかわいい☆
シンプルな服やアクセサリーにしても、お洒落ですよね!
私は愛用中の無印良品の帽子につけてみました。

布の補強・保温だけであれば、上記の"西こぎん"に見られるような
縞模様だけで事足りたように思うのですが、
300種類以上の模様があるというこぎん刺しは、
女性の美意識が生んだものだと感じました。

美しく着飾りたいと思う感覚は、昔も今も変わらないのですね。

大鰐温泉もやし

2012年07月17日

公衆浴場の数が人口比で全国一多い、青森県。
寒い冬には体を温めるため、家のお風呂ではなく、
近所の温泉に毎日のように通うそうです。

私たちが訪れた、南津軽郡にある大鰐(おおわに)温泉郷の公衆浴場にも、
この季節でも、近所の方が次から次へと入っていました。

宿泊した宿のお母さん(推定70代)のお肌がスベスベで驚いたのですが、
きっと温泉のおかげなんでしょうね。
毎日温泉に入れるなんて、なんともうらやましい限りです。

さて、この大鰐温泉を使って、
私たちのよく知る野菜が育てられていると聞いて、現場に行ってきました。

小屋の中に入ると、薄暗い室内に、
長細い溝が数列並んでいるのを目にします。

この溝は何のため? 気になります。

冬の野菜で本格的な生産はまだ始まっていないそうですが、
一部作っているものを見せてもらうことができました。

大鰐町で350年以上も前から栽培されている、
「大鰐温泉もやし」です。

町内に豊富にある温泉を利用して、もやしを栽培すれば、
少ない経費で熱源が手に入れられるほか、
冬期の産業になるため、昔から生産が続けられています。

また、流通の発達により、現代では冬でも豊富な野菜が手に入りますが、
1年の半分近くを雪で覆われる大鰐町では、冬場の野菜確保は困難で、
かつて人々にとってこの温泉もやしが何よりの栄養源だったといいます。

これがそのもやし。

手前のボールペンと比べると、とーっても長いのが分かります。
その長さはおよそ40センチメートル。

味が気になって食べてみると、シャキシャキした食感と歯ごたえが抜群!
もやしをメインに使ったこの丼もの、満足感たっぷりの味でした。

また、このもやしは味がおいしいだけでなく、
カルシウム・リン・鉄分等のミネラルやビタミンが、
普通のもやしより豊富なんだそうです。

もやしは水耕栽培が主流ですが、大鰐温泉もやしの場合は土栽培で、
これは全国でも珍しい栽培方法だとか。

光が直接原料の豆に当たってしまうと、発芽する前に光合成をしてしまうため、
栽培小屋の中を薄暗く保ち、深い溝を掘ってそこに豆を植えます。
植えてから収穫まで1週間、湯温を数段階に分けた温泉だけで育てます。

使うのは温泉と土のみ。
本当に無化学肥料・無農薬の食品なんですね。

こうして聞いていると、いいことづくしの「大鰐温泉もやし」ですが、
もやし=安いものという概念や、その割に大変な生産内容から
生産農家が年々減ってきてしまっていたそう。

そこで、有志の町興し団体が町と連携して、
8年前から後継者の育成を始めました。

今回お話を伺った山崎さんは、最初の後継者に認定された方。

「もともと農家だったんで、冬の間にできるもやしづくりを
やってみたいと思って、応募したんです」

応募の基準は夫婦でできること。
このもやしづくりは、昔から、土の入れ替えなどの力仕事を旦那さんが、
収穫後の洗浄、仕上げを奥さんが担当して進めるのです。

今では山崎さん夫妻のもとで2人の若い男性が修業中です。
男性2人が結婚したら、2組の農家が増えるという見込みのよう。

その土地の恵みを使って、そこに生きる人が
家族で協力しながら作っていく伝統もやし。

大鰐町の人々が守り続けてきた変わらない味がそこにありました。

青森県民のお気に入り

青森市の無印良品青森ラビナ店では、
こんなものが大人気だそうです。

するめシート

その名の通り、シートのように薄くて一口サイズのするめ。
噛めば噛むほど、味わい深い一品です。

青森県民はこれをお酒のつまみにしているのかな
と思って聞いてみると、大人だけでなく、
小学生がなけなしのお小遣いで購入していったりもするそう!
なかなかシブイですね!?

他に、上記のように温泉好きな青森県民には
無印良品のお風呂グッズも注目されています☆

青森では出かけた先でいつでも温泉に行けるように、
ほとんどの人がお風呂グッズを車に常備しているんだそう。

店長から聞いたお話によると、
無印良品のお買い物かごの小さいものを
「これ買えますか?」と尋ねられることがけっこうあるんだそうですよ!

旅のお供にも欠かせないお風呂グッズは、
私たちにとっても必需品で、いつもお世話になっています。

そうそう、「移動」をテーマに無印良品を編集した商品群
「MUJI to GO」のキャンペーンも始まってますね!

スゴロクゲームで楽しみながら景品が当たるようなので、皆さんもぜひ♪

りんごの木のものづくり

2012年07月16日

落ち着いた木目、趣きのある木目、味のある木目。
木は同じ木材からでも、一つとして同じ姿を見せません。

だからこそ、木で作られたモノには、一つひとつ違った風合いがあり、
選んでいるだけでも、心躍ります。

青森県では、見ているだけでなぜか心安らぐ木工品に出会いました。

こちらの木材、何の木か分かりますか?
答えはこちら↓

全国の約50%の生産量を占める、青森県のりんごの木です。

りんごの木はご覧の通り、高さが低く曲がりくねっているため、
建材として利用することは難しく、
幹にこぶも多いため、加工するのも難しい木材なんだそうです。

ゆえに、役目を終えたりんごの木は、
薪となるか廃材として捨てられてしまうことが多いようです。

そんな木材にあえて注目し、
りんごの木のぬくもりを国内外に発信しているのが、
青森県弘前市にある「木村木品製作所」。

「もともとは、曾祖父の代からヒバ製のりんご用はしごの製造を担っていました。
冬から春にかけての剪定などで毎年大量に切り落とす枝や木をどうにかしたい。
おいしいりんごを育てるだけじゃなく、りんごを育ててくれた木も最後まで大切にしたい」

りんごの木に対する想いを、
木村崇之社長はそう語ってくださいました。

集めたりんごの木を、自然乾燥させること3~4年。
無難に使える木材は、5割がやっとだそうです。

こうして選りすぐられたりんごの木材は、
一つひとつ職人の手によって丁寧に削り出されながら、姿を変えていきます。

しっとりとしていながらも硬く、深みのある色合いは、
なぜかとても心安らぐから、不思議です。

このジャムべらで、パンにりんごジャムを塗ったらおいしそう…
なんて想像を掻き立てられるのも、
作り手のりんごの木に対する気持ちを感じるからかもしれません。

あえて難易度の高いリンゴの木を使った木工品を作ることによって、
木村木品製作所は、単にひとところの木工品屋にとどまることなく、
店舗什器、各種施設のキッズスペースづくりまで行っています。

人を優しい気持ちにさせてくれる木のぬくもりは、
様々なところに活躍の場がありますね。