MUJIキャラバン

「山形」カテゴリーの記事一覧

もくロック

2013年08月21日

国土の約2/3が森林で占められている日本は、
先進国の中でも有数の森林大国といわれています。

その多くは戦後、後世の需要に備えてと植えられた人工林でしたが、
燃料革命と外材の流入によって、手つかずのまま荒れ果てていく森林が増加。

間伐をして新しい木を育てていく必要性と、
間伐材の利用促進が求められている実態を、
このキャラバン中、各地で耳にしてきました。

そんななか、山形県でユニークな木工品に出会いました。

木材×ブロック=もくロック

森林が約75%を占める山形県内の、主に間伐材を利用したおもちゃです。

「山形にいる意味を見出せる事業を作りたかったんです。
周囲を見渡すと、本当に山ばっかりなんですよね。
そんな地域資源を使って何かしたかった」

米沢市にある株式会社ニューテックシンセイの
桒原晃(くわばらあきら)代表取締役は、
もくロックに込めた想いをそう語ります。

驚いたことに、こちらの会社は、OA機器の組み立てが本業でした。

OA機器パーツと木工品。

一見、共通することはなさそうな両者ですが、
もくロックにはそれまで蓄積された技術が活かされていました。

この約3cm×1.5cmほどのブロックが重なり合うように加工を施せるのも、
まさにOA機器製造で培われた精細な技術あってこそ。

製造現場も、これまでの木工品の製造現場では見たことのないほどの
ハイテク機器が導入されていました。

「木をなめるんじゃない、って初めに相談した
林業関係者からはそう言われました」

と、開発課の山岸新司さんは話します。

相手は自然の産物なので、
湿度で変化する木の扱いや、削る順番に苦心されたそうです。

それでも、県の産業技術センターに相談しながら、
2年の月日をかけて、商品化にこぎつけたのは、
「やればできる」という自分たちの技術への確信でした。

「自然の力、美しさを、子供たちに感じてほしい」

そう桒原さんが話すように、
もくロックは、木のままの色・匂い・手触りがそれぞれで、
二つとして同じものはありません。

使う木材は、県内の間伐材のなかでも、
家具や建材などに利用できない木材ばかりで、
これまでに9種類ほどの木を使ってきたそうです。

丸太ごと仕入れているのも、
一本の木さえも無駄にしないという想いから。

「もともと山形には、多くの恩恵を与えてくれる自然への感謝の気持ちを込めて、
草木の命を供養する"草木塔(そうもくとう)"という、
碑や塔を建立する習慣があるんです。
こうした草や木の命も尊く想おうとする山形独自の自然観も大切にしたかった」

桒原さんがいうように、
実際に、現在でも町中で草木塔の碑を見ることができました。

こうした自然に対する感謝の念が、
もくロックには込められていました。

このもくロックを用いて作られた作品の数々が
生き生きしているように感じとれたのも、
そうした木に対する想いの表れかもしれません。

「これだけ自然に囲まれていながらも、
自然の魅力を感じるきっかけが少なくなってしまった現代のくらし。
もくロックを通じて、少しでも自然を、五感を使って感じてもらい、
本来、自分たちが持っている感性に気づいてもらえたらうれしいですね」

地域を想い、自分たちのできることを実行していく姿勢は、
どんな地域においても模範となる取り組みではないでしょうか。

"今あるものをどう活かすか"という視点は、
ものや場所だけでなく、技術に関してもいえることなのだと知りました。

その日しか食べられない団子

2012年07月06日

山形県北東部にある大石田町(おおいしだまち)を車で走っていると、
人気のほとんどない町で、
突如行列のできるお店に出くわしました。

そこは「横丁とうふ店」というお豆腐屋さん。

気になったので、私たちも車を止めて列に並ぶと、

みなさん注文しているのは、お豆腐ではなく、お団子です。

確かにお豆腐の陳列もありますが、
ここのお団子はお豆腐で作られているのでしょうか?

話を聞いてみると、この地域では
お豆腐屋とお団子の組み合わせは珍しくないんだとか。
お豆腐づくりの過程で、大豆を蒸かす際に
お米も一緒に蒸かすようになり、
それをお団子にするようになったといいます。

同じエネルギーで、2つの商品ができてしまうのは
一石二鳥、素晴らしいことですね。

また、店内にはこんな看板や注意書きやがありました。

「一本からでもお作り致しますから
本日中に召し上がる分だけお買い求め下さい」

つまり、贈り物やお土産には不向きなお団子なのです。
多く買わせようとするのではなく、
"本物の味を提供しよう"という食品づくりの基本を実現されています。
でもこれは、商売をするうえでは案外実現できていないことかもしれません。

12年前にデパートのフェアで販売した際、
「いつまでもつの?」というお客さんの質問に、
「明日には確実に硬くなります。今日中にお召し上がりください」
と正直に答えたところ、それでも
「本物だから仕方ないわね…」
と1日のうちに1000本以上が売り切れ、
『最上川千本団子』という名称になったんだそうです。

作り置きではなく、注文してから作られるそのお団子は、
ふわふわモチモチで柔らかい!

また、お団子の原料であるお米はもちろん山形県産、
「くるみだんご」(写真上)は地元産のくるみを、
「ずんだんだんご」(写真下)は地元産の枝豆を使用されています。

昨今はインターネットや物流の発達により、
自宅にいながらも全国のグルメやスイーツが味わえてしまう時代ですが、
そこに行かないと食べられない、
作り立てだから美味しい、
もしかすると、それが本来の食のあり方なのかもしれないな…
そう感じました。

納豆汁を作ろう!

山形といえば、

さくらんぼに、

玉こんにゃくが有名ですが、実は「納豆」の消費量が高い
って知っていましたか?

スーパーには山形県産の納豆が多数並び、

"塩納豆"や"南蛮納豆"なんていう、
これまでに見たことのない納豆もありました。

また、家庭料理にも納豆は頻繁に登場するそうです。

例えば、山形でお餅を食べる時には、「納豆もち」が一般的なんだとか。
納豆好きの私たちですが、これまで納豆とお餅の組み合わせは
食べたことがありませんでしたが、おいしい!

次に、山形県の内陸部で食べられているのが、
つゆに納豆と卵、サバ缶などを入れて食べる
「ひっぱりうどん」「ひっぱりそうめん」。

それから、冬の定番料理のひとつが「納豆汁」。
昔から消化が良く体が温まる汁物として親しまれ、
山形では、大みそかや1月7日に七草粥の代わりに
納豆汁を食べる習慣があるといいます。

今回は季節はずれというのと、各家庭で作られているものとあって、
なかなか巡り合えないなか、
酒田市にあるちゃんこ鍋屋「北の富士」さんの料理長にご協力いただき、
「納豆汁」の作り方を教えてもらいました!

材料はこちら。
納豆に、厚揚げ、なめこ、月こんにゃく、山菜、せり。
(季節や家庭によって材料は異なります)
調味料はだし汁、味噌、酒、醤油。

材料がそろったら、まずは納豆にお酒を少々加え、
すり鉢でよくすります。
(すり鉢がない場合は、包丁で細かく刻んでもいいそう)

続いて、だし汁に納豆以外の材料を入れて煮ます。
具材が柔らかくなったら、お味噌と醤油少々で味付け、

最後に納豆を入れます。
(納豆を入れる際に、煮汁でゆるめて溶かし入れるのがポイント!)

器に入れて、お好みでせりやネギをのせたら出来上がり!

とっても簡単です♪

食べてみると、少しとろみがあり、
食べているうちに早速、体がぽかぽかしてきました。

「雪道と納豆汁は後の方がいい」という言葉があるそうで、
降り積もった雪道は、誰か先に歩き踏み固まった後の方が良い。
納豆汁も出来上がりをすぐに食べるよりも、
半日くらい寝かせて食べるとさらにおいしいんだそうです。

高たんぱく、低脂肪で胃腸にやさしい納豆を使用している納豆汁は、
整腸作用や肝臓障害防止にも最適のようです。

すぐに真似のできそうな、山形県の郷土料理「納豆汁」を
家庭で作ってみてはいかがですか?

紅花染め

2012年07月05日

今から約300年前に京都で始まった舞妓さんの紅。

インドの女性が額に付けるビンディや、身につけるサリー。

これらの染料にはかつて、同じこの花が使われていました。

「紅花」です。

日本へは7世紀初め、シルクロードを渡って、
染色技術とともに中国から渡ってきたといわれています。

江戸時代、その土地や風土が紅花の栽培に適していた山形県は、
全国生産量の約50%以上を占めるほどの最大の産地に。

山形の内陸で採れた紅花は「最上紅花」と呼ばれ、
最上川を利用して日本海沿岸の酒田に運ばれ、
北前舟の西廻り航路で、京都や大阪へと送られていきました。

当時は金と同じぐらい貴重な染料として取引され、帰りの船には、
陶磁器や美術品、塩、茶、海産物などが積まれてきました。

その返り荷の一つであった雛人形は、
県内の至る所に配置・保管されています。

また当時、この紅花を主とした交易で、
一大財を築き上げた商人たちの家城が現存しており、
当時の面影を見ることができます。

酒田の大商人、本間家などは殿様より力を持っていたと聞きますから、
紅花がどれだけ高価なものであったか想像がつきますね。

紅花から抽出できる色素は黄色と紅色の2色ですが、
そのうち、紅色が占める割合は1%未満。高いはずです。

これに藍色を加え、三原色のすべてがそろうと
染め方によって、大きく6色の色を出すことが可能になるんです。

ご覧の通り、鮮やかな色合い。

こうして、自然の色で染め上げられた紅花染めは、
見ていてもいっこうに飽きがこないから不思議です。

「植物はそれぞれに色合い、色素、風合いというものが違います。
だから同じものがない。
そこが今も植物染めが続いている魅力なのだと思います」

そう、職人も紅花染めの魅力を語ります。

明治時代に入り、外国産の化学染料が輸入され、
急速に姿を消していった紅花産業ですが、
山形県では県花にも認定し、今でもその文化を守り続けています。

昨日のブログでご紹介した佐藤繊維(株)でも、
紅花染めのストールを開発し、世界へ発信。

こうした新たな取り組みで、
歴史が受け継がれていくといいですね。

世界に認められた、メイド・イン・ヤマガタ

2012年07月04日

山形出身の友人に、
「世界中から注目されているニットメーカーがある」
と聞いて、山形県のほぼ中央に位置する
寒河江(さがえ)市にやってきた私たち。

訪れた佐藤繊維株式会社で
東京出張から戻ったばかりの佐藤正樹社長に、
お話しを伺うことができました。

まずお会いしてみて、その若さとインパクトのあるファッションに衝撃。
お話いただくひと言ひと言に吸い込まれていきます。

「昔からある歴史や機械、ストーリーがあるからこそ今がある…」

そう始められた正樹社長。

さかのぼること80年以上前、もともと農家が多かったこの地域では、
冬に雪で作業ができないことから養蚕が盛んだったそうです。
しかし、その後洋服の文化が入ってきて、東京や愛知で紡績業が本格化。

羊を飼うためには大量の草と広大な敷地が必要なので、
東京や愛知では原料の羊毛(ウール)を輸入していました。

一方、山形では米作が盛んだったため、幸いにもワラがたくさんあり、
正樹社長の曾祖父が近所の各家庭に羊を数頭ずつ飼ってもらい、
手編み毛糸の製造・販売を始めたといいます。

その後、祖父の時代に工業化。
原料を輸入するようになり、糸づくりの量産が始まり、
父親の時代になると、セーターの販売もスタートしたそう。

しかし、時代の移り変わりとともに、セーターの価格はどんどん落ち、
2005年に正樹社長が就任した時も、厳しい時代は続いていました。

約20年前に400~500社あった紡績会社が、
現在三十数社にまで減ってしまっているんだそうです。

「先代から受け継いだものづくりを、次世代につなげることが僕の使命。
息子が継ぎたくなるような会社にするのが目標ですよ」

そう話す正樹社長の転機は、イタリアを訪れた時だったといいます。

「日本人は言われたことをやってきただけ。
もっと自分たちから情報発信していくべきだ。
クリエーターとして、これまでにないものを作ろう!」

そう決意して紡績機の改良から始めました。

最新鋭の機械は安定した糸を効率的に生産するのには適していますが、
個性的な糸を紡ぐことはできない。
そこでわざわざ古い機械を見つけてきて、それを改良して使うようにしました。

ヨーロッパでは効率化を図って
どんどん新しい機械に入れ替わっていく中で、
物を大切にする日本だからこそ、古い機械も見つかったんだとか。

また、同時に最高の原料も探し求め、世界中を自ら歩き回りました。

そして、2007年にイタリアのニット素材展示会で
オリジナルの糸を公表すると、
世界のラグジュアリーブランドの多くが注目。

さらに2009年1月には驚くべきニュースが!

オバマ大統領の就任式で、ミシェル夫人が着ていた
ニナ・リッチのカーディガンに
佐藤繊維が開発したモヘア糸が用いられていたのです。

その後も世界一細い糸の開発に成功した正樹社長は、
オリジナルブランドも起ち上げています。

「糸を細くすることで、セーター以外のアイテムが作れるようになりました。
ニット=セーターの歴史を変えることができたと思っています」

確かにニットと聞くと、モコモコのぬくぬくしたセーターを
思い浮かべてしまいますが、
これからの季節に着られるキャミソールや

ハンドバッグやブレスレットなどのアクセサリーも
同じニットでできているんですよね。

カラフルなニット商品は、
身につけるだけで気分がワクワクしてきそうです♪

「万人に喜ばれるものじゃなくって、変人に喜ばれるものを作らないとね。
玄人が求める"すげぇ"に応えられるか、だと思いますよ。
作り手が自分の強みを理解していないとダメ。
○○を作らせたら世界一!というブランディングをしないといけない。
仮に僕が別のものを作っていたとしても、売る自信がある」

そう、力強くおっしゃる正樹社長が放つオーラはまぶしいほど。

歴史や伝統を重んじながらも一方で、
ものづくりには発想の転換も必要なのかもしれません。

「自分の中の価値観を信じて、夢や目標を決めれば成功できる」

正樹社長の経験から来るこの言葉には、説得力がありました。

今後もメイド・イン・ジャパンならぬ、
「メイド・イン・ヤマガタ」から目が離せません。

山形の暑い夏の過ごし方

2012年07月03日

「山形って夏暑いんですよ!」

無印良品イオン山形北店に伺うと、
そう店長が教えてくださいました。

山形が冬寒いのは知っていますが、夏暑い?
意外でしたが、山形市は2007年まで、
なんと74年間にわたって日本最高気温の記録を保持していたんだそう。

そんな暑い山形で人気の商品とは…

店長の身につけているもの、なんだか分かりますか?

水に濡らして使う・UVカットクールバンド ネック用

水だけあれば何度でも使えるクールバンド、いいですね☆
さりげなくつけられますし。

以前、インドの砂漠でラクダに乗っていた時に、
同じく水に浸した布をかけると暑さをしのげると
ラクダ使いに教えてもらったことを思い出しました。
暑さ対策は万国共通なんですね!

他にも山形の暑さ対策を聞く中でお薦めいただいたのがコレ。

氷が浮いたラーメン!?!

山形市のとあるラーメン屋で、常連客の
「夏には冷たい蕎麦を食べるんだから、ラーメンも冷たいのが食べたい」
というひと言から考案された一品、
「冷やしラーメン」だそうです。

食べてみて納得!
さっぱりしたスープにつるつるコシのある麺がおいしい♪

スーパーに行ってみたら、家庭で作れる
「冷やしラーメン」もありましたよ。

また、あるようで食べたことのなかったお蕎麦、
「冷やし肉そば」もぜひ!と言われて実食。

鶏だしのきいた醤油味の冷たい汁そば。

つけ蕎麦の場合、どちらかというとお蕎麦そのものを味わうのに対し、
この「冷やし肉そば」は冷たいつゆと、歯ごたえのある鶏肉が
すべてセットになって出来上がっている味のようですね。

「冷やし肉そば」のルーツは大正時代にさかのぼるそうですが、
こちらも常連さんがおかずのお肉をお蕎麦にのせて食べたのが
キッカケなんだとか。

暑い山形で生まれた「冷やしラーメン」に「冷やし肉そば」。
食文化の中にも、こうした暑さを乗り越えるコツがあるんですね!

みなさんの地域の食べ物はいかがですか?

米沢牛との出逢い

2012年07月02日

山形県南部の人口8000人に満たない町、飯豊町(いいでまち)。

広大な田園散居集落が広がるその地は、
全国にその名を轟かせる肉牛の産地でもあります。

「松阪牛」「神戸牛」と並んで、日本三大和牛に数えられる「米沢牛」。
その約4割は、この飯豊町で飼育され、出荷されているんです。

その牛を一目見たいと、宿の近くの牛舎の周りをウロウロしていると、
よほど怪しく見えたのでしょう。

「どっから来たね?」
複数の男性に声を掛けられます。

「東京です。取材で」
と応えると、

「そしたら、ええ写真ある。づいでごい」
と言われるがままに、近くの公民館に連れて行ってもらうことに。

そこには、米沢牛の歴史を語るうえで、希少な写真が飾られていました。

「むがしっがら、立派な牛を育てとったんだぁ」

そう、その男性たちは、
飯豊町で畜産業を営む社長の方々だったのです。

しかもそのうちの一人は、
この地区で最も古くから畜産業を営む、田中畜産の田中社長。

偶然の巡り合わせで、米沢牛の歴史、おいしさの秘訣などについて
お聞きすることができました。

米沢牛の名が全国に馳せるようになったのは明治初期。

米沢藩に招かれていた英国人講師チャールズ・ヘンリー・ダラス氏が、
故郷を懐かしんで牛肉を食べ、その味に感激し、任務を終えた際に、
米沢の牛を1頭横浜に連れ帰り、仲間に振る舞ったことに始まるようです。

当時、食肉用というよりも、農耕作業用に飼われていた牛でしたが、
文明開化後、欧米の肉食文化が浸透していくにつれ、
米沢牛の名は徐々に全国的に広まっていきました。

「その美味しさの秘訣は?」

ふと素人じみた質問をすると、

「ええもん食わせてっからなぁ」と。

かねて土壌が肥沃だったこの地域では、
農耕作業用に家族同様に扱われていた牛にも
お米を与えていたんだそう。

今でこそお米は与えてはいませんが、
国産の稲わら、大麦、とうもろこし、大豆かす、フスマ、米ぬかなど、
生産者独自に、おいしい肉質を追求した餌が配合され、
場所によっては米沢産のりんごを与えるところもあるそうです。

田中社長曰く、海外では与えないような独自の餌の配合が、
和牛のおいしさをもたらしているとのこと。

さらに、寒暖差の激しい気候も、
牛の体が寒い冬を乗り越えるべく、脂質を蓄えようとするため、
きめ細かい霜降り肉にするための大切な条件なんだそうです。

「なるほど、それなりにお値段が張るわけですよね…」

「そりゃそうだぁ。2年間、育てっがら!」

そう、生後10ヵ月の仔牛から精魂込めて約2年間、
立派な牛に育て上げたうえで、出荷するわけなんです。

しかも、1頭の母牛から1頭しか仔牛は誕生しません。

ちなみに、
豚は一頭から3~12匹産まれ、出荷までは約6ヶ月間。
鶏は一頭からたくさんの卵が産まれ、出荷までは約2ヵ月間。

牛肉が高い訳も分かります。

それだけに出荷する時は、さみしさも募るようです。

一頭ずつ、番号で呼んでいるのかと思いきや、
きちんと名前も付けているそうですから。

写真は昔の出荷時の光景ですが、
生産者たちが総出で、牛を見送っている姿からも、
その想いの強さを感じます。

「せっかぐだから、食べてけぇ」

普通には絶対に聞けないような話を聞くことができ、
その上、ご馳走にまでなるのはさすがに気が引けましたが、

「ええがら、ええがら」

と笑顔で田中社長に勧められ、結局お言葉に甘えることに…。

そこで出していただいた牛肉は、
口の中でとろけるような味わい。

レバーも、まったくと言っていいほど臭みがありません。

これで、レバ刺しも食べ納めです。
(取材は、6月下旬に行いました)

日本三大和牛、米沢牛のおいしさの裏には、
生産者のあくなき努力と想いが詰まっているんですね。

食卓では、常に感謝の気持ちを忘れずに、
もちろん残すことなく頂こうと心に決めました。