各国・各地で 風のしまたび

サトウキビ王国のあった島 沖縄県大東諸島の旅その1

2016年11月30日

もう十一月になるというのに国際通りは汗ばむ陽気で、まだ夏の残り香がたっぷりと漂っていた。賑やかで仰々しい土産物屋の連なりで耳にするのは中国語に英語、それからタイ語などの外国語ばかりで日本語の存在感はかなり小さい。
外国にでも来てしまったのだろうかと、少し浮ついていると道の反対側に修学旅行の学生団体を見かけて、ここが日本だということを改めて確認する。

けれど、足を延ばした先の公設市場で売られていたのが、ブルーの鱗がぬらぬら光るアオブダイや握り拳よりも大きな夜光貝、巨大な体にいかついハサミを構えたカニなど、なかなか見かけない南国の魚介ばかりだったから、僕は再び不思議な倒錯感を覚えた。
ここは日本でも、本土とはまるで異なる南国的ニッポン。満を持して、沖縄への初上陸である。

どうしてここにやって来るのに、これほど時間がかかってしまったのかは分からない。世界のあちこちを旅して、今は島を巡る旅をしているにも関わらず、ぽっかりと抜け落ちていた場所。それが僕にとっての沖縄だった。
だから、満を持してというよりも、ようやくと言った方が頃合なのかもしれないけれど、とにかくようやく沖縄を訪ねるきっかけを得た。
きっかけとは前回旅した八丈島出身の開拓民が切り拓いたという大東諸島のことだ。沖縄でありながら八丈島文化が根付くという島々に興味を引かれた僕は、まずは入り口となる那覇へと飛んできた。そして、どこか東南アジアの国々を彷彿とさせる南国の空気を味わいながら二日間を過ごした後、大東諸島へ向かった。

北大東島と南大東島で構成される大東諸島は沖縄本島の東350km程にちょこんと浮かぶ小島で、周囲に他の島はなく、地理的に孤立している。
島へのアクセスは週に1、2本の定期船の他に、空の便が毎日就航している。現地での滞在日数を考えて、行きは飛行機、帰りは船で往復することにした。飛行機といっても座席数39席の小さなプロペラ機で、今回の乗客は僅かに14名。大東諸島は沖縄の人間にとっても遠い島なのである。

フェリーならば15~16時間ほどかかる距離を、飛行機は1時間で結ぶ。早いのは結構なことだったけれど、シートベルト着用のサインが消えて、さんぴん茶の機内サービスが配られたと思ったら、まもなくすぐに着陸態勢に入るというからけっこう忙しない。やがて左手前方に南大東島が見えてきた。

山らしい山も見当たらず平たい緑の台地がのっぺりと広がる島だった。周りを取り囲むフチの部分は浜辺の一切がなく、ごつごつした岩肌の岸壁が続いていて、船での上陸の難しさを感じさせたけれど、上空から眺める率直な感想としては、気候穏やかそうな南の島との印象を受けた。それは奥に見える北大東島も同様だった。最近は火山島ばかり訪れていたから特にそう感じたのかもしれないが。

滞り無く無事に着陸。バゲージクレームのベルトコンベアもない小さな空港は飛行機が到着した時だけささやかな賑わいをみせる。出迎えには、沖縄らしい南洋の顔つきの人もちらほら見かけたのに加えて、肌も顔立ちも明らかに南国出身を確信させる人間も何人かいた。出稼ぎ労働者だろうか。
僕と入れ替わるようにして、空港で待機していた人々が戻り便となる飛行機に乗り込み出した。
ちなみにこの大東航路はとてもユニークな航路で、戻り便は隣の北大東島に立ち寄ってから那覇へと向かう三角航路なのだけれど、南大東島と北大東島の距離は直線で12km程度しか離れていない。だから飛行時間は短いときでたったの三分しかないそう。離陸した瞬間に着陸体制に入るという日本一短い航空路線となっている。
大東航路は曜日によって南大東島を先に周る南先行と、北大東島を先に周る北先行があるので、北先行便に乗っていれば僕もこの三分間フライトを楽しんでから南大東島にやって来れたはずなのだが、それを知ったのは飛行機を予約した後だったから、ちょっと悔しい思いをしてしまった。

北大東島経由那覇行の飛行機のプロペラのはためきを聞きながら、自転車を組み立てていると、いつものように島人の老夫婦に声をかけられた。
「自転車ですか。何もないところですけど、何をしに来たんですか?」
「先日、八丈島を訪ねてまして。この島が八丈島とゆかりがある島だと聞いてやってきました」
「そうですか。私の生まれは八丈ですよ」
さっそく八丈島に縁がある人物が現れるとは幸先がいい。やはり今も結びつきはしっかり残っているようだ。
「ここは何もない島ですけどね。ゆっくりだけはできますよ」

老夫婦が立ち去った後の空港は人気がなく、がらんとしていた。
自転車を組み上げると、サドルに跨って、さっそく島へと漕ぎ出すことにした。
空港の駐車場の出口には"おじゃりやれ"と掘られた石碑が立っていた。おじゃりやれは、"ようこそ"を意味する八丈言葉だ。島と島の繋がりが、ここにもあった。
おじいさんは何もない島だと繰り返し言っていたけれど、何もないどころか、僕にとっては冒頭から発見だらけだった。

走り出すとすぐにサトウキビ畑が広がっていた。平坦な地形も手伝って、島とは思えない、大陸を彷彿とさせる広大なスケール感でどこまでも続いている。南大東島は島の六割がサトウキビ畑だという。サトウキビは開拓以来ずっと変わらず中心産業で有り続けている。

島の開拓史もまた独特でとても興味深い。
もともと無人島だった南大東島は、明治時代に日本として領有が宣言されて以後、政府に多くの開拓願いが寄せられたが、周りを囲む険しい岸壁のために上陸を阻まれ続けていた。1900年になってようやく上陸を成功させたのが、八丈島の実業家の玉置半右衛門の送った23名の開拓民だった。半右衛門は八丈島の遥か南に位置する鳥島でアホウドリの羽毛貿易で巨万の富を築いた人物であったが、乱獲によりアホウドリはほとんど絶滅に追い込まれていた。
羽毛に変わる新たな事業を画策する中で、目をつけられたのが南大東島だった。開拓民たちは平坦で肥沃な土地を利用して大規模なサトウキビ栽培を始め、1903年には北大東島の開発も始まり、こちらではサトウキビの単一栽培に加え、燐鉱石の採掘も行われた。以来、島には八丈島のみならず、沖縄や台湾などからも出稼ぎ労働者がやって来て、入植から十数年で、島の人口はそれぞれ2000~3000人の人口を抱えるほどに栄えた。

これだけ労働者が集まっていた大東諸島だったが、当時は市町村が置かれておらず、島は半右衛門の会社である玉置商会によって統治されていた。島のインフラ整備から学校や病院、商店の経営、郵便に至るまで行政と経済活動のすべてを玉置商会が担っていた。
流通する通貨までも独自の玉置紙幣を発行していたというのだから驚いてしまう。玉置紙幣は島内でしか使用することはできず、労働者への賃金は玉置紙幣で支払われていたため、彼らは島から逃げ出すこともできなかった。
半右衛門の死後、急速に経営が傾いた玉置商会の権益は東洋精糖へ売り渡され、さらに東洋精糖は後に大日本製糖に吸収合併されるようになるが、それでも一企業による島の支配は戦後まで続いた。
主権は国にありながらも、実際は一つの会社がすべてを支配する島がつい100年前の日本に存在していたなんて。サトウキビに刻まれた奇異な歴史に何とも言い難い好奇心を掻き立てられた。

刈り入れを間近に控えたサトウキビは僕よりも背が高く、風に揺られて穂先が優しくざわめいていた。ざわめきは何を語っているのだろう。このサトウキビこそがこの島の栄枯盛衰を物語る生き証人である。

(次週に続く。沖縄県大東諸島の旅は全4回を予定しています)

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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