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海の道をつないでアイランドホッピング 広島県瀬戸内海の旅その3

2016年08月10日

御手洗地区を出る時にYさんから、この先のお昼ご飯スポットを聞いておいた。
「それなら久比(くび)地区のひばり座がいいですよ。お好み焼きを食べられます」
お好み焼きか。そういえば僕は広島県を訪ねるのはこれで三度目だったけれど、本場のお好み焼きを食べたことがなかった。ちょうどいい機会だから、そこで食べていくことにしようか。

ところがYさんにそのひばり座の場所を尋ねると、"小学校の近く"というざっくりとしたことしか教えて貰えなかった。そして「とにかく行けばわかる」という曖昧極まりない情報だけを頼りに久比地区まで走ってきた。
小学校周りを囲う用水路に沿って路地を奥へ進む。こんなところに本当にお好み焼き屋があるのだろうか? 奥へ進むほどに人家は密集し、道幅は軽トラック一台分ほどまで狭まってしまった。いくらなんでもここじゃないだろう、引き返そうと思った時、前方右手にそこだけ異様な存在感を放つ民家が現れた。
建物の壁には額縁に入れた肖像画がおびただしい程の量で飾られていた。よく見るとそれらは共通のモチーフを元に描かれたもののようだ。美空ひばりである。Yさんの言った「行けばわかる」とはこういうことだったのか。お好み焼き屋ひばり座は確かに一発で分かる佇まいであった。

店の中に入ると、とうとう四方八方を数十人の美空ひばりに囲まれた。奥からおじさんとおばさんが出てきた。このおじさんが熱狂的なひばりファンなのだそうだ。といってもファンになったのは、彼女が亡くなった後らしく、その反動のせいかこうして肖像画を書き続けているようだ。
おばさんにお好み焼きを注文して、水でも飲んでさぁ一息つくぞと思っていると「はい、じゃあ上がって」とおじさんに二階に連れて行かれた。
そこもまた美空ひばりの肖像画部屋となっていて、そこでもああだこうだと半ば無理矢理おじさんのひばり愛を聞かされることになってしまった。そしておじさんの講釈を一通り聞き終えると、お好み焼きが焼き上がる頃合い、という良くできたシステムである。狙っているわけではなさそうだったけれど。

おばさんが焼いてくれたお好み焼きはダブルで550円という信じ難い安さだった。豚肉入り焼きそばがたっぷり入っていて味も悪くない。昨日のみはらし食堂もそうだが、この島の飲食店はお店のシステムや価格設定がむちゃくちゃである。
しかし一方で、この強烈な個性こそが過疎の進む島でいつまでも店を続けてこられた極意でもあるのは確かだった。それは島というおおらかな土地に育まれた天然の逞しさでもある。一見するとセオリー無視で我が道を行くように見える経営こそ、客を呼ぶ最適解だということを体で分かっているのだ。そういう店が本土の幹線道路沿いに並ぶ無個性なチェーン店よりも断然魅力的であることは、この店に吸い寄せられ面白いと感じている僕自身が物語っていた。
お会計をして店を出ようとすると、聞いてもいないのにおじさんが言った。
「お客さんはみんなブログとかSNSとかに写真載せてますよ。私は撮られるのは構いませんからどんどん載せてください」
…やっぱりもしかすると、このご主人は結構なやり手なのかもしれない。僻地にあるこの個性的な店を宣伝する最良の手段は今の時代インターネットだとちゃんと分かっているのだから。島で店を続けてこられたしたたかさの片鱗も垣間見た瞬間であった。

午後の走行はそれまで停滞していたグレー色の雲がどこかへ消え去り、初夏の青空が広がった。意外だった。最新の予報でも雨マークは消えていないどころか、大雨警報が出ているにも関わらずの空模様だったからである。
今日も雨に降られるものと覚悟していたのに、僕のいるところだけぽっかりと雨雲が抜けている。晴れの日の多い瀬戸内海の面目躍如ということなのだろうか。大雨警報下の晴天とは、なんだか落ち着かないそわそわした妙な心持ちだった。

しかし天気が良いと景色は抜群に良い。この時期ならではの瑞々しい緑に覆われた大小の島々と空のコントラストがよく映える。水深の浅い瀬戸内海だから、外洋のようなどす黒さはなくて、太陽の光が海を透過して、すっきりとしたブルーの水面がきらきらと光っていた。

大崎下島から豊島へ、豊島から上蒲刈島へと架かる橋から望む景色はいちいち絶景で、立ち止まる回数が増える。

これでは雨でも晴れでもペースが変わらないじゃないか、と苦笑しつつ僕はこの青天の霹靂ならぬ、霹靂の青天を堪能した。これぞアイランドホッピングの旅にふさわしい天気である。

しかし、翌日は現実を取り戻したかのように朝から雨だった。空の低いところをもやがゆらゆらと停滞し、視界が悪く、瀬戸内海自慢の多島美は見る影もない。

昨晩泊まった宿の女将の話によると、昨日も晴れたのも実はごく一部の場所だけで、あとはずっと大雨だったらしい。それを示すかのように、宿を出発してしばらく走った先では雨による土砂崩れで道が通行止めとなってしまっていた。

とびしま海道は基本的に島の沿岸部に沿って道が伸びている。だから道が塞がってしまうと島の反対側に回り込む以外に迂回路がない。雨の中、遠回りするのは億劫だったけれど他にどうしようもないので来た道を引き返し、島の南側へ向かった。

蒲刈大橋を渡り、下蒲刈島にやってくる頃には目を開けていられない程に猛烈な雨脚がバラバラとレインウェアを叩いた。雨宿りをしようにも、なかなか良い場所が見つからない。石畳で演出された島の歴史地区を抜けた先にようやくお好み焼き屋の暖簾を見つけ、そこに逃げ込んだ。全身濡れねずみの格好でお店に入るのは心苦しかったが、店のお母さんの「ええよ、ええよ、気にせんで」という言葉に甘えることにした。

壁にくっついた細長いテーブルにスツールが3つだけの店内で、お母さんが一人、鉄板でジュージューカンカンとやっている。雨ですっかり冷えていた僕にとって、その光景は見ているだけで暖かくなった。その最中にひっきりなしに注文の電話がかかってきていた。店は小さくとも人気の店なのだろう。
「もう三十年焼いとるねぇ」とお母さんは笑った。

まもなく僕の肉玉入りお好み焼きができあがった。アツアツのお好み焼きを唇にソースや青のりをつけながら頬張る。ボリューム満点で一つ430円だ。やっぱりこの辺りの飲食店はどこかポジティブなおかしさに満ちている。

店の壁には古ぼけた手書きのお品書きが貼ってあり、値段のところは上から書き直した跡があったので、これでも物価や材料費の高騰の影響を受けているのだろう。昔はいったいいくらだったのか、知るのがちょっと怖い気もするし、知ってみたくもある。

お好み焼きを食べながら、外を眺めていた。天候が回復する余地はなさ気で、鈍色の空は濃さを増し、バケツをひっくり返したような土砂降りを落としていた。 このあたりが引き時だろうかと思う。 この先の安芸灘大橋でとびしま海道は広島県本土にぶつかり、さざなみ海道に接続する。今日の午後はさざなみ海道を走り、呉からかきしま海道の途中にある倉橋島あたりまで走ろうと思っていたけれど、ちょっと難しそうだ。隣の九州地方も大雨だというから、明日の天気の保証もない。無理に自転車で先へ進み、もし途中でさらに天気が悪化すれば進退窮まってしまう。この先を諦めて走りを切り上げるには、列車の走る本土に近いこの場所がラストストップだったのだ。
「ここから川尻と仁方の駅はどっちが近いですか?」お母さんに尋ねた。
「島の人たちは仁方に行くのが多いねぇ」と教えてくれた。
すると、僕とお母さんの会話を耳にしていた客のおじさんが割って入ってきた。
「この雨じゃけぇ、電車も止まるかも分からんよ。昨日も止まったけんの」
「…マジっすか」
これを聞いて腹が決まった。島に閉じ込められる可能性が出てきた今、今回の旅はここで切り上げだ。

とはいっても雨は猛烈な勢いで降り注いでいて、駅までの数キロでさえ自転車で移動できる状況ではなかったので、雨が弱まるのを待つ間、近くにある松濤園を訪ねた。ここには全国で唯一の朝鮮通信使資料館がある。大崎下島の御手洗地区が栄える以前は、この下蒲刈島が潮待ち港として発展していたそうで、江戸へ向かう李氏朝鮮の使節団も度々立ち寄っていた記録が残っている。
館内では朝鮮式の帆船のミニチュアや当時のもてなしの様子などを再現した資料が展示されていた。釜山を出た使節団は対馬、壱岐、赤間関(下関)などを経て瀬戸内海を横切り、大阪までを海路で通行したそうだ。地域ごとに藩の護衛船が加わり、それはもう大パレードの様相だったことが展示された絵画から伝わってくる。今でこそ朝鮮半島と瀬戸内海の結びつきになかなかピンとこないが、当時は海の道によって現代よりもずっと強く繋がっていたのだろう(残念ながら館内は撮影禁止だった)。

一時間ほど見学をしていると、少しだけ雨が弱まった。このチャンスを逃すかとばかりに自転車に跨がり、とびしま海道の出口であり本土の入口・安芸灘大橋へと向かった。
雨に打たれて走りながら考えていた。
これまでいくつかの島を旅して分かってきたが、島と外界をつなぐ出入口は限定的であった。言うまでもなく水に囲まれているからだ。普通の島の場合、出入口を担うのは港であるけれど、このとびしま海道の島々では橋がその役目を負う。橋が架かることは島と本土を日常的に結んだが、それはあくまで時間軸だけのことであって、出入口という場所軸で見れば港も橋も限定的であることには変わりない。陸路で結ばれたとびしまの島々が今もなお本土からの影響を最小限に止め、島の個性を保っているのは出入口がこの安芸灘大橋以外にないということによるのではないか。

結局、仁方駅に到着する頃にはひどいずぶ濡れになっていた。おまけに荷台のスーツケースにもどこかから雨が入り込んでしまっていて、蓋を開けると中は3センチほどのプール状になってしまっていた。着替えも何もかもがびしょびしょである。残りのさざなみ海道とかきしま海道を走れないことは残念だけれど、無理をしないでここで区切って正解だっただろう。
駅舎はがらりとしていて人気がなかったことをいいことに、荷物を広げて少しでも水気を切りながら自転車をパッキングした。

ところが自転車を仕舞い込み、プラットフォームへ向かうと前方から引き上げてきた女性から無情な事実を知らされる。
「なかなか電車が来ないから、駅に電話をしてみたら、今日はもう運休ですって」
ウソっ!? なんとお好み焼き屋のおじさんの予言通り列車が止まってしまったのである。周辺に宿泊施設もなさそうな場所だったから、これはもう一度自転車を組み立てて呉市あたりまで走らなければならないのかとげんなりした気持ちでいると、女性が隣の広駅ではまだ列車が動いていることを教えてくれた。そして「私もそっちへ移動するので、よかったら一緒にタクシーに乗りますか?」と誘ってくれた。
渡りに船とはまさにこのことで、僕は二つ返事でタクシーをシェアすることにした。
そればかりか広駅に到着し、運賃の半分を支払おうとすると「もともと私が一人で乗るつもりだったタクシーですから、いいですよ」とお金を返されてしまった。つまりシェアというよりも、便乗である。
「でも…」と食い下がる僕に「誰か困った人がいたら、そのお金で助けてくださればいいですから」と言うので、有り難くその親切を受け取ることにした。そして彼女は「また来てくださいね」と言って去って行った。
またこの土地の優しさをもらってしまったなと思った。
いつ瀬戸内海を旅してもここに来る度に素朴な善意に出会う。泊まっていきなよ!と声をかけてくれたり、切符を買ったら一緒にみかんも手渡されたり。それが瀬戸内海の温厚な気候のなせるわざなのかもしれないけれど、他の地方の人間からすれば驚天動地の至りである。だから瀬戸内海を去るときはいつだって心地いい余韻に包まれる。そしてまた戻ってきたいと思わせる。
今回は払いそびれたタクシー代という大きな置き土産もできてしまったし、走り損ねたさざなみ・かきしま海道もちゃんと走りにこなければならない。そうやって再訪する理由ができてしまうのが瀬戸内海なのだ。もし誰かに絶対に外さない日本の旅先を尋ねられたとした、僕は真っ先に瀬戸内海を挙げることだろう。

広駅からの広島行快速列車は大雨の影響でかなり混雑し、車内には梅雨の湿度が充満していたけれど、僕はそんなことはまるで気にならなかったのだった。

(次回からは長崎県の旅をお送りします)

海の道をつないでアイランドホッピング 広島県瀬戸内海の旅その2

2016年08月03日

「コマンタレブー?(ご機嫌いかが?)」
フランス人の女性教師が自転車に乗りながら挨拶を振りまくオレンジジュースのCMを見た時、その撮影場所が大崎下島の御手洗(みたらい)地区だと一発で分かった。
緩やかなカーブを描く堤防沿いの道、時代物の建物が混在するレトロ感ある家並、たおやかな海に点在する大小さまざまな島嶼群。間違いない、御手洗だ。

僕は以前に一度だけ大崎下島を訪れたことがあった。けれど、その時はこの島にこんな素敵な場所があると知ってやって来たわけではなかった。僕と大崎下島をひも付けたのは御手洗出身の故人・中村春吉という人物だ。

中村春吉は1902年から1903年にかけて日本人初の自転車世界一周を果たした男だ。中国、シンガポール、ミャンマー、インド、イタリア、フランス、イギリス、そしてアメリカを周遊したという。いわば僕の大先輩みたいな人間だ。その春吉の生まれ故郷が大崎下島の御手洗で、地区の天満神社には彼の偉業を称える碑石が立っている。

2015年12月に自転車世界一周の旅から日本へと帰ってきた僕は、フェリーが到着した福岡から実家のある福島へと日本を横断していた。百年以上も前に自転車世界一周をした人物が瀬戸内海の出身だ、そんな噂を耳にした僕は福島までの道すがら、旅の大先輩に帰国の挨拶をしに立ち寄っていたのだ。

ふらりと立ち寄った大崎下島の御手洗地区は思いがけず記憶に焼き付く島となった。瀬戸内海らしい多島海の望む御手洗の港町は江戸時代の町並みを色濃く残し、雰囲気の良いところだった。ここでひょんなことから地元の人間と知り合うと、「現代の中村春吉が来たぞ」とあれよあれよと話が盛り上がってしまい、そのまま島に一泊させてもらったのだった。
あの時、お世話になった人たちは元気にしているだろうか。夏の瀬戸内海もきっと素晴らしいだろうな。とびしま海道も通っていることだしもう一度訪ねてみよう。アイランドホッピングの旅は僕にとって大崎下島を再訪するいい口実だったのだ。いわばとっておきの島なのである。

ちなみに余談ではあるけれど、そのオレンジジュースはフランス保護領だった歴史を持つモロッコを走っていた時によく飲んでいた飲み物である。僕が海外を走っている間にそれが日本に進出していたことにも二重で驚いた。一本のオレンジジュースが海に囲まれた御手洗とモロッコの日干しレンガの町並みの記憶を結ぶなんて、全くミスマッチだ。

「すみません、遅くなっちゃいました!」
暗くなった海岸線を猛スピードで飛ばして、みはらし食堂の扉を開けるとN夫婦がいた。
「おぉー、待っとったよぉ。久し振り」
このN夫婦の旦那さんこそが僕が前回、御手洗に滞在するきっかけとなった人だ。

半年前、自転車を押しながらぼんやりと散歩していたとき、表通りにある写真館の前で声をかけられた。写真館にはもう一人、こんな田舎にどういうわけか外人がいた。日本語ペラペラのTさんは御手洗に惚れ込んで夫婦で移住をしたのだという。この写真館はTさんが古い建物を改装したもので、Nさんは呼び込みの手伝いをしていたのだ。
歳も近いこともあって、僕らはあっという間に意気投合し、その夜はTさんの家に泊めてもらったのだった。
今回は残念ながらTさんは帰国中で留守とのことだった。

「Tのヤツ、ほんとタイミング悪いけぇねぇ」
大柄で立つと迫力のあるNさんが冗談交じりに言う。
「いやいや、僕も急に来るって言っちゃったし、仕方ないですよ」
こてこての広島弁は東北の人間からするとぶっきらぼうに聞こえるけれど、Nさんの心根はとても優しい男である。こんな風に悪態をつきながらも週末は帰国しているTさんに代わって写真館の店番をしているとのことだったし、前回島に泊まっていくことを勧めてくれたのもNさんだ。

「そうそう、怒っているよう聞こえるかも知れんけど、これが普通の広島弁なんよ」
僕は何も言ってないはずなのに、なぜか奥さんのKさんがフォローを入れた。
「そうじゃ」
そう言ってNさんがコップのビールをあおった。
問答無用で息の合った夫婦漫才を見せつけられたみたいで僕はププッと吹き出しそうになった。これは二人にとっての"ネタ"なのである。
そうだ、僕はここの古めかしい町並みも好きだったけれど、ここに住む人たちのこういう飾らない素朴さがもっと気に入ったんだった。
あの時とちっとも変わっていない島の空気に触れて、僕はやっぱり来てよかったと思った。

素朴といえば、この食堂もすごい。
島民のディープな飲み屋と化しているここは、基本的にほったらかしだ。旅館も兼ねているので、一応僕には一通りの晩ご飯を持ってきてくれたが後はもうノータッチである。海に面した一等地にある食堂だから、"みはらし食堂"なのだろうけれど、いっそのこと"ほったらかし食堂"に改名した方がいいかもしれない。
何か注文があれば厨房に出向き、酒は勝手に冷蔵庫から取る、ランチの残りがガラスのショーケースに並んでいるからそれが食べたければそれを持って行く。お会計はすべて自己申告制だ。それでいてうどんは250円、稲荷寿司は100円、瓶ビールは400円と激安である。「安くてうまいんだから文句はねぇだろ」という店主の声が聞こえてきそうな、まさに港町の食堂である。
はい、全く異存はございません。こんな我が道を行く食堂も僕は大好きだ。
結局、その日の宴は島の食堂としては遅い夜10時過ぎまで続いたのだが、店主は嫌な顔一つ見せずにいてくれたのだった。いや、厨房の奥にいたから見えなかっただけかもしれないけれど。

翌朝、今日の天気はどうだろうかと外に散歩に出かけると、一隻の船が港に停泊していた。
船体には「診療船」と書かれている。

船の入口にいた男性に「これは何ですか?」と尋ねると文字通り海を移動する病院だと教えてくれた。済生丸という名前の船は済生会病院によって運営されており、レントゲンや血液検査までを行える設備を有しているのだという。図々しくも中を見学させてもらったのだが、船内だけを見ればそこは確かに病院だったし、病院の"ニオイ"もした。

聞けばなんと日本でたった一台の診療船なのだそうだ。しかも、今日は一年にたった一度の大崎下島での診療日らしい。
今でこそ大崎下島は本州の呉ととびしま海道の橋々で陸続きとなっているけれど、つい数年前までは隣の豊島から先の橋がかかっていなかった。昔から定期診療船が立ち寄っていた事実は大崎下島が文字通り"とびしま"だったことを物語る。
いや、陸路が開かれた現在も自前の交通手段を持たない老人たちにとっては、とびしまは今もとびしまのままなのかもしれない。その証拠に朝イチにも関わらず病院にはたくさんの受診者がひっきりなしにやって来ていた。

その後、昨日は全く歩く時間のなかった御手洗を散策した。
全国で110ヶ所ある重要伝統的建造物群保存地区の一つに指定されている御手洗は江戸時代の町並みの面影を現代に伝え、そこにいくつかある明治時代の粋な洋館が混じり、独特の雰囲気を保つ地区だ。

半年ぶりに歩いてみたけれど、相変わらずいい町だ。朝からニヤニヤしながら歩いた。

潮待ち館という物産館の前を通りかかった時、ここでも懐かしい顔に再会をした。
「Yさん、Iさん、お久しぶりです。覚えてますか?」
「あぁ!自転車の!?」
僕が一方的に覚えていたわけじゃなかったのが嬉しいようなホッとしたような気持ちだった。
二人とは前回、Nさんに連れて行ってもらった雅楽の練習所で出会っていた。伝統を守るために活動する地区の中心人物だ。
「また来ちゃいました」
僕が照れくさくそう言うと「ゆっくり見て周っていってよ」と声をかけてくれた。

それから再び海沿いの道に出た。
オレンジジュースのCMにも出てくるゆるいカーブの先には、海に付き出した高とうろうがある。そこを眺めるところに島の有名人、宮本さんの工房がある。

もともと船大工の宮本さんは往時の御手洗を行き交った船の模型を制作して暮らしている。
工房には北前船や千石船に加えて、おちょろ船という小船の模型が無造作に放ってあった。

おちょろ船とはなんだろう?
ここで港町としての御手洗の歴史を紹介したいと思う。
御手洗は江戸時代に潮待ちの港として栄えた場所である。大崎上島の岡村さんのところでも触れたが、当時の船は紀伊・豊後水道の潮の満ち干きを利用して航行していた。また暴風雨などの荒天時の停滞港としても使われ往時はとても賑わっていたそうだ。
江戸へ向かう廻米船を始め、琉球通信使やオランダ船など外国からの船も停泊した記録が残っている。伊能忠敬やシーボルト、坂本龍馬といった日本史に名を残す人物もここに足跡を残している。
潮待ち風待ちの御手洗で特徴的だったのは藩公認のお茶屋があったことだ。お茶屋とはすなわち遊郭である。数百人を超える遊女を擁し、「西に御手洗有り」と言われるほど広く名前が知れ渡っていたのだそうだ。
沖合に停泊する船乗りたちの元へ遊女を送り届けるのがおちょろ船で、小船が明け方まで赤ちょうちんを提げて"ちょろちょろ"としていたのだという。
「あの頃は朝まで賑やかで楽しかったのぉ」
宮本さんは懐かしそうに当時を振り返る。

御手洗で特筆すべきは遊女たちと住民の関係が良好だったところにある。悲劇の歴史も多い遊女たちだったが、ここではとても大切にされていたことが、地区を見下ろす眺めのいい丘に彼女たちのお墓が建てられていることからも伺える。
遊郭を抱えた港町としての御手洗の繁栄に区切りをうったのは昭和33年のことだ。この年に売春禁止法が施行されたことをきっかけとして、地区は衰退の一路を辿ることとなる。
「昭和33年で御手洗は全部変わってしまった」
工房には遊女の写真や絵画、それに春画が飾られていた。それらとともに宮本さんは、御手洗の繁栄の時代を知る数少ない生き証人なのだった。

地区をぐるりと一周して、最後に天満神社に立ち寄った。ようやく中村春吉の碑石までやってきた。

春吉もそうだが、興味深いのは以前僕が訪れた宮城県・寒風沢島の津太夫も同じように島の出だということだ。二人の世界一周者に共通する島出身という事実。
もちろん津太夫の場合は、運命のいたずらに翻弄された部分もあり、必ずしも自分の意志で行ったものではない。けれど必ず帰国をするという強い意志があったから、海を隔てた異国からの生還を果たした。だから僕には二人の世界一周者が島の出身だということに因果関係があるように思えた。
きっと"見えていた"んじゃないかと思う。寒風沢島も御手洗地区もその時代の良港として栄えた場所だった。全国津々浦々からの船が立ち寄っている。そういう環境が海の向こうに視線を向けたのではないか。海運が中心だった時代の港は、外に開けた交流場所であると同時に最前衛の場所だったのだから。
僕の目にはただ茫洋と広がるように見える海も、彼らの目にはそこにも道があるように映っていたはずだ。まさしく"海道"が見えていたから、海の向こうに行って帰ってくるという偉業を果たすことができたのではないか、そんな風に思う。

僕はこの御手洗の人々の外に開けた気風が好きだ。突然現れた来訪者にも分け隔てなく接してくれる。昔から変わっていないだろう土地の気質に、来るたびに元気をもらえる。縁もゆかりもなかったはずの場所なのに、「あぁ帰ってきた」と思わせてくれる。一旅人としての居心地の良さに心を預けていると、往時の賑わいが目に浮かぶようだった。きっと春吉はここで僕のような旅人に何人も出会い、そして自身も海の向こうを見るようになったのだろう。

少しだけと思った散歩はすっかり正午を過ぎてしまっていた。

名残惜しくも御手洗を後にして、隣の大長地区を過ぎると道路に青いラインが引かれていた。隣の愛媛県・岡村島から延びるとびしま海道にぶつかったことを示すラインだ。
ここから4つの橋をつないで本州まで続いている。
かつてのような海運の時代は終わってしまった。けれどこうして今も、海の道は姿を変えて外の世界と御手洗を結んでいるのだった。

(次週に続く。広島県瀬戸内海の旅は全三回を予定しています)

海の道をつないでアイランドホッピング 広島県瀬戸内海の旅その1

2016年07月27日

ターンテーブルに流れてくる自転車の入ったスーツケースを受け取り外に出ると、じっとりとした湿度に素早く包まれた。広島空港の周りを囲む森深い山々はどんよりとした雲を抱えていて、崩れるまでそう時間はかからなさそうだった。
「来るタイミングを間違えたかもしれないなぁ」
携帯電話を開いて天気予報を見ると向こう数日間はひたすら雨マーク。梅雨の真っ只中だった。

瀬戸内海の島々をつなぐサイクリングロードを走りにやってきた。瀬戸内海のサイクリングロードといえば尾道市と今治市を結ぶ「しまなみ海道」が有名で、僕も以前二度ほど走ったことがある。ぽこぽことした島の影が幾重にも重なる多島海を橋で結んだ絶景コースは世界を見渡してもここでしか味わうことができないだろう。

でも、今回走るのはここではなくて別の道。
広島県ではしまなみ海道以外にも瀬戸内海らしいサイクリングロードがいくつか整備されている。呉市の島々をつなぐ「とびしま海道」、倉橋島から江田島を結ぶ「かきしま海道」、島ではないが三原市から呉市までの海岸線に延びる「さざなみ海道」の三本だ。
地図を広げてみると、広島空港の南にある竹原港から大崎上島を経由してとびしま海道にアクセスできて、さざなみ海道、かきしま海道の三つをつないで広島市へ抜けることができそうだった。合計140kmほどのサイクリングロード。これを三日ぐらいかけてのんびり走れば面白いんじゃないか、アイランドホッピングの旅だと閃いた僕はさっそく飛行機のチケットを手配してやってきた。

はずだったけれど…。

竹原港に着く頃には、いよいよ西の空はどす黒い雲が溜まっていて今にも決壊寸前という様子だった。山がちな地形に雨雲が停滞するせいで空が異様に低い。
カッパを持ってきてはいたけれど、雨中のサイクリングは旅というより修行のようなものだ。交通事故に遭う可能性だって高まる。できればやりたくない。
幸いにも南の空はまだうっすらと明るかったので、そこに一縷の望みを託しながらまずは大崎上島行のフェリーに乗り込んだ。
今日の走行予定は25kmほど。北の垂水港から南の明石港まで走って大崎下島行きのフェリーを捕まえるまでなので、二時間だけ天気が持ちこたえてくれればなんとかなるはずだ。

だが無情。雨は狙いすましたかのように、垂水港に到着した瞬間バラバラと降り出した。降り始めから雨粒の大きい本降りだった。
慌てて船の待合室に逃げ込んだ。建物は切符売り場とコンビニを兼ねているが、どっちが本業なのだろう。切符売りの人もコンビニの人も持ち場を離れて世間話をしているあたりどっちも本業ではないという可能性もありそうだけれど。とにかくこのゆるい雰囲気ならば、ここで自転車を組み立てても嫌な顔はされなさそうだったので、待合室の隅で自転車を組み立てながらとりあえず雨宿りすることにした。

一時間半ほど待機すると、少しではあるけれど雲の切れ間が覗くようになった。少しずつ細切れで雨宿りを来り返しながら進むしかない。カッパを着込んでもなお肌寒さを感じるねずみ色に染まった大崎上島を走り出した。

造船所や町役場を横目に海岸線に沿って走る。こんな天気だけに人気は全く無い。これはもしかしてただ走り抜けるだけの旅になってしまうんじゃ…そんな不安がよぎる。
ちょうどそのとき玄関先で作業するおじさんがいて、不意に目が合った。
「こんにちは」
挨拶を交わした時、おじさんの後ろに掲げられたのれんが目に入った。"岡本醤油醸造場"と書いてある。
「ここはお醤油屋さんなんですね。このあたりは醤油作りが盛んなんですか?」
「ええ。でも今ではうちだけですね」
おじさんはこの雨の中、突然自転車に乗って現れた男に話しかけられて若干の戸惑いを感じているように見えた。それは無理も無い、なにせ更に謎の真っ赤なスーツケースまで牽いているのだから。ところがおじさんは続けて思いもよらぬ言葉を発したのである。
「よかったら蔵を見て行きますか? 案内しますよ」
「えっ、いいんですか?」
思いがけず嬉しい誘いである。小雨のうちにできるだけ走っておきたいところだったけれど、こんな誘いを断って進むほど急ぐ旅でもない。僕は二つ返事で答えた。

蔵に足を踏み入れると、ふわっと醤油の柔らかい香りが鼻孔をくすぐった。急傾斜の木製階段を上がると30本近い醤油樽が口を開けていた。それぞれ発酵状態が違っているもろみだそうだ。それを見ながら岡本さんの醤油作り講座が始まった。

「ウチの醤油は昔ながらの天然醸造です。まずはこの瀬戸内海という土地についてお話します」
えぇ、そこから!? と素人の僕は思った。
だが、岡本さんの話を聞き進めていくと、醤油作りと土地がいかに密接な関係性にあるかが分かるようになる。
瀬戸内海は北を中国山脈、南を四国山脈に遮られた地形のため年間を通じて雨が少なくて気候がいい。晴天が多く乾いた気候は醤油の原材料である塩作りに良い影響を与え、天日干ししやすい環境となる。東の紀伊水道、西は豊後水道に通ずる瀬戸内海は潮の満ち干きを利用した入浜式塩田という方法で塩作りをしていたそうだ。このあたりは塩の一大産地で、塩で財をなした人は浜旦那と呼ばれていたらしい。
「このあたりで浜がつく地名はだいたい塩の産地だったところですね」
と教えてくれた。
それから小麦と大豆も塩害や乾燥にも強いことから積極的に作られていたそうだ。ちなみに大豆の生産が盛んで、海に面していることからにがりも簡単に手に入るので、豆腐もよく作られていたのだという。豆腐、塩、小麦を合わせて「瀬戸内三白」と呼ばれ、このあたりの特産品だったそうだ。
たしかに伯方島の塩や小豆島の醤油や素麺、香川のうどんとこの辺りの名産物のどれを取っても三白に関わるものばかりだ。広島のお好み焼きもそうで、このあたりの"粉モン"文化圏は土地に由来するものだったのだ。
「へぇぇー」
間抜けな感嘆詞しか出ないので岡本さんには申し訳なかったのだけれど、かといってそれ以上の言葉は僕には思いつかなかった。

こうして作られた原材料の前置きがあってから、いよいよ醤油作りの説明だ。岡本さんが醤油樽に差し込まれた棒をぐいっとかき混ぜると、中の層が現れた。プクップクッと表面が膨らんで弾けている。表面に手をかざしてみるとうっすらと温かい。菌が活動している証拠である。
「瀬戸内海の安定した気候はここでも麹菌の発酵やもろみの熟成を促してくれるんです」
発酵段階の順を追って樽の醤油を舐めさせてくれた。少しずつ味が醤油になっていくのが分かる。すっきりとしていて、でもどこか懐かしさを感じさせる味だった。

「ちょっとこちらへ来てください」と蔵と工場の二階にかかる橋のところへ僕を連れ出した。
「風通りが良くって気持ちいいでしょう。後ろを見てください。険しい山がすぐそこにあって、前を見れば海がある。山からは光合成した酸素たっぷりの空気が、海からはミネラルたっぷりの空気が蔵を通り抜けるから善玉菌が育ちやすいんですよ」
またもや僕はうなった。
「へぇぇぇぇー」
せめてさっきよりも情感を込めてみた。

「今でこそ機械を使って大量生産をするところもありますけどね、もともと醤油作りっていうのはこうやって知恵と技と心を合わせて作るものですからウチは天然醸造にこだわっているんです」
そう語る岡本さんの言葉は確固たる説得力があった。土地とともに生きる、か。言葉を体現して生きている人はやはりかっこよく見えた。

どうにかこの島の空気をどうにか持ち帰りたい。そう思った僕は醤油を一本おみやげに買うことにした。今晩の夕食に刺し身でも出たら、この醤油をつけて食べることにしよう。

突然の訪問にも関わらず一時間もの蔵案内をしてくれた岡本さんに礼を言い、再び島を走り出す。雨も今のところ小康状態だ。
今では広島で唯一となってしまった商船学校の前を通りかかる。このあたりは造船業が盛んだが、これも岡本さんの説明によると帆船の時代、潮待ちのために良い船大工が集まったからだという。そして、腕の良い船大工が良質の醤油樽を作ってくれたのだそうだ。土地の話を知ると、至る所でつながりが見えてくるから面白い。

商船学校のすぐ先で内陸に入り、一山越えて反対側の木江地区に出る。古い家並が残っていると聞いていたが、空き家も多く放置された家が目立つ。湾にある大きな造船所から響くガーンガーンという無機質な音ばかりが冷たく鳴り渡っていた。

木江から明石港までの海岸線沿いは、瀬戸内海の多島美が感じられる風光明媚な道だった。惜しむらくはこの天気だ。晴れていれば小躍りしたくなるような景色が堪能できただろうに…。空はいよいよポツポツと雨脚が戻し始めていた。急がなきゃな…自転車のギアを一枚重くしてスピードを上げると前方から小さな影が近づいてくるのが見えた。

あれは…チャリダーだ!

向かいから重たそうなカバンを前後の荷台にくくりつけた自転車旅行者が現れた。こんな天気の日に自転車を漕いでいるヤツがいるなんて。僕は仲間を見つけたようで嬉しくなった。それは相手も同じだったらしく、どちらからともなく互いに自転車を停めた。
大学生のユウキくんは四国一周の旅をして来たそうだった。木江に母親の実家があるらしく、今日はそこを目指して走ってきたのだそうだ。
初めての自転車旅は今日で九日目。僕はわざといじわるな質問をしてみた。
「そろそろ体も疲れが溜まって、自転車に乗るのが嫌になってくる頃じゃない?」
「いえ、こういう旅をしたことがなかったから...大変だけどすごく楽しいです」
初々しく、そして瑞々しくそう語るユウキくんにいつかの自分が重なったような気がした。

聞けば、走ることで精一杯でどこかで観光に立ち寄るとか、休憩を取るといったことも全くせずにここまで来たらしい。ガムシャラにペダルを踏むことしか知らない彼の気持ちは僕もよく理解できた。たしかに気持ちの余裕はなかったけれど、無我夢中でペダルを回すことに情熱を注いでいたあの日が懐かしく思えたのだった。
「どこにも寄れなかったですけど、でも自転車を漕いでいるだけでこんな風に出会いがあるから面白いんです」
自転車は無防備な乗り物である。雨にも風にも弱く、上り坂も苦手だ。けれどそこから逃げることはできないから向き合わないといけない。すると車やバスに乗ったのでは見落としてしまう道辺の様々なことに気がつく。においや肌寒さ、すれ違う人…そういったものに気がついた時に自由にストップできることが面白いのだ。どこかの景勝地に立ち寄ったりするだけでは味わえない中毒性をはらんでいる。
「ハマっちゃったんだね」
「ま、まぁそうですね」
恥ずかしそうにしながらも彼は頷いた。

ユウキくんは尾道まで行けば、神戸から友人が迎えに来てくれるそうだ。順調なら明日にも到着できるだろう。
「最後まで気を抜かずに安全にね」
「はい」
フル装備の自転車はよろよろと坂道を上っていった。頼りなさげな足取りとは裏腹にその後姿は充足感に満ち満ちていた。

話し込んでいたらすっかり時間を取ってしまった。雨は再び本降りになっていたし、そろそろ大崎下島行のフェリーの最終便も迫っている。急がなければ。タイヤから跳ね上げる雨水も気にせずスピードを上げた。
ところが港に到着した時、僕はまたもややらかしてしまったことに気がついた。18時55分だと思っていた最終便は19時55分で一時間以上も早く到着してしまったのだ。どうして毎回こんな凡ミスをしてしまうのだろう。ガックリうなだれてしまったのと、雨に打たれながら走ってきたせいもあって急激に体が冷えて熱が出そうだった。このままここで一時間も待っていたら確実に体調を崩してしまうだろう。

そんな時、さっき温泉の看板を見かけていたことを思い出した。
「あれはユウキくんと会う手前だったはずだから、そんなに遠くないはずだ」
湯冷めの心配はあったけれど、僕は温泉を目指して来た道を戻った。

きのえ温泉清風館は小高い崖の上に建つ立派な旅館だった。崖っぷちに露天風呂がせり出していてとてつもないロケーションだ。雨で滲んで水墨画のようなモノクロの濃淡で描かれる島々を眺めながら、ぽかぽかの温泉に浸かる。冷え切っていた体温が揺り戻されていくのが分かる。なんという贅沢だろうか。この素晴らしい温泉も船の時間を間違えていなければ味わうことなく去っていたはずだ。

最終船に乗り遅れるわけにはいかなかったので、僅か15分でこの極上の湯心地から上がらなければならなかったがその頃には雨も止んでいた。冷えた体を温めて、船までの時間を使えて、雨まで止んだのだから一石が三鳥にも四鳥にもなった気分である。

島を走りだした当初のただ走り抜けるだけになってしまうんじゃないか、なんて不安はもう微塵も感じていなかった。
「やっぱりどう転んでも面白いのが旅だよなぁ」
今日もいろいろあった、そんな満足感に酔いながら大崎下島行のフェリーに乗り込んだ。

(次週に続く。広島県瀬戸内海の旅は全三回を予定しています)