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本州最南端の日土友好 和歌山県紀伊大島の旅

2017年01月11日

しかしまぁ、僕の旅は相変わらずこういううまい話のおかげで首の皮一枚が繋がってばかりだなと思った。
事の発端は和歌山市には和歌山市駅と和歌山駅の二つの駅があったことだ。松山市駅と松山駅、川越市駅と川越駅。新しい土地へ旅行すると、時々この手の罠が待ち構えているからややこしい。しかも今回に至っては、両駅は3km近くも離れているというではないか。
この事を知らずに和歌山市へとやって来て、和歌山市駅終着から和歌山駅始発の電車への乗り換えを予定していた僕は当然焦った。一応、二つの駅を結ぶ列車も運行されていたが、それを待っていたのでは間に合わない。
発車まであと40分。直接和歌山駅へ向かえばギリギリ間に合いそうだったので、自転車の入った重たいスーツケースをゴロゴロと転がして駅へと急いだ。
アーケードの商店街を抜けて、駅まで残り半分というところだった。いったん僕を追い越した車が前方で停まった。
「どこまで行くん? 駅? 乗ってく?」
気がつけば、僕は声をかけてくれたおじさんの車の助手席に乗っていた。
「えらい大きい荷物持って大変そうやったからなぁ」
大変そうだからって見知らぬ人間を簡単に車に乗せる人はいないんじゃないか、そう思いもしたけれど、渡りに船とばかりに何の疑いもなく車に乗り込んでいた僕も僕である。偶然通りがかった親切なおじさんのおかげで僕は何とか電車に間に合った。

電車に揺られ、やって来たのは紀伊半島の先端部・串本だ。

この本州最南端の町は熊野古道、ラムサール条約に指定されている湿地、世界最北限のサンゴ礁などいくつもの観光資源を抱えているが、その中にはトルコ友好の町という顔も持ち合わせている。

1890年、オスマン帝国最初の訪日使節団として派遣されたフリゲート艦エルトゥールル号は、明治天皇に親書を奉呈する大任を果たして帰路に就くが、その途中で台風に巻き込まれ座礁沈没してしまう。650余名は夜の海に投げ出され、580名以上が殉職する大事件となった。この事故の現場となったのが、本州最南端の潮岬の隣に浮かぶ大島(全国各地に点在する大島と区別するために紀伊大島とも言う)だ。
事件を受けた大島の住人たちは岩礁から生存者を助け出し、手当や介護、食料の提供をして手厚く保護、結果として69名の命を救った。そして保護された乗員たちは後に日本の船によって本国への帰還を果たした。
この事件の顛末は、オスマン帝国の後継国家であるトルコでも語り継がれ、トルコ人の親日的感情の原点とも言われている。この件をきっかけとして日本とトルコの交流は深いものとなっていった。串本の大島ははいわば日土友好発祥の地なのである。

僕自身、トルコは約2ヶ月間旅をした国で想い出深い国の一つだ。どこへ行ってもチャイに誘われ、食事をご馳走され、時に一夜を過ごさせてもらった。観光地や大都市では油断ならぬトルコ人もいたけれど、それは世界中どこにでもいるほんの一部の輩であって、みんな心の底から僕をもてなしてくれた。
冒頭で僕は見知らぬおじさんの車に乗せてもらっていたけれど、信用できると直感した相手ならば、迷いなく身を預けてもいいということを教えてもらったのがトルコだった。
人懐こくて優しいトルコとの交わりの地が和歌山県にあると知って以来、いつかと心で温め続けてきた串本についにやって来れた。

温暖な気候の南紀地方も12月ともなれば、さすがに肌寒さを感じる冷たい海風が吹いていた。長い鉄道の旅を経て串本に降り立つ頃には、日もだいぶ傾いて、寂しげな影が急速に伸び始めていた。

「先週から16時でお終いだよ」
組み立てた自転車で本州最南端の潮岬展望タワーに行ってみると、タッチの差で閉館してしまっていた。エルトゥールル号の資料が展示されていると楽しみにしてやって来たのにオフシーズン営業に切り替えらしい。
結局この日は潮岬を周ったところで日没を迎え、大島まで足を伸ばすことはできず、串本の町に戻り、宿を取った。

翌日は朝から大島を目指して走り出した。串本の港から1kmの沖合に浮かぶ島は1999年に開通したくしもと大橋で本土と結ばれている。

間に広がる海のあちらこちらで、マグロの養殖場が囲われていた。串本は世界で初めてマグロの完全養殖に成功した町でもある。

長い坂道を上って、長い下り坂を駆け下りる。大島の起伏はなかなか激しい。

途中、航空自衛隊駐屯基地の前を横切って、県道40号線を最奥まで進んだところがエルトゥールル通りとなっていた。通りに沿ったところにトルコ記念館があった。年中無休の記念館のはずなのに、この日は点検か何かで休館日だった。前日の展望タワー同様、僕は一年でも最もタイミングが悪い日に来てしまったようだ。

近くの土産物屋はしっかり営業していて、少し覗いてみると青いガラスに目玉をかたどったトルコのお守りナザールボンジュウや、陶器で有名なキュタヒヤ産のお皿など見覚えのあるトルコ土産が並んでいた。
その先にエルトゥールル号遭難慰霊碑があった。立派な土台の上に祀られた慰霊碑があまり見かけない様式なのは、1937年にトルコの資金により新たに建設されたものだからだそう。

この慰霊碑の裏手あたりが座礁の現場となった場所だ。このあたりは古くから海の難所として知られている。
本土の串本は砂岩や泥岩でできた地形であるのに対し、大島はマグマが冷えた火成岩でできていて、荒波に削られた島は断崖絶壁の連続である。いかに当時の救出活動が困難を極めたかは想像に難くない。

エルトゥールル通りは突き当りの樫野崎灯台まで伸びていた。灯台の手前にはもう一軒、土産物屋があって、気難しそうな中年のトルコ人が店先に立っていた。ふと彼と目があったのでうろ覚えのトルコ語で挨拶をした。
「メルハバ(こんにちは)」
「メルハバ…トルコ語できるの?」
「あ、いや、いくつかの単語だけです。むかしトルコを旅行したことがあって」
エディルネ、イスタンブール、ブルサ、キュタヒヤ...と僕が訪れた街の名前を順に挙げてみた。そしてここでコンヤの単語を口に出すと、さっきまで険しく厳つかった店主の表情がパッと和らいだ。
「コンヤ行ったん? 僕、コンヤの生まれだよ。チャリンコで!? けっこうかかったやろ?」
突如として言葉遣いが崩れて、コテコテの関西弁が出てきたのには意表を突かれた。店主は一見すると僕みたいな人間は相手にしないビジネスライクな商人に見えた。しかし、関西弁を使い出すと、イスタンブールのグランドバザールあたりにいる胡散臭い絨毯商人にも見えてくるから可笑しい。
こうなると彼も僕のよく知っているトルコ人だった。商売そっちのけであれやこれやと世間話が始まる。
「トルコ人はみんな親切だったやろ? トルコのホスピタリティは世界一やから。あなたなら分かるやろ?」
トルコ人も日本人もお互い親切で世話好きな民族だ。だからこそ彼我の友情が今でも続いているのだけれど、その質を決定的に違うものにしているのが、線を引く、引かないという感覚だった。日本人の多くは本音と建前を使い分けて人と接する。しかし、トルコ人は相手と自分の間に敷居がなくて、ぐぐっと僕の心の懐に入ってくる。
彼らに出会った当初、僕はこれがとても苦手と感じていたけれど、トルコの大地で日々を過ごすうちに大好きになった心の距離感だった。物事の影であれこれ思案をオブラートに包むよりも、気持ちを素直に形にした方が、気楽でシンプルで伝わりやすい。
店主と話していると、トルコで出会った人々や景色が蘇った。絨毯を広げて「泊まってけ!」と誘ってくれた家族、高い空と広大な緑の広がるアナトリア高原…。どこもこれも懐かしい。
日本で暮らしていると、あっという間に失われがちな大陸ならではの感覚がトルコとゆかりのある小さな島にはあった。

「今度コンヤに来たら、うちに来るといいよ。大阪で商売やってる人って言えばみんな僕のこと知ってるから」
店主は気軽に言っていたけれど、きっとこれが社交辞令じゃないことはよく分かった。たぶん行ったら本当に歓迎してくれることだろう。それがトルコ人であり、彼の言う世界一のホスピタリティであることを、僕は身をもってよく知っている。

エルトゥールル号遭難事件にはエピソードがあった。
1985年、激化するイラン・イラク戦争下においてイラクのフセインは突如「今から48時間以降にイラン上空を飛ぶ航空機を無差別に攻撃する」との通告を行った。イランに住む外国人たちが続々と国外脱出を図る中、日本人は取り残された。安全や法律の問題で日本からの救援機が出なかったのである。猶予期限があと数時間に迫る中、救いの手を伸してくれたのがトルコだった。取り残されかけた日本人たちはトルコ政府の救援機によってイランを脱出することに成功したのだが、トルコ政府のこのような力添えの背景にはエルトゥールル号遭難事件で乗員を助けた日本人への恩に報いるためだと言われている。
100年以上前の恩義を律儀に覚えているなんて、義に厚く、全力で応えるトルコ人らしい逸話である。

樫野崎灯台の近くにはトルコ建国の父ケマル・アタトゥルクの彫像があって、これは日土友好120周年の際にトルコから寄贈されたものだ。
今、トルコは大きな変革の渦中にいる。ケマルの掲げた政教分離、世俗主義は少しずつ影を潜め、代わりにエルドアン大統領の推し進める新オスマン主義が台頭しつつある。
時代は変わっていくのかもしれないけれど、これまでがそうであったように日本とトルコの友情の絆がこれからも続いていけばいいと思った。

ちなみに串本と外国の関わりはトルコだけではない。実はペリーの黒船来航より62年も前の1791年にアメリカの商船が2隻、大島にやって来て貿易を申し込んでいる。これが日米修交の最初の足跡であるとされていて、ほんの少しだけ時代の流れが違っていれば串本と大島は後世に大きく名を残していたかもしれないのだ。
歴史にタラレバは禁物かもしれないけれど、この事実に僕は大きなロマンを感じてしまう。

島は外国に面した最前線の場所である。今でこそ中央から遠く離れた辺境と見なされがちな島も、ほんの一昔前までは外国に最も近い場所であり、外国と出会う場所だった。
本州最南端に位置する大島を旅してみれば、その意味がよく分かると思う。

(次週からは鹿児島県の旅をお送りいたします)

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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