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日本の真ん中に浮かぶ島々巡り 三河湾・伊勢湾の旅その2

2016年07月06日

聞かされていた通り、朝はタコ飯が椀に盛られた定食が用意された。いの一番にまずはそのタコ飯を箸でつまむと、コリコリと弾力のある歯応えが口の中に展開された。かといって固いわけではなくて歯切れもいい。それでいてほんのりと甘いうま味がある。日間賀島名物のタコは決して名ばかりではなかったのだ。他のおかずや別で用意された白飯も美味しくて、米粒一つ残さずに食べてしまった。

「また来てくださいね!」
宿の夫婦に見送られ、島の真ん中を横切り、相変わらず方向感覚がつかめない路地裏を彷徨いながら東港へと向かう。そこから対岸の篠島行きの船に乗るのだ。船は昨日到着した西港に寄ってからこの東港へとやって来るので、わざわざ島を横断して遠い方の港へ自転車を漕ぐ必要はないのだが、まぁ島旅といえど、できるなら来た道を引き返す往復の旅よりも、片道切符の旅の方が新鮮な気持ちを保てるし、単純に面白い。

東港前にはこのノーヘルの島において果たして意味があるのか、島唯一という信号がある。今日もそうだが、昨日通りがかった時もずっと点滅状態だったので、道端の標識と役目は変わらない。いったいどんな状況のとき青信号になるのだろう?もしかしたら、島の歴史上一度も青信号になったことがない信号なのかもしれない。

港の待合室へ切符を買いに立ち寄ると、ベンチに白装束で金剛杖を持った中年の夫婦が座っていた。知多半島には四国のお遍路と同じ「知多新四国八十八カ所霊場」という巡拝路がある。半島北部、現在の知多市にある妙楽寺の住職亮山阿闍梨の夢枕に弘法大師が立ち、彼のお告げを受けて1809年に開設されたという。夫婦はお遍路さんだ。
もともと弘法大師も諸国行脚の途上で知多半島に立ち寄っており、「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん」という歌を詠むほどに知多と四国の風景を重ねたそうだ。
歌には日間賀島や篠島の名前も出ているが、巡拝路も知多半島からその先の島々まで伸びている。日間賀島には三十七番大光寺、篠島には三十八番正法禅寺、三十九番医徳院、そして番外霊場の西方寺がある。知多新四国の遍路道は全長194kmとされ、全長1100kmを越える「本四国」の遍路道に比べれば短い距離だが、海の先に霊場があるという点では本場のお遍路よりも難易度は高い気もする。

間もなく船がやって来て、夫婦と一緒に乗船する。そして僅か五分ほどの航海であっという間に篠島到着。港には大きな鯛のモニュメントと、まだ完成して日が浅そうな綺麗な待合室兼観光案内所があった。

なぜ鯛なのかと言うと、日本書紀の時代に篠島に立ち寄った倭姫命(やまとひめのみこと)がここの鯛を気に入り、御贄所としてこの地を定めた。以来、島では干鯛を毎年、伊勢神宮に献上している歴史があるのだ。
この島は伊勢神宮との関わりが強く、中心部にある神明神社は伊勢神宮の20年に一度の遷宮の際に下賜された御古材を用いて造営されている。今のものはちょうど去年移ってきたものだそうで、削り出されたヒノキは、香ってきそうな程に艶っぽい。そこで出た神明神社の御古材は、島にもう一つある神社の八王子社の改修に使われ、さらに八王子社の御古材は島の小さな社に用いられるなどして何十年にも渡って大切に使われている。

のっけから立派な観光案内所があったので、篠島も日間賀島のように観光で栄えているものかと思ったが、いざ走り出してみるとその気配は皆無だった。いや、島に民宿は数十件あったそうだから一応昔は栄えていたのだろう。が、今はうす曇が空にかかっていて、島全体に冴えない雰囲気が漂っている。集落の路地裏は相変わらず狭くて、日間賀島と同じように複雑に入り組んでいる。けれど、もうここでは南国の島っぽさは一切感じられなかった。

島の形もずいぶん違う。オーストラリアを逆さにしたような形のいい横長の日間賀島に対し、篠島は逆「く」の字形の細長い島だ。ほとんど平坦なあちらに比べて、アップダウンにも満ちたダイナミックな景観が広がる。

とりわけギザギザの海岸線が描かれる島南部は自転車の通行も阻むほどの急峻な崖沿いに狭くて荒れた道が続いている。

篠島でもこの日は修学旅行の小学生たちがたくさんいた。ここでも僕は彼らから「カッケ―!」と黄色い声援を浴びていたのだが、草ぼうぼうの荒れた断崖の道ではスーツケースをひいた自転車はただの重荷にしかならない。そんな僕を尻目にビニール袋片手に島のゴミ拾いに励む小学生たちはずんずんと荒れ道を進んでいく。

仕方がないので自転車を下りて散策をすることにした。となると、どこか適当なところで引き返して自転車を回収しに戻らなければならない。まったく、島旅でもワンウェイの旅がいいのだなどと知ったような口を利いていた今朝の自分が滑稽に思えてくる。

観光案内所で出に入れた地図を見てみると、この島の見どころのほとんどは高い場所や、山道を越えた先にあるようだ。自由に走り回れるはずだった自転車の最大の敵「高低差」。こればかりはどうあがいても勝つことができない。そういう意味では、この篠島は自転車との相性最悪の島だったりする。

自転車に鍵をかけて、山道を歩き始めようとすると、ちょうど前方から僕の自転車に歓声をあげていた小学生グループがやってきた。僕は「背中にファスナーがあることを知られてしまったウルトラマン」のような勝手な被害妄想に陥ってしまい、目を伏せながら「スマン!」と速足で彼らとすれ違った。

右手に小さな孤島の松島が浮かんでいる。

日本夕日百選にも選ばれている夕日の名所を横目に急傾斜の荒れ道を進む道中には小さな社がぽつぽつあって、地蔵が祀られている。それぞれ第七十番といった番号が振られているのだが、島には八十八の地蔵が祀られていて、それらは島南部に特に集中している。地蔵を巡ることで本四国の巡拝路を巡る代わりにもなったという島弘法だ。新四国の遍路道があって、島だけで完結する遍路道もここにはあるのだ。

そうかと思えば島最南部に近い開けた場所には大きな鳥居があって、対岸の志摩半島を望んでいる。この鳥居も遷宮の際に下賜されたもので作られていて、伊勢神宮に都合があってお参りできない者は、伊勢を直線上に望むここを遥拝所とするそうだ。

仏さまに神さまにとずいぶん忙しい島である。同時に昔ながらの濃厚な神仏習合が残っているのが篠島の特徴なのかもしれないとも思った。篠島は信仰と歴史の島なのだ。
知多半島からの距離やアクセスの仕方が似ていて、同じようにタコやフグが有名な篠島は日間賀島と一緒に訪れる観光客も多く、僕も二つで一つと考えていたが、その存在の仕方はまるで違っていたのだった。
島のエンターテイメントが詰まった日間賀島と、島という限定的な空間に信仰と歴史が残る篠島。島の意識が外を向いているか、内を向いているかというぐらいに全く違っていた。篠島の人々は島外の人間である僕がすれ違いざまに挨拶をしても、返ってこないことが多かった。島の意識は人の振る舞いにも影響を及ぼしているのかもしれない。

それからもう一つの発見があった。
篠島中学校の前を横切ってケモノ道を進んだ先の断崖にある石の切出場跡。名古屋城築城の際はここの石が使われたらしい。古代は伊勢国(三重)との結び付きが強かった篠島も、時代が進むと尾張国(愛知)との繋がりを強めていったようだ。島民の言葉も日間賀島同様にかなり強い名古屋弁である。一方の日間賀島の方はと言えば、三重方面を連想させるものは少なく、純然たる愛知の島との印象があったので、篠島は時代とともに寄り添う地域が変わる境目にちょうど位置している島なのかもしれない。

切出場は猛烈な強風が吹き荒れていた。昨日の晩からの風がさらに強くなっていて、油断すると体もろとも持っていかれて海の藻屑になりそうなくらいの強さだ。早々に切出場から退散することにして、僕はそろそろ腹が減ったと昼食を食べに集落へと戻った。

ところが困ったことに営業している食堂が見当たらなかった。旅館に併設された食堂も多いのだが、閑散期で平日の今はどこも準備中の札がかかっている。かといってお弁当を売っているようなコンビニもない島だ(これについては後で港近くに小さな商店を発見したのだけれど)。

空腹も限界の中、島中を走ってようやく一軒、時が止まった感のある喫茶店を発見した。中は完璧にTHE昭和の喫茶店だったが、メニューは完全に定食屋だったのが幸いで、僕はシラス丼と生シラスを注文した。ちなみに篠島のシラス漁獲量は日本一を誇っている。

間もなく運ばれてきた釜揚げシラスと生シラスを交互にご飯をかき込んでいると、ぞろぞろと年配の女性を中心にお客さんが入ってきた。さっき食堂をさがしている時にすれ違った集団だったが、彼女たちも食事できる場所を探していたようだ。「やっとやってるところがあったわねぇ」なんてこぼしている。
そしてまた別な夫婦もやって来る。いまこの島でやっている食堂はここだけなのだろうか?ノスタルジー漂う昭和の喫茶店はあっという間に「昼食難民」でいっぱいになった。

昼ご飯を食べてやっと人心地がついたところで、魚市場の方へ行ってみる。しらすを干している様子を見られるかな、と思っていたがもう午後の時間のためか、あるいはこの強風のためか市場は閑散としていた。
水揚げされた魚の入った水槽の前に、若い男がぼんやりと持て余している。何をしているんだろうと思ったが、すぐに分かった。海サギが虎視眈々と獲物を狙っていたのだ。

さて、そろそろ船の時間だった。今日はこれから神島へ向かう。しつこいようだが旅はやっぱりワンウェイである。

篠島からも遠くに見ることができる神島へは直接アクセス出来ず、いったん渥美半島の伊良湖に出てから、船を乗り換えなければならない。一日に数本しかない船だったので、これだけは乗り遅れるわけにはいかない。渥美半島のすぐ先に浮かぶ島なのに三重県に入る神島。いったいどんな島なのだろう。

篠島から伊良湖へ向かう船はものすごく揺れた。もともと急流で知られる伊良湖水道に加えて、今日の強風が激しく脳天を揺さぶった。乗り物に弱い僕はあっという間に酔ってしまった。
30分かけて伊良湖に到着。ここで船を乗り換えてまたあの荒波に繰り出すのかと思うと気が重かったがあと少しの辛抱だ。
「神島行きの船もこの港から出るんですか?」
下船時に世間話のつもりで船員に話しかけた。すると船員からは驚きの一言が返ってきた。
「神島!? 今日は船出てないよ!」
なんとこの強風のせいで船が運休になってしまっていたのだった。僕は荒波にさらわれたかのような気持ちになった。一昨日、日間賀島の宿を予約した時についでに神島の宿も予約していたのだ。今では神島でやっている宿は一軒しかないということもあったし、前回の松島湾の旅では予約しないで行ったせいで宿探しに苦労したからだ。予約してもしなくても常にトラブルが降ってくる僕の島旅はいったいどうなっているのだろう。
そもそも船がないのなら島に渡る事すらできないじゃないか。三河湾・伊勢湾の旅と称した今回の旅は、三河湾だけの旅で終わってしまうのだろうか?いったいどうなる、僕の島旅!?

(次週に続く。三河湾・伊勢湾の旅は全四回を予定しています)

日本の真ん中に浮かぶ島々巡り 三河湾・伊勢湾の旅その1

2016年06月29日

高速船はやぶさ号は勢いよく白波を後方に立てながら愛知県知多半島の河和港を出発した。すこやかに晴れた空の下、まとう潮風が実に心地いい。絶好の島旅日和である。

それなのにデッキに出ているのは僕と、六人の中国人だけだった。揺れる船をものともせずパシャパシャと写真撮影に忙しそうだ。
しかし、これから僕が向かう場所は海外まで名を轟かすような有名な島というわけでもないはずなのに彼らはどうやって情報を手に入れてきたのだろう。見たところ個人旅行のようだけれど。最近は東京~京都~大阪の観光ゴールデンコースから外れて、リピーターの外国人旅行者が名古屋から白川郷や奥飛騨の方にも集まってきていると聞いたことがあったけれど、その波がこっちの方にもやって来ているのかもしれない。

中国語の懐かしい響きに耳を傾けながら船に揺られていると、やがて前方に今回の旅の一島目である日間賀島(ひまかじま)が見えてきた。

「なんていうか、タイの島みたいな感じだったよ!」
前の晩、名古屋で僕を泊めてくれた友人のWは言った。彼女と僕は不思議な縁がある。もともと学生時代のアルバイト仲間で、卒業以来何年も音信普通だった僕たちだが、四年前にチリを自転車で走っている時、ふと思い立したかのように連絡を取ってみたら、Wもまた結婚してチリに移住していた事を知り、地球の裏側で再会をしていたのだ。今回はちょうど出産のために一時帰国していたところだった。
「日間賀島に行くんだ」と僕が言うと、これまた面白い事があった。なんと彼女も前の週にちょうど日間賀島へ家族旅行に行ったそうだったのだ。
「どんなところだった?」と僕は聞いてみた。同じように世界旅行をした経験があるWは「タイの島みたいなところ」という何とも曖昧な表現で教えてくれた。
タイの島みたい…?うーん、分かるような、分からないような。いったいどういうことなのだろう。確かにあっちも中国人観光客はたくさんいたけれど…。

ところが船を下り、島に上陸してみると彼女の言わんとしていることがよく分かった。
「あぁ、タイの島っぽい!」僕も直感的にそう悟った。
小さな桟橋にかかるひなびた歓迎のアーチや、ぎゅっとした密度で連なる旅館やホテル。ファサード感とでも呼ぶべきか、島にやって来て初めに飛びこんでくる印象は確かにタイの島に似てなくもなかった。あるいはプエルトガレーラというフィリピンのミンドロ島にあるリゾートの面影もどことなく感じられた。

海に面した建物の裏には細い路地が縦横無尽に走っている路地裏感もそっくりだ。車も通れないような狭さをいいことに、水色のペンキで塗られた家の壁に沿って洗濯物がのんきに日向ぼっこをしている。路地裏ににじみ出ている島の生活感もどこか東南アジアを彷彿とさせる。船でわずか20分のところにまさか南国の島があるとは思わなかった。ここは日本の真ん中なのに。

東南アジアの島々と日間賀島に共通点を見出すとすれば、それは観光によって栄えた島ということがあるだろう。絶好のオーシャンビューを競うように、限られた場所の中で宿が密集する。宿も住居も外界への出入り口である港に近い方が何かといい。これが島のファサード感と路地裏感を生み出すひとつの理由なんじゃないかと思う。

日本の真ん中にあるから日間賀島という説もあるこの島は2000人弱の人口ながら年間310,000人を超す観光客を集めるという。名古屋から1時間ほどで来れるアクセスの良さに加えてタコ料理で知られている。三河湾に注ぐ良質な河川は豊富なプランクトンを育み、そのプランクトンを餌に育つカニやアサリを食べているのが日間賀島のタコだから、この島のタコはあまくて美味しいのだそうだ。タコに加えて近年ではフグ料理を安価で提供したことにより再び人気を集めていて、タコとフグにかけて「多幸と福の島」などと掲げている。やり手の島なのである。

さらに港にある生け簀ではイルカショーをやっていたり、漁業体験を観光プログラム化していたりと子供たちの取り込みにも成功している。抜け目がない島だ。学校の団体もよく来るらしく、僕が島に到着した時も桟橋には修学旅行の小学生たちが船待ちで待機しているところだった。先生たちにとっても島ならば、自由に子供たちを行動させられるから都合がいいのかもしれない。

「カッケ―!」「オレも乗ってみたい!」
スーツケースを後ろに装着した自転車で子供たちの前を通りがかると、彼らから黄色い声があがった。ふふふ、と僕は得意げな気持ちになりながら、まずは島の外周を走ってみることにした。

島はどこへ行ってもタコ、タコ、タコのタコ尽くしだった。タコのモニュメントに、タコのタイル、タコのマンホール(ときどきフグのマンホール)、無造作に積まれた大量のタコ壺…。しまいには駐在所までもがタコの形をしていた。こうも徹底していると、見ているこちらも気持ちがいいくらいである。

周囲6kmの日間賀島は30分もあれば一周できてしまう小さな島だ。小さな島に細い路地、ということもあってこの島の足は原付バイクが主流である。あちこちでヴィーンという軽妙なエンジン音とすれ違う。鍵をつけっぱなしで置かれているものも多い。ところが島で原付バイクを見かける度にちょっとした違和感が続いていた。何だかすっとしない、この引っ掛かりは何だろう。10台目くらいの原付バイクが僕を追い越した時、ようやく僕はその正体をつかんだ。
かぶってないのだ。
バイクに乗る皆誰もヘルメットをかぶらずに運転しているのである。一瞬、ここは島だからかぶらなくてもいいルールがあるのかと考えもしたが、そんなことはない、ここは日本だ。それに駐在所もあったはずなのに。続けてやってきた原付のおばちゃんもやっぱりノーヘルだった。

一体どういうことなのだと、あれこれ考えてみたが行き着いたのは「島だから」という曖昧模糊とした答えしか浮かばなかった。けれど、それは案外的を得たな答えでもあるかもしれないとも思った。つまり、島という小宇宙において優先されるのは日本社会よりも島社会ということなのだ。
なんというか、こんなところも東南アジア的である。というかこの緩さがこの島が南国っぽく感じる核心のような気さえ僕にはした。島では「交通ルールを守ろう」とか「ヘルメットをかぶろう」といったスローガンを見かけもしたが、それらは見事にほったらかしだった。

島を一周して、再び港に戻ってきたところで宿にチェックインをした。港からは少し離れたところにある旅館あじ浜。
例によって宿の予約も何もしていなかった僕に前日Wが紹介してくれた宿だ。彼女もここに泊まっていて、懐かしい旅館の雰囲気で落ち着けるよと勧めてくれていた。それに若女将がはつらつとした気持ちいい対応をしてくれたそうだ。
チェックインの時に若女将はいなかったのだけれど、代わりに人の良さそうな若旦那が部屋に通してくれた。すっきりと片付いた和室にほんのり漂うイ草の爽やかなにおい。見晴らしの良い三階の窓からは港を一望できた。必要十分で良い宿である。

電話予約の時点でもこの宿は良さそうな気配はしていた。直前だったにも関わらず快く予約を受け入れてくれていたし、こちらから何も言っていないにも関わらず「他のお客さんと同じ食事のメニューで良ければ…」と値引きまでしてくれた。おかげで元々お手頃な宿がさらにお得になってしまった。
前回の島旅で痛感したことだが、小さな島の民宿一人旅というのは結構ハードルが高い。二名からの受付も多く、一人はちょっと…と断られることも多いのだ。確かに一人の客のために食事や風呂を準備するのは手間や費用がかかるからだろう。けれど裏を返せば一人客を快く受け入れてくれる宿は、その時点で期待できる宿なのだ。

夕食まで少し時間があったので、自転車につけたスーツケースを外し、小回りを利かせられるようにして今度は路地裏や島の内陸部を走って回った。このぐらいの時間になると、路地裏は昼よりもずっとくらしの音が溢れていた。
トントントン…路地のどこかからまな板を叩く音や、「ようけおるなぁー」と世間話をする男たちの声。この島の訛りは名古屋弁をもっときつくした感じである。

島の一番高いところに小学校と中学校があった。学校の塀に沿って、卒業生たちの名前が描かれていた。航太や凪、海に関わる名前が目立ったのはここが漁業の島だからということだろうか。
その先の開けたところからは対岸に浮かぶ篠島を借景に、美しい眺めが展開されていた。

このぐらいになると風が強く吹くようになっていた。ビュービューと自転車が倒れそうな勢いで吹いている。時間も頃合いだったので僕は宿に戻ることにした。

「おかえりなさい」ようやく会えた噂の若女将が迎えてくれた。たしかにはきはきとしていて気持ちのいい応対である。先に大浴場で一日の汗を流してから部屋へ戻ると、すぐに若女将が夕食が運んできてくれた。カマスやコチ、エビフライなどが盛られたご馳走だ。それに赤味噌の味噌汁がなんといってもこの土地らしい。

「風がすごいですねぇ。いつもこんなですか?」世間話で尋ねてみた
「全然。これぐらいはまだ普通ですよ。この辺は年中風が強いんです。だからほら」といって窓を指差した。窓は二重窓になっていた。風も、そうだけれど冬もそこそこ冷えるそうだ。
「先週、泊まったWって覚えてますか?実は彼女に紹介されてきたんです」
「えっ、あぁー!覚えてますよ。仲の良さげなご家族で。お子さんがすっごく可愛いですよねぇ」
ちゃんと覚えていてくれたようだ。印象が良かったのはきっとWたちだけじゃなくて、若女将にとってもそうなのだろう。客と宿の程よい距離感で結ばれている感じが伺えた。さすが世界の宿を泊まり歩いたWが推す宿だけのことはある。
そして、「そういえば」、と若女将は思い出したかのように言った。
「あのご家族にゼリーも頂いちゃったんですよ」
「それってもしかして、ミカンの?」
「そうそう!なんで知ってるんですか?」
「だって僕も今朝、Wの家で食べてきましたもん」
「そうでしたか!」と部屋は朗らかな笑い声で包まれた。

ところでせっかく多幸の島にやって来たというのに僕はまだ肝心のタコを食べていない。今夜の夕食にもタコは入っていない。でも慌てる必要はないのだ。明日の朝食にはぷりぷりのタコが入ったタコ飯が出ると、前もってWから聞いている。
信頼できる人間から勧められるものに外れはなかったわけだし、明日のタコ飯も期待できるぞとホクホクした気持ちで、布団へと潜るとあっというまに夢の中に落ちた。

(次週に続く。三河湾・伊勢湾の旅は全四回を予定しています)