江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その3~
ザザザザザザザザ
。翌朝は屋根を叩く雨音で目が覚めた。窓の外を見やるとかなりの雨脚で、自転車を漕ぐにはちょっと厳しそうだ。
ただ、僕には今日中に行かなければならない場所があるわけではない。先の予定が詰まっている旅ならば無理をしてでも出発しなければならないが、雨が止まなければここに連泊したってよいのだ。予定は未定で過ごす旅が気楽で好きだ。
朝ご飯をいただいた後、気晴らしに辺りを散策に出かけた。「子宝に恵まれるように」と白粉と口紅を塗った化粧地蔵や六地蔵を見て周っていたらあっという間に桟橋に戻って来てしまった。やはり小さな島なのである。
海岸線を、昨日は行っていない方に歩いてみると堤防が窪んで海水に浸っているところがあった。震災の影響でこの島は地盤沈下が起こったのだという。
桟橋に引き返し、船の待合室に貼られた掲示物をしげしげと眺めていたら興味深いものを発見した。島の周辺地図に小さく記されていた「津田夫生誕の地」という文字。島で全く見かけなかった、日本人で初めて世界一周した男の足跡がようやくこのプレハブ小屋で発見したのである。しかし、その場所を見て「あれっ」と思った。そこは昨日も通っていたが津波の被害で何もなかったはずだ。だが、地図には祠の絵が描かれている。
見落としていたか
とその場所へ行ってみたが、そこにはやはり何もなかった。
朝ご飯の時、宿の親父さんは「津田夫の名前は、最近よぐ聞ぐようになったげど、津田夫のものは何もねぇよ」と言っていたので、元々何も無かったのかもしれない。鎖国していた時代背景を考えてみれば、彼は自身の体験を周囲に話すことは許されなかっただろうし、疎まれていた可能性もある。そういう時代だったのだ。
しかし、普通の住宅も含めて何もないのだ。昨日の晩の女将さんの話によれば、寒風沢集落を襲った津波は向かいの野々島に一度ぶつかったものがだったから、あっちに比べれば被害は少なかった、らしい。だから残った建物もあったそうだが、けれどとても住める状態ではなかったので取り壊されてしまったのだそうだ。
津波は、ここにあったかもしれない先人の足跡や今ここで暮らす生活の足跡もろともすべて飲み込んでしまったのだ。
宿に戻る頃には、雨は降ったり止んだりするようになっていた。恐らく時期に止むだろう。これならば自転車も漕げるだろうと、行けるところまで行ってみることにした。
まずは対岸の野々島へ。この島へも無料の渡し船を利用できる。親父さんと女将さんが桟橋まで来て見送ってくれた。
野々島と寒風沢島の距離は100mぐらいだろうか。お別れとも言えないような距離のお別れだったが、間には寒風沢水道が流れている。だからなのか、船を下りた時は別な島にやって来たという気持ちが湧いてきたし、外川屋は見える距離にあったけれど、簡単には戻れない遠い場所に感じた。
島の見どころの一つになっているツバキが弧を描く照葉樹のトンネルは、この雨で落ちたものも多く、残念ながら見頃はもう過ぎ去っていた。昨日であれば、この道もまた違った印象を受けたことだろう。
野々島の西海岸あたりへとやって来ると、小山のあちこちに横穴の洞穴群が出現する。地元では「ほらあな」から転じて「ぼら」と呼ばれる横穴は、誰がどんな目的で掘ったのかは分かっていない。鎌倉時代末期に野々島を拠点に各国と密貿易し、巨万の富を築いた内海正左衛門が財産を隠したとも言われている。今では地元の人の農作業用具置場だったり、倉庫代わりとなっているが 。
この島に隠されていたのは財だけではなくて、江戸時代には隠れキリシタンも住んでいたそう。熊野神社にはキリシタン仏が祀られている。神仏習合が見られるあたり、島ならではの緩さを感じた。
洞穴群に隠れキリシタン、というキーワードで僕はトルコのカッパドキアを思い出した。まぁあそこみたいにここの横穴に隠れキリシタンが住んでいたわけではないけれど。
そういえば離島を多数擁する長崎県も隠れキリシタンが多かったと聞くが、島というのは格好の隠れ家であり、同時に海運が中心だった時代において世界と結びつく最先端の場所であったのだろう。
野々島桟橋の近くには船の待合室を兼ねた資料館があった。ふらりと立ち寄っただけだったが、そこには思いがけず津田夫ら若宮丸漂流民の世界一周の足跡をまとめたパネルが展示してあった。
漂着した先で彼らを助けたアリュート人の風習、ロシア人商人と共に旅をしたシベリアの生活風土、サンクトペテルブルクでのアレクサンドル一世との謁見、太平洋で出会った原住民のなりなどに思わず見入ってしまった。
もっとも寒風沢島の時と同様、地元の人にとってはあまり興味をそそる話ではないようで、本棚には彼らの口述を大槻玄沢によってまとめられた「環海異聞」も二冊置いてあったが、ほとんど手に取られた様子はなく、新品同様だった。
野々島から浦戸諸島最後の島、桂島へ。 石浜集落には場違いに思える外観の立派な郵便局があった。石浜集落の外れには明治の初めに回漕業や、オットセイやラッコの狩猟で財をなした白石廣造邸跡が残っているが、彼がお金のやり取りをするにあたってこの郵便局を誘致したと言われる。今ではなんとATMもあるようだ。しかし、島でお金を使えるようなところは他の島同様、自動販売機ぐらいなことは浦戸諸島が世界と繋がる最先端から、今では世界に取り残されかけた僻地へと変わっていった時代の流れを物語る。
この頃になると再び雨が降り出してきた。なかなか天気が読めないものである。雨に急かされるようにして島のもう一つの集落である桂島集落を目指した。
通りがかった砂浜はかつてアサリ取りがさかんで、まさに今の時期は多くの潮干狩り客で賑わったそうだが、今では波に捻じ曲げられた欄干と、倒された柱が目立つ寂し気なビーチになってしまっていた。
桂島集落の桟橋に到着したのは14時15分頃だった。これで一通り浦戸諸島を周ったことになる。この後の予定は決めていなかったが、旅の最後には宮古島を周るつもりだったので、今日中に宮古島へ渡って、明日ゆっくり周ることにした。ちょうどあと15分ほどで本土へと戻る定期船がやってくる。
自転車のハンドルとサドルを外して、折り畳んでスーツケースへしまう。5分とかからず仕舞えてしまうから、交通機関に乗り遅れる心配もない。トレーラーを外さないでおけば、交通機関を下りた瞬間にすぐ自転車と接続して走り出せる。なんて便利な乗り物だろう。僕はどこにでも行けてしまう魔法を使えるような気分になった。
ところが、誤算だったのは宮古島の宿が空いてないと言われたことだ。どこへ電話をしても「ない」と即答。そりゃあゴールデンウィーク真っ只中に予約もなしで旅している僕が悪いのかもしれないし、もしかしたら一人のために部屋を用意して、夕食を準備するのは割に合わないと断られたのかもしれない。いずれにせよ、どこにでも行ける魔法を手に入れたとしても、僕のような行き当たりばったりの旅は日本ではなかなか難しいのであった。
困ったなぁと悩んだ末に、石巻に行くことにした。もともと石巻にも宮古島の帰りに寄るつもりだったので順番を変更したのだ。幸いにもビジネスホテルなら部屋が空いているとのことだった。そんなわけで島を旅するはずの「島旅」は二日目にしてあっさりと挫けてしまったわけだが、そこはご容赦いただきたい。ただ、どこにでも行ける魔法が使えるからこそ、やっぱりこんな風に行き当たりばったりができてしまう。どっちもどっちというわけだ。
昨年復旧した石巻線に乗って石巻へ。こっちの雨はさらにどしゃ降りだった。
傘を差して、スーツケースを曳きながら、駅から10分ほどの禅昌寺へやって来た。寺の参道脇に雨に濡れて黒く染まった碑石が立っている。この碑石こそが僕が石巻にやってきた理由である。
若宮丸遭難供養碑。漂流から七年が経ち、船員はみな死んだのだろうと考えた船主が立てた供養碑だ。実際は船員たちのほとんどがイルクーツクで生きていたわけだが、その当時は誰もそんなこと考えはしなかっただろう。海の向こうに外国があると知っていたとしても、まだまだ遠いパラレルワールドだったのだから、みんな死亡したと考えるのはごく自然の成り行きだと思う。ただし、この碑もいつしか寺の石橋の土台として使われる様になり、平成元年に発見されるまでやはり日の目を見ることはなかったようだ。
ビジネスホテルはいかにも震災特需で作られた感のある急ごしらえの建物だった。見た目は綺麗に整っているように見えるが、壁は薄く、簡素な作りであった。値段が値段だけに文句は言えないのだけれど、島だったらこれも受け入れられたかもしれないなぁと思う。ここには無数の選択肢がありすぎる。従業員は丁寧だったけれど、それ以上もそれ以下もない。すれ違う客とは目が合っても挨拶はない。急速に帰ってくる消費社会。何とも言えない錯誤感を抱きながらベッドへと潜った。
明日こそは宮戸島へ。宮戸島にも若宮丸漂流民の足跡が残っている。
(次週に続く。松島湾の旅は全四回を予定しています)