各国・各地で 風のしまたび

幻想自転車道でぐるりと一周 韓国済州島の旅その2

2016年09月14日

やって来た宿はビッグダディゲストハウスという名前だった。
ガラス張りの扉を覗くと、向こう側には存在感のある大男が二人いた。まさに名は体を表すがごとし。ただ、どっちが本物のビッグダディで、どっちが小ビッグダディなのだろうか? たぶんフロントで細々と作業をしている方が小ビッグダディで、後ろでどっしり構えているのがビッグダディだろう。

「伊藤さん、ようこそ」
なんと小ビッグダディこと、チェくんは日本語が話せた。昼間のキムさんといい、今日は日本語話者によく会う一日だ。ここは韓国だというのに僕は日本語ばかり話している。
「でも、大学の時以来だから、ほとんど忘れちゃいました」
大柄な体なのに謙虚な物腰のチェくんは何だか可笑しい。彼は相部屋料金なのに誰も使っていない部屋を与えてくれたり、洗濯機を使わせてくれたりと何かと世話を焼いてくれた。
そして思いがけず「シャワーを浴びたら下で一緒に晩ご飯を食べましょう」と夕食に誘ってくれた。

シャワーですっきりした後、一階のカフェに行くと、早めに閉店した店内では、ビッグダディ氏の家族とチェくんらスタッフを囲んで、サムゲタンが振る舞われた。サムゲタンは鶏を一匹まるまる使ったものだったから、僕のようなぽっと出の者がお相伴に預かるのは流石に気が引けてしまったのだけれど、オーナーのビッグダディ氏は「気にしないでいいから、たくさん食べて!」と太っ腹だ。
「飲み物もフリードリンクだよ! 好きなだけ飲んでいいけど、でもセルフサービスね」
ビッグダディ氏はいたずらっぽく笑った。彼がビッグなのは、そのなりだけではないようだったから、僕はもう遠慮をすることはよそうと思った。好きなだけ食べて、好きなだけ飲んでいいなら、セルフサービスぐらい喜んで、だ。

ちなみに後で知ったのだけれど、その日は伏日(ポンナル)という年に三日ある暑気払いの日だった。ちょうど日本でいう土用の丑の日みたいなもので、ウナギの代わりにこっちではサムゲタンを食べるのだそうだ。医食同源の考え方が韓国の食には根付いているので、一番暑い時期に薬膳料理であるサムゲタンを食べるのは理に叶っている。

みんなで食卓を囲んでいたところに他の宿泊者である金髪の女子大生ホジョンちゃんと、リトアニア出身のモニカちゃんも加わった。2年前にソウルの大学に留学していたというモニカちゃんは韓国語が堪能だった。
二人は仲良く宿のキッチンを借りてカレーを作っていたので、僕は学生時代の友達同士かと思っていたけれど、この宿で知り合って意気投合したそうだ。居心地のいい宿は得てしてお客同士の距離感も縮めてくれる。
彼女たちの作ったカレーまでご馳走になりながら、テーブルの上では様々な話題が飛び交った。お互いの国の印象のことや行儀作法のこと、昔の旅のこと…。ホジョンちゃんが英語で会話を切り出し、モニカちゃんは韓国語で話を広げ、チェくんが日本語に訳してくれ、僕は英語で答える。誰も母語を使っていない図がなかなかインターナショナルだ。
「旅だなぁ」と思った。年代も育ったバックグラウンド違うのに、出会った瞬間からこうして盛り上がれるのは旅だからという以外、説明がつかない。柄にもなく「一期一会」なんて言葉が浮かんでしまうのだ。
そんな賑やかなテーブルを、ビッグダディ氏が子供をあやしながら、満更でもなさそうな表情で眺めていた。

宴もお開きになる頃、チェくんが何気なくこう呟いたのをよく覚えている。
「家族みたいに付き合えて、こんなに楽しく働ける仕事は始めてです」
本心なんだろうな、と思った。客の僕ですらすぐにこの宿が気に入ったのだから、働いている人間にとってもきっと気兼ねなく働ける環境であるに違いない。

ビッグなハートのビッグダディゲストハウスに、自転車好きのキムさんに。済州島一周の旅は初日からいい出会いが続いて、そして色々なものをご馳走になってばかりの一日だったなと思いながら、僕はベッドへと潜った。

翌朝は朝9時に出発した。しかし今日は今日とてべらぼうな暑さだ。
「あっちぃよぉ…」
この旅で何度暑いと口にしただろう。状況を憂いていても仕方がないのだけれど、文句を言って息抜きでもしなければ、僕も自転車もとろけてしまいそうだった。おまけに今日は強い向かい風まで吹いているのだからスバラシイ天気に恵まれている。

島の環状線には路線バスが頻繁に通っていた。自転車をスーツケースに仕舞ってバスに飛び乗れば、1時間で今日の目的地にも、それこそゴールの済州市にも戻ることができるだろう。
そんな逃げ道がすぐそこにあるものだから、暑さに対する覚悟が揺らぐ。なまじ僕の自転車がコンパクトに持ち運びできてしまうから、心に隙ができてしまうのだ。最高の乗り物と思っていたスーツケース自転車にこんな弱点があるとは…。

ヘトヘトになって辿り着いた4つ目のチェックポイントでスタンプを押すと、進路はようやく風下方面へと変わった。前方には目を見張るような巨大な岩山の山房山(サンバンサン)が現れた。

このあたりは島でも有数の観光地のようで、ツアーバスが大挙して停まっている。セグウェイに乗ったツアー客がスルスルと道路を滑っていった。
「あぁ、僕もあんな乗り物が良かった…」

泣き言を言いながら走っていると、自転車乗りが二人、前方に立ち往生していた。パンクでもしたのだろうか?
パンク修理をするぐらいの工具なら持ってきている。もらってばかりの韓国旅だったから、ここはその恩を返す絶好のチャンスだと思い、僕はブレーキレバーを引いた。
「メイ アイ ヘルプ ユー?」
若い男の子二人組は突然現れたガイコクジンにギョッとした表情を浮かべた。言葉も通じていないようだったので僕は慌ててカバンからパンク修理キットを取り出してみせると、二人はようやく状況を理解してくれた。
まぁ普通に考えて、パンクして困っている時に調度良くパンク修理ができる人間が現れて、しかもそれが外国人だなんて想像しようがないだろう。僕だって済州島で韓国人の自転車修理を手伝うなんて思いもしていなかったわけだし。

ところが困ったことにタイヤを外してみるとパンクはスネークバイトだった。
スネークバイトとは、段差などを乗り越える際にチューブとリムが噛み込んでしまい起こるパンクのことで、文字通り蛇の噛み跡のような切り傷が二つつく。今回は相当激しく打ち付けたようでバックリと大きな切り傷がついていた。
果たして僕の持っているパッチで修理できるだろうか? スネークバイトはタイヤの空気圧がしっかりしていれば起こりにくいパンクなので、僕はこの手のパンクは予期していなかった。
「…ちょっと余計な仕事を引き受けてしまったかもしれないなぁ」
まじまじと見つめる二人の視線は、すでに突然現れたガイコクジンからピンチに颯爽と現れたヒーローへ注ぐものに変わっている。やっぱり直せませんでした、なんてどの口が言えようか。

しかし、結局のところパンクは直せなかった。パッチを二枚使って傷を塞いだものの、タイヤに空気を入れると、パッチが大きな傷から漏れ出そうとする高圧の空気に耐えられず膨らんで剥がれてしまう。 ブシューっと勢い良く抜けていく空気の音と共に、ヒーローへの期待もあっという間に抜けていく。ガイコクジンでもヒーローでもなければ僕は何なのだ?
幸いなことといえば彼らは近くのホテルでアルバイトする大学生だったということ。もし二人が僕と同じように済州島一周に挑戦するサイクリストだったら、さぞ更に気まずい空気が流れただろう。
「気にしないでください。自転車屋で直しますから。そこにカフェがあるから行きましょう。お礼にご馳走します」
逆に僕が励まされてしまったばかりか、カフェで紅茶をご馳走してくれた。こちらのカフェは、日本よりも高いくらいなのに。何だか僕はヒーローの名を語る詐欺師みたいなやつだな、と思った。気が付くと何もしていないのにも関わらず、またご馳走してもらう立場になっている僕であった。

緩い坂道の途中、コンビニに立ち寄っておにぎりを一つだけ買った。
「コッピ?」
店内のテーブルに座り、おにぎりを食べているとレジのお姉さんからそう尋ねられた。コッピとはコーヒーのことだ。おにぎり一つじゃ商売にならないから、コーヒーぐらい買ったらどうだ? ということかもしれなかったけれど、僕は「要らないよ」と首を振った。
すると彼女は足元からペットボトルと紙コップを取り上げて、僕に見せた。そして、一旦奥に消えたかと思うと茹でトウモロコシを丸々一本持ってきて僕に手渡した。
「サビスー(サービスです)」
どうやらコーヒーでも買ったらどうだ? ではなくて、飲み物もなしで大丈夫? それにおにぎり一つじゃ足りないでしょう? ということだったのだ。

サービスですよ、と言う彼女に僕はかつての韓国縦断旅の記憶が重なった。
飛び込んだモーテルが予算オーバーでどうしようかと悩んでいた時に同じように「サビスー」と一方的に値下げしてくれたオバちゃんがいたり、雪がチラつく寒い日に立ち寄ったコンビニのお母さんが僕の手を握って暖めてくれたかと思えば、「サビスー」とレジの飴玉をポケットに押し込んでくれたこともあった。
いつも強引なくらいの心遣いだったけれど、それが僕は単純に嬉しかった。言葉に障害がある時はこのぐらい積極的な方が分かりやすくて心に響く。僕と韓国の旅の相性はけっこう良かったのだ。それは半島でも島でも変わらなかった。

「マシッソヨ!(美味しいです)」僕の知っている数少ない韓国語で、せめてもの気持ちを伝えるとお姉さんは「ベリー ベリー カムサハムニダ」と言って艶っぽくウインクをした。
そして「島を一周したらまたここに寄るのよ! 約束ね」と言って僕に向かって小指を立てた。
かなわないなぁ。やっぱり今日も僕はもらってばかりだ。

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

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