研究テーマ

原研哉氏トークイベント採録(3/5)

2010年2月3日

見立てによっていかようにもなる、その自在さを意識して、「簡素」を考え尽くすところに、無印良品の品質があるんです。

このレポートは、2009年9月24日に池袋西武店で行われたトークイベントを採録しています。

応仁の乱、足利義政、ミニマリズム

僕はあまり日本史が好きじゃなかったので、学生の頃は授業をあまり熱心に聞いてはいなかったんですが、最近なるほどと思ったのは、応仁の乱で京都が徹底的に焼けたという事実に気づいたことでした。なにしろ10年間を超える戦乱ですから、伽藍も焼ける、仏像も焼ける、絵巻物も、書も、仏典も、屋敷も、着物もあらゆるものが莫大に消失されたわけです。これはたいへんな損失です。貴族は縁故を頼って地方に疎開し、それで連歌が地方に広まったりと、京都の文化が地方に飛び火するという意味では、マイナス面だけではないのですが、京都そのものはボロボロになっちゃうんです。
この応仁の乱の時の将軍、足利義政という人は、実に政治力はないけれども、美意識は高い人でもあった。美にはすごい執着があった。普請好きらしくて、何度も住まいや庭を造らせたそうです。数百メートル先に戦火が迫っているのに、書を書いたりするような人だったらしい。跡目の相続がややこしくて、こういう乱を引き起こすことになったのですが、結果的にはぽいと息子に将軍職を譲って、自分は東山のほうに隠遁します。自分の好きな、すばらしい屋敷をつくって、好きなものだけを集めて趣味的な生活に浸った。
当時は相当なものが焼けてしまったということで、人々の心には厭世観というか、諦観というか、ある種のリセットの心理が美意識とともに働いたのかもしれません。その東山のあたりに、ふわっと、簡素で侘びた感じ、冷えた感じ、枯れた感じがいい、というような感性が立ち上がってくるんですね。勿論、義政の感性が主導したと思いますが、ひょっとすると、戦乱と絢爛に倦んだ時代感覚だったかもしれない。まさに極まったミニマリズムが生まれてくるんです。
世界中から影響を受けながらも、その影響を全部押し返して新たな日本風をうち出していくんですね。それはもうミニマルの極みです。何にもないプレーンをすっと出してきて、これで世界に対峙してしまうという、そんな感覚がこの時代に生まれてくる。

これは、冒頭で紹介した同仁斎という義政の書斎ですが、彼の当時の感性を端的に物語っています。今の和室といわれるものの源流が、全てここに集約されていると言われています。言わば、和室の原型ですね。畳敷きの四畳半ですが、これ以前は、畳はまだ床に敷きつめられてはいなかった。畳は板の間の一部に置かれて、畳の縁には段差があったんです。
障子もほぼ完成されています。障子は完壁な面光源になって、直射日光は差さない。デスクトップは帳台とよばれるもので、書き物をするところですが、すばらしいのはデスクトップの面に接して全面に障子があって、これがすっと開くんですね。開くと庭の景色がちょうど掛け軸のようなプロポーションで切りとられてくる。帳台の左には違い棚があって、渡来ものや本などをここに飾ったりするわけです。
向かって左手と、カメラ側も襖です。襖、襖、障子、障子、あとは畳と帳台と違い棚。すごく簡素できれいです。本当に簡素極まりない。これが究極の和室です。以後の和室は、数寄屋にしろ書院づくりにしろ、少なからずこういうものの影響を受けているわけです。

こういうミニマル極まりない書院で、侘び茶の開祖である村田珠光と義政は、茶で交わっただろうといわれています。村田珠光という人は、ちょっと冷えた感じがいい、何もないプレーンが素敵だ、ということを言い始めた人です。その後、武野紹鴎という人が、何にもないプレーンなもののほうが、人間の内面を映すにはいい。空っぽの器に心情を託すほうが、単なる複雑さより高尚なんじゃないかというようなことを示しはじめたわけです。
それを引き継いで完成させたのが千利休です。利休の時代、桃山時代に茶の湯における「エンプティネス」の運用法がひとつの完成をみるわけです。
生け花も能も茶の湯も、エンプティネスを運用する美意識の所産は全て室町の後期辺りからです。日本美術史でいうところの「国風化」、つまり日本の感覚のオリジナリティというのが、この辺でできあがったんです。僕が向き合っているデザインや無印良品の「素」とか、そういうものをやればやるほど、この辺りにルーツがあるということが分かる。いわゆる簡素の根はここら辺にあるんです。

この広告写真では、無印良品の数百円の茶碗が同仁斎に置かれています。国宝に無印の茶碗、というのは、何だか畏れ多い感じもするんですが、そこにはちゃんと理由があるのです。
「簡素」の中に、ゴージャスに負けない美を見つけだして、そこに価値を見いだそうという着想は、室町後期から桃山くらいの間にできていて、それは無印良品の今も変わらないということです。簡素なものが、ゴージャスなものに負けないという、さっきのパチンコ台の底辺が世界を見返すみたいな、独自の美意識が生まれてきたのです。

この写真は武者小路千家の一番フォーマルな茶室、官休庵。一畳台目半板といわれる、とても狭いものですが、きれいですよね。
簡素とはいいながら、凝っているじゃないかと言われますが、たしかに凝っているんですが、現代建築みたいに、簡素というと全部「白」にしちゃうという簡素ではなくて、今日できて明日にはなくなっていくような、急ごしらえの材料でつくったような、そういうはかなさを意図している。だから窓の障子なんか、はずすと土の壁にいきなり木の格子がはまっているような、質素な仕組みになっているんです。

茶の湯とエンプティネス

何もないところに亭主とお客が向き合うというのが、茶の湯です。何もない、エンプティな場所です。

エンプティであるほどいいわけです。空っぽであれば、何でも持ち込めるわけです。たとえば、水盤に桜の花びらを散らしたり、軸に桜に因んだ言葉がちょっと書かれていたりすると、もうそこは満開の桜の木の下に座っているということになり、僅かにしつらいを変えただけで、そこは波の打ち寄せる浜辺になったりもする。

亭主のしつらいを客が察知して、なるほどと思ってその気持ちになるという、メタフォリカルな劇場みたいなことが、エンプティな空間の中に生まれるのです。

これが西洋のオペラだったら、満開の桜は精密に装置として再現されなくてはならないけれども、ほとんど何もしないで、最小限でそれをやってしまうという方法を、利休が完成させるわけです。庭の朝顔を全部摘んで、床の間に一輪だけ飾るとかね。無骨な戦国武将たちが、まいっちゃうわけですから、茶の湯の技術はというのは、かなり高度にうまくできていたんだと思います。

簡素を「見立て」る美意識

それと同じことが無印良品にもある。無印良品というのは1980年にできるんですが、その頃の世界は、特に日本はバブルの全盛期で「ゴージャス、ゴージャス、ゴージャス」で沸きかえっていた。そこに、無印良品がぽつりと生まれます。包装を簡略化するだとか、素材を素にしてみるとか、そんなところから始まる。しかしながら、単に包装を簡略化するとか、単にフリルをとるだけだと、貧相な安物ができてしまうかもしれないですよね。そうならないためには、そこに美意識を働かせなくちゃならない。
つまり、簡素にするんだけれども、簡素でもゴージャスに勝つというのは、使い手のイマジネーションをそこに盛り込むということ。それによって、すごくパワフルになりますよということなんです。簡素がゴージャスに勝つという確信を持った美意識がそこに働かない限り、ただチープなだけの製品になってしまう。そこをきちっと見切って、確信を持ってやりきっているところに、無印良品があるわけです。だから茶の湯がもってる同じパワーを、無印良品はもっているはずだと思うんですね。
だから、無印良品というのは、西洋から来た「シンプル」とは違う。「エンプティ」なんです。たとえば18歳の若者が新しい生活を始めようと思って、無印良品のベッドを見たとします。そして「僕の新生活にいいな」と思う。一方で、60代の熟年夫婦が同じベッドを見て「私たちの寝室にいいわね」と思う。18歳の生活にも、60代の生活にも、別々のシンプルなベッドをつくるんじゃなくて、ひとつのベッドを見て、皆が自分に合うと思えるような自在性ですね。どんな暮らしも使い方も引き受けますという、そういうエンプティをもっている。日の丸がフレキシブルなのと同じです。

見立てによっていかようにもなる、その見立てを意識して、自在に対応できる簡素さを考え尽くすというところに、MUJIの品質があるんです。

これはシンプルとエンプティを説明する分かりやすい事例です。

こちらはヘンケルの包丁。僕も台所で使っているものですが、すごくよくできています。グリップの位置がしっかりしているし、刃の微妙な反りもよくできていて自然に切れる。人間工学的にもきちんと考え抜かれてていますから、西洋流のシンプルのひとつの極点にあるような、いい仕事だと思います。
一方、こちらの柳刃包丁はエンプティネスの典型。

板前さんが刺身などをつくるわけですが、どちらの包丁がより高度な技術を受け入れるかというと、明らかにこっちの柳刃包丁のほうです。こちらにはグリップも何もなくプレーン。どこを持ってもいい。だから、薄造りの刺身をつくる時と、何かをみじん切りをするときとでは、たぶん持つところや持ち方が微妙に違うはずです。包丁を研ぐと、刃の長さが短くなりますから、また持つところも違ってくる。どこを持ってもかまわないということは、板さんの超絶技術をこのプレーンな柄で全て受けとめるということなんですね。これがエンプティです。

このシンプルとエンプティの違いというものが、世に出ている多くの製品と無印良品の違いなんです。つまり、無印良品は、あらゆるファンクションを全部受けとめられることを、どこかではっきりと意識している。そこに品質を求めているというのが、おもしろいところだと思います。何のために、どういうふうに使うかなんて、答えを明示しない。お客さんが自分の生活の中で、好きなように使えばいい。それを玄関に置こうが、押入の中に入れようが、見えるところで使おうが、見えないところで使おうがかまわない。そういう自在性があるということです。
脚付マットレスなんて、その最たるものです。

これは布団とベッドの中間みたいなものですが、布団として使おうがベッドとして使おうが、あるいはソファとして使おうが、かまわない。エンプティな茶室みたいなものです。それがゴージャスなベッドに勝るということを意識してデザインするところに、無印良品のオリジナリティがあるんだと僕は思います。