MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト
バスで行く。東京団地ハイキングツアー

※このレポートは、2013年11月2日に都内で開催されました、「バスで行く。東京団地ハイキングツアー」の様子を採録しています。

トークセッション(第1回目)

移動中は、バスの中で門脇氏と土谷氏によるトークセッションが行われました。

土谷
門脇耕三さんは、建築構法の研究や、大変幅広く活躍。若い人とのネットワークも豊富。建築構法だけでなく、現在の建築の潮流建築のあり方、意味についても再解釈しています。まず、国立富士見団地を見てきた感想をお聞かせいただけますか。
門脇
感想というよりも、皆さんが見てきた団地がどういう経緯であんな形になったのかを説明したいと思います。URの皆さん適宜補足をお願いしますね。

まず、“団地”という言葉の起源から考えてみましょう。団地とは、「ある区画に建物が一団となって建てられていること」という意味で、たとえば「工業団地」というと、工場や倉庫がまとまって建っている区画を指します。日本では、集合住宅団地がとても一般的な存在なので、単に「団地」というと、みなさん集合住宅団地のことをイメージされるようです。

ところで、集合住宅が一区画に建てられたことは、団地ができた当時、日本は住宅が不足していたという状況と深く関係しています。住宅が少ないということは、住宅を、早く安く大量につくる必要があったということです。しかし、建物をつくる場合、普通は1つの建物をつくる毎に1つの確認申請をしなくてはなりませんが、団地はこれを簡略化するやり方でした。団地には集合住宅がたくさん建っていますが、敷地自体は一つみなすことで、確認申請は1回で済むのです。これが、手続きの簡略化と設計のスピードアップにつながりました。

設計をスピードアップするという要請は、他のことにも影響しています。“標準設計”という、住宅の規格のようなものをつくり、それを「コピー&ペースト」するように、同じ敷地に並べていったのです。だから、団地には同じ建物がたくさん建っているわけですね。また、同じものを繰り返しつくると、職人さんは作業にどんどん慣れていきますので、工事のスピードアップにもつながりますし、品質の安定化にもつながります。

また、ほとんどの団地は鉄筋コンクリートでできていますが、当時はまだまだ珍しい技術で、地方では鉄筋コンクリートの建物を初めて建てる建設会社も多かったんです。したがって、標準設計は、こうした新しい技術をつかっても、間違った設計が行われないようにする、という意味もありましたし、都市の不燃化も重要な政策でしたから、同じ設計の団地を日本各地につくることによって、鉄筋コンクリートの技術を普及させようという狙いもありました。そのようにして、皆さんがご覧になったような団地ができたわけです。
門脇
国立富士見台団地の平面図をご覧ください。住宅が増築されたタイプとそのまま残っているタイプがありますが、住戸へは、現在のマンションのように共用廊下からアクセスするのではなく、各階2つの住戸で1つの階段室を共有し、ここからアクセスする「階段室型」という形式になっています。実は、ここにも時代の事情がありました。当時はクーラーがありませんでしたから、暑いときには北と南の窓をあけて、風を通そうという工夫ですね。現在のマンションのように、北側に共用廊下をつくってしまうと、プライバシーや防犯の観点から、北側の窓を大きく開けることができなくなってしまうからです。

また、もう一つの大きな特徴は、住宅の中に鉄筋コンクリートの壁がたくさんあることです。今のマンションではこういうつくり方はせず、住宅の中の部屋同士を仕切る壁は、軽量鉄骨製や木製の、簡単に壊せる壁でつくります。ところが、当時、鉄筋コンクリートの壁をたくさん入れる方式で住宅をつくったのは、この方が鉄筋の量が少なくて済むからです。当時は鉄が高かったんですね。こういう構造を「壁式構造」と呼びますが、壁式構造は、今の耐震基準に照らしても十分な強さをもっています。現在、団地のリノベーショションが盛んなのは、壁式構造が大きな地震にも十分耐えられ、構造体自体は、あと何十年か持つだろうと言われているからです。

ここで「階段室型」の話に戻ります。階段室型の集合住宅は、プライバシーや夏の居心地のよさなど、利点が多い方式ですが、1つ問題を抱えています。
団地は、同じ間取りの繰り返しでできていますから、居住者を募集すると同じような年代の方が集まります。その方たちの多くは、現在でも居住を続けているので、高齢化も一気に進むんです。5階まで登っておわかりでしょうが、階段で5階まで登るのは大変です。しかしエレベーターをつけようとしても構造上うまくつかないんです。階段室型の場合、階段の踊り場にエレベーターが着床しますから、完全なバリアフリーの住宅に改修することが難しいんですね。かつての建築家が良かれと思ってやったことが、現在の改修のハードルになっているという皮肉な話です。

増築された住宅に話を移しましょう。この増築部分は、外観をよく見ると、壁に節目が何本か見つかるはずです。なぜ節目があるかというと、“大型PC版”というコンクリートのパネルを工場でつくり、現場で組み立てるというやり方でつくられているからです。このやり方だと、コンクリートパネルは工場でつくるので、現場での工事期間は短くて済みます。では、なぜ工事を短くする必要があったかというと、実はこの増築は、居住者が普段の生活を継続したまま行われたものだからです。騒音が生じる工事の時間をなるべく短くしようとする工夫だったのですね。

増築棟のもう一つの大きなポイントは、図面をみると、かつてバルコニーだったところに「洗」という文字が見えることです。こうした増築は「一室増築」と呼ばれる方法ですが、一室増築には、部屋を増やすだけではなく、水廻りを充実化させようという狙いがあったのです。当時の住宅には室内に洗濯機置場がなかったのですね。しかし、それではあまりに不便だと言うことで、これを解消しようとしたわけです。また、初期の団地には、住宅の中にお風呂がなく、居住者は団地内の共同浴場を使うというものもありましたが、こうした団地に、一室増築のやり方で、浴室を増築したというケースもあります。

お風呂について一つ。当時は「バランス釜」というものが主流でした。今の住宅には給湯器が屋外にあるのでなかなか見ることができません。しかし、当時は屋外におけるタイプの給湯器がありませんでしたから、ここで難しい問題が生じます。住宅の中でお湯を炊くということは、住宅の中で火を燃やすということですから、排気を適切に取らないと、室内の空気が汚染されてしまい、とても危険です。これを解消したのがバランス釜で、BF(Balanced-Flue)という技術が使われています。余談ですが、実はBFは、もともと潜水艦に使われていた技術です。潜水艦は水の中に潜るので、当然空気は密閉されていますが、エンジンを廻すため、そこで燃料を燃やさなくてはなりません。そのエンジンを廻すための吸気と排気をバランス良く取るための技術が、BFだったのです。
土谷
増築の話で、水周りの充実ということは理解できました。MUJIでもこの種の増築棟をリノベーションしました。その時の感想は暗いということ。バルコニーをつぶして一室作るから、キッチン、ユーティリティが暗くて使いづらいい部屋ができてしまっています。増築が必要だった時代は、特に住居面積が足りなかった時代だったのでしょう。どんな背景でうまれたのでしょう。
門脇
増築のような改修を行うにあたって、当時は事業的な枠組みが限られていました。一室増築は、そうした限られた枠組みの中で考えられた方法です。一室増築は全国で8万2千戸以上の実績があり、関西の方が多く行われています。なこのやり方を開発したのは、建築家の市浦健さんが創設した事務所、市浦ハウジング&プランングでした。
土谷
増築の流れはいったん落ち着いたんでしょうか。当時はせっせと増築しましたが、今になってみると、そこまでたくさんの子どももいないし部屋数もいらなくなり、増築した分だけ値段も高くなったりして難しい側面があるんじゃないかなと。
門脇
一室増築は80年代後半が最盛期で、その後は数が少なくなります。後ほどお話ししようと思っていますが、現在のリノベーションは、同じような団地の住宅を、多様なものに改めていくという特徴があります。ところが、一室増築はすべて同じ間取りですから、住宅をコピー&ペーストしていくような、団地を最初につくったときと、明らかに同じ思想に基づいています。つまり、今のリノベーションとは思想が異なるわけですが、リノベーションの走りとして理解することもできると思います。
土谷
少し歴史的な話を。団地の構法についての歴史や、住宅公団ができた頃に新たに生まれたダイニングキッチンの話などをお願いできますか。
門脇
団地の内装についてお話しすると、今日見た団地の中で、改修されていないものについては、鴨居や敷居がついているなど、和室的な特徴が見て取れたかと思います。先ほどもお話ししたとおり、団地は鉄筋コンクリートを使っていますので、都市の不燃化政策とも強く結びついています。それ以前は、日本の住宅はほとんど木造でしたので、火事が次々と燃え広がって、都市の大きな範囲が焼けてしまう「都市大火」という災害が起こることがありました。したがって、住宅はなるべく鉄筋コンクリートでつくろうという流れが生まれるわけです。URに関しても、「不燃化された住宅をつくること」が使命であると、URの前身である日本住宅公団の根拠法に書かれています。というわけで、構造体は鉄筋コンクリートでつくられたわけですが、内装に関しては、当時のごく一般的な技術が適用されます。つまり、木造住宅をつくっている大工さんが動員されるわけですね。団地は、早く安く大量につくる必要がありましたから、地場の生産組織が使える部分では、それまでの生産組織が慣れている方法でつくった方が良かったのです。当然、大工さんは和風の住宅が得意ですから、団地の内装も和風になります。現在、“スケルトン・インフィル(SI)”という考えがありますが、日本の団地は、構造体は新しい先端的な技術でつくり、内装はこれまでどおりの生産組織と技術でつくっていたという意味で、最初からSI住宅的だったのですね。

当然、居住者もそれまでは和風の住宅にしか住んだことがありませんでしたから、和風の内装は、居住者の実情にも即していました。しかし一方で、集合住宅という形式にふさわしい、新しい洋風の住まい方も、徐々に団地に持ち込まれていくことになります。ステンレスのキッチンセットが備え付けられたダイニングキッチンは、そうした新しい住まい方を象徴するものの一つでした。団地とともに、日本人の生活に新しい住まい方も浸透してきたわけですね。
UR
スケルトン・インフィルの話に関連して、当時は内装をパネル化して能率的に作ろうということで外郭団体が動いていました。最初は職人組織を活用して作っていましたが、団地の開発は大規模化。1965年(昭和40年)の団地はある程度中規模、ぎりぎり徒歩圏内でした。それ以前のものは割と都心に近い、駅からも近い立地条件でした。その後40年代後半になると、バスではないといけない、田舎の方に大規模開発が進んでいきます。最初は市街地開発として始まった団地整備が大規模化し、新規の場所を開拓するように動いていくんです。
門脇
おっしゃるとおり、団地が大規模化するにつれて、地場の組織を結集しても内装の工事が追いつかないということになります。そこで、インフィルについても生産の効率化が求められ、内装をパネル化していくという手法が試みられるようになっていきました。構造体についても、PC版というコンクリートのパネルを工場であらかじめつくって、それを現場で組み立てるという手法が採用されるようになっていきました。しかし皮肉なことに、効率化が進んで大規模団地が増えていくにつれ、団地は嫌われていくんです。
大規模な団地ができると、大きな人口がそこに移動します。そうなると、住宅だけがあればいいというわけではなく、学校や福祉施設などをつくる必要が生じ、自治体の負担が増大することになります。この頃には、町田市が団地開発を拒否するという事態も起きました。当初、団地は新しい文化的な生活の場としてもてはやされていましたが、昭和40年代頃になると、団地は否定的なイメージをまとうようになります。たとえば、怪獣番組で団地が破壊されたりするなど、当時のメディアにも団地の否定的なイメージは見てとることができます。
土谷
たった10年で時代が大きく変化していったんですね。ところで、団地サイズの畳は本当に小さくて、今日見学して改めて驚きました。あんなに小さいんですか?
門脇
詳しいことは分かりませんが、日本の建築は壁の中央で面積を数えていたところに要因があるかもしれません。鉄筋コンクリートの壁は木造の壁より厚くなりますから、面積を数える上では同じでも、実際の空間の大きさは、鉄筋コンクリートの方が小さくなるんですね。そうすると、木造住宅と同じ規格の畳では、収まりきらないということになる。
UR
公団ができたのは、大都市の住宅が著しく不足していたという背景があったので、早く大量に住宅を供給することが求められていました。限られた予算の中で、できるだけ効率的なプランを実現したのが今見ていただいた団地ですが、戸数の確保が重要だったので面積的には狭く、各部屋の広さを十分に取れなかったという事情もあるのだと思います。
土谷
もともと40平米。部屋の面積をその大きさに決めたのはどんな理由があったんですか?
門脇
国が健全な住宅としてどのくらいの面積を確保すべきかを定めた、“誘導居住面積水準”というものがありました。おそらくそれが根拠の一つになっているのだと思いますが、誘導居住面積水準は5年毎に書き換えられて、だんだん大きくなっていきました。
土谷
本当はもっと大きくしたかったけれど、数を抑えるために小さくせざるをえないという事情もあったんですね。もうひとつ、板の間というものが少しあり、箪笥などを置けるようになっていますが、畳の周りには物を置けるスペースが比較的ありますよね。
URのステンレスキッチンの開発に挑んだ方の“プロジェクトX”をDVDで見たんですが、私は泣きました(笑)。当時、ステンレスキッチンを作るのは本当に大変だったんですね。主婦の家事労働を軽減することをテーマに、新しい時代の象徴としてうまれたようです。しかしその開発過程ではプレスでステンレスキッチンを作ることは本当に大変だったようです。
10年で代わってしまった団地のイメージですが、スタートしてからのその間はは新しい暮らし方の憧れだったとのでしょう。
門脇
URの技術研究所にある「集合住宅歴史館」という施設には、中層の蓮根団地や、晴海の高層アパートなど、金字塔となった団地が実大の空間として保存され、展示されています。そこを見ると、当時のみずみずしい団地の暮らしがよく感じられますね。
土谷
それまではちゃぶ台に座って食事をしていて、キッチンも暗いところだったのが、キッチンができ、ダイニングができ、相当生活は変わりました。でも実際暮らし始めて、子どもが大きくなると40平米ではすぐ手狭になったんじゃないですか?
UR
 当時は、一般の住宅がもっと狭く、家具なども少なかったので、そんなに狭くは感じなかったのではないでしょうか。時代が変わって今は狭く感じますが、二人世帯がメインになれば、また2DKがちょうど良くなるともいえます。
土谷
当時から“スケルトン・インフィル”を実践していたと先ほどお話いただきましたが、もともと そういうことを想定していた?もしくはそうせざるを得なかったんでしょうか?
門脇
後者ですね。ただ、団地はもともとスケルトン・インフィル的だったとはいっても、コンクリートの壁の中に配管や配線が埋め込まれているなど、今の集合住宅では考えられないつくり方であったことも事実です。配管が詰まったときなど、家の中に入らないとメンテナンスできない。そういう意味では、現在のスケルトン・インフィルとはまったく違ったものでもありました。今日見た団地の中に、北側に重症患者のように配管が取り付けられた住棟がありましたが、あれは配管のメンテナンスをしやすくするため、最近リノベーションされたもののはずです。
土谷
スケルトン・インフィルについて、URは歴史の中でも先進的に取り組んでいます。日本の中でそういう可変性、間取りを変更、設備を変更するなどという動きが出てくるのはいつですか?
門脇
実はこの考え自体、は1960年代(昭和36年~)頃からありました。先進的なものとして“KEP”があげられます。なるべく住宅の中を構造の壁を整理して、住宅と住宅の仕切りを家具にし、住民の生活に応じて動かしていこう、という動きはありました。ただ、本格化するのはその後。SI住宅という言葉が整備されたのは1990年(平成2年)以降です。URは、独自のSI住宅ということで“KSI”と名乗り、1999年(平成11年)に始まりました。現在では標準仕様になっています。
土谷
随分早いんですね!驚きました。
そしてそろそろ高島平団地に近づいてきましたね。時代は1972年(昭和47年)。私は板橋生まれだったので、高島平団地ができて街が変わったことをよく覚えています。全部真っ白で当時「白壁病」とも言われ、団地に住む人が自分の家を見失ったり、病気になったりという方が増えたと話題になりました。当時は色々な社会問題が起きた場所でもあります。それは高島平団地のように高層の建物に住むのは多くの人が始めての経験だったということが大きな理由でしょう。特に高島平は真ん中に中庭をはさんで二列に住戸を並べるなど、高密度な住宅が作られていきました。そうした住み方に対して、人々が慣れていくまでに時間を必要としたのでしょう。もちろん今ではそんなことはありませんし、大変住みやすい場所として評価されています。高島平団地ができたことによって、マンションという高層集合住宅が社会の中で定着していったのでしょう。

また、この大型の団地ですが、西台、高島平、新高島平と、団地が増えるにつれて現在の三田線の駅も伸びてていきました。僕が子どものころはこのあたり何もない原っぱでした。自転車で荒川に行き、魚釣りをして遊んでいた場所でした。
さあ高島平団地に到着しました。まずは集会所でお昼ご飯にしましょう。