池田住まいを、はじめる前に

大阪北部に位置する池田市。みなさんは足を運んだことがありますか?
市内には猪名川・余野川・箕面川などの河川が流れ、北には五月山。大阪中心部から少し離れるだけで、自然に触れられる豊かな地域。登山初心者でも気軽に登ることができる五月山は、五月山動物園や五月山公園を有し、子どもをはじめ日々多くの人の姿が。緑溢れた景色とともに、穏やかな情景が広がっています。
自然環境に恵まれている一方で、交通の便が良いのも特徴の一つ。電車を使えば大阪市内まで約20分、阪神高速道路を使えば大阪市内まで車で約30分。さらに南には大阪国際空港(伊丹空港)があり、国内外への移動にも便利です。
そんなここ池田市は、1939年に大阪の6番目の都市として誕生しました。戦後には五月丘をはじめ住宅団地の建設などが行われ、高度経済成長に伴い人口が増加。1975年には10万人を超える町に! 現在は、約10万2,700人が暮らしています。(平成28年5月現在/参考:池田市HP)

昔の池田はこんな場所でした

池田市の歴史は古く、室町時代〜戦国時代にかけては摂津の富豪池田氏によって、池田城が築かれたそう。現在は居城跡地を公園として整備し、池田城跡公園として親しまれています。江戸時代には京都と九州を結ぶ西国街道や、大阪と箕面を結ぶ能勢街道などによって交通の要として、また商業の町として発展してきました。

西側にある猪名川に架かる呉服橋

現在も隣の兵庫県と大阪府を結ぶ橋として重要な役割を果たしている

そして江戸時代中頃には酒造業が盛んに。最盛期は約40軒もの酒造が軒を連ねたと言われており、現在は呉春酒造と吉田酒造の2つの酒蔵が残っています。2つの酒蔵付近は古い家屋が残り、中には文化財に登録されているものも。池田の昔が垣間見えるこのエリア、町歩きのときにはぜひ通ってみてほしい一角です。

近くには他にも古い建物の姿。「インテリアカワムラ」は、もともと旧加島銀行池田支店として建築された国の有形文化財なのです。現在、インテリア用品店として活用されていますが、外観はもちろん内観も昔のまま。床のタイルや入り口の様子、奥に残る大金庫など当時の様子を今もうかがうことができます。

文化の町としての池田市

酒造の町・商業の町として紹介した池田市ですが、実は以前から文化面でも、多様な顔をあわせ持つ地でした。
「池田の猪買い」や「池田の牛ほめ」という噺に登場する池田は、上方落語になじみのある町として「落語みゅーじあむ」を開設。上方落語の資料などが所蔵されています。他にも、明治時代に池田にあった芝居小屋・呉服座の、一部建築様式を再現し建てられた「池田呉服座」など、池田駅から徒歩20分圏内に文化的施設が点在しています。

月に一度はプロによる落語会が開かれ、100名程度の観客が集まることも

もともとは、猪名川の堤に沿って建てられた芝居小屋。現在は大衆演劇場として、以前池田中央シネマがあった場所へ再建されている

他にも、ここ池田市にてインスタントラーメンが発明されたことから、「インスタントラーメン発明記念館」や、阪急東宝グループの創業者小林一三の所蔵品を集めた「逸翁美術館」、演劇や映画、歌劇の資料などをはじめ約24万冊を所蔵する「池田文庫」などが存在します。

町中でよく見かける「呉服」の文字とは?

町を歩くと、よく見かける言葉があります。それは「呉服」という言葉。実は池田では、この漢字を「ごふく」と読まず「くれは」と読みます。いたるところに現れるこの文字、いったいなぜこんなに多いのでしょうか?

その答えは、池田を代表する呉服神社と伊居太神社にありました。時を遡り応神天皇の時代、中国から呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)という姉妹が訪れ、ここ池田の地に住み機織・栽縫の技術を伝えたとされているのだとか。そのためここは呉服の里という名がつき、絹布類を指す「呉服」の文字が多いそう。二人が亡くなったあと、呉服は呉服神社に、穴織は伊居太神社に祀られています。

五月山公園のすぐそばに位置する伊居太神社。木々に覆われた参道は神秘的

呉服神社では現在も、多くの服飾関係者が参拝に訪れるそう

自然溢れる景色とともに、歴史や文化が広がる池田市。決して大きな町とはいえずとも、多くの魅力が詰め込まれた奥深い場所。最近は古い物件を改装したお店やギャラリーなどが生まれ、新たな魅力が加わりつつある町へと変化しています。そんな池田で暮らしてみると、このエリアならではの個性に富んだ日々に出会えるかもしれません。