みんなの外あそび | No.150
抑圧からの解放

ヨコシマなハイカー

櫻井卓/ライター

ライターという職業柄、いろんなところに旅へ行く。
グランドキャニオンの底まで歩いてみたり、エベレストのベースキャンプを冷やかしに行ったり、ニュージーランドでカヤックを漕いだり、ヨセミテのロングトレイルをちょっとだけ味見してみたり、ユタ州の砂漠に撮影のために1週間出勤(ほんとそんなかんじだったのだ)したり。
みんな、それを聞くとスゴイと言う。
でも実は僕の旅は、スゴイっぽいだけで、ぜんぜんスゴクないのだ。
誰でもできるし、行ける。
大抵の記事もそれを主眼に置いて書いているし、場所選びもそれを重要視する。
まあテントを担いでウィルダネス(手付かずの自然)にハイキングに行ったりもするけれど、それにしたって日本の登山よりもイージーだ。

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自慢じゃないけど、英語なんて赤ちゃんレベルだ。だから海外ではクレジットカードを使える赤ちゃんになる。もちろん喋れないと困ることも結構あるけど、そんなに大したことじゃない。
実はそれが引き起こすちょっとしたトラブルが楽しかったりする。
例えばコーラを頼んだのにオレンジジュースがでてきたことがあった。俺の英語どんだけ伝わってないんだよと苦笑。
エベレスト街道ではお互いが喋れないから身振り手振りを交えながら、単語のラップで現地の人と意思疎通。
さすがにもはや慣れたかと思いきや、先日行ったヨセミテ付近のモーテルで、レシートをくれと言ったら、そのレシートの発音がどうしても通じない。最終的にはiPhoneに喋らせる始末。
これはこれで個人的には笑い話になるから嫌いじゃないけど、多分、街中にずっといるようなスタイルの旅だったら、しんどいとは思う。

だから僕は、イソイソとバックパックにテントその他の生活道具をまとめて、ウィルダネスに向かうことにする。
自然相手なら言葉はいらない。歩いて、見て、休んで、食事をして、寝て、聴いて、歩く。
絶景という、あまり好きじゃない言葉を使ってでも褒めたくなるような、素晴らしい眺望の数々。
歩く、という単純な行為を繰り返すことによって、あまり頭で物を考えなくなる。
いろんなことに対して「ま、いっか」となるその感覚は都会で暮らす僕のような人間にとっては、日々溜まっていくヨコシマなものを放出する作用もある。

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不便さはもちろんある。そこにはシャワーもないし、トイレもない。宿泊地も自分で決めるし、軽量化のため食事もひどく簡素なものになる。当たり前だけど体は疲れるし、時にはナニかにあたって悶絶することもある。
要するに抑圧されるわけだ。
これがクセになる。
別にマゾじゃない。正確に言えば抑圧のあとにくる解放がタマらないのだ。
例えば1週間浴びなかった後のシャワーの「もう、どうにでもして!」というほどの爽快感。
フリーズドライばかり食べていた後の、ステーキの肉汁の芳醇さ。
硬い地面に寝続けた後の、フカフカのベッドに埋まり込んで行くような快感。

こればっかりはやってみてもらわないとわかってもらえないと思う。逆に経験者なら「わかるー!」と強く同意してくれるはずだ。まったく原稿化できる気がしない特別感なのだ。

街の遊びも好きだし「森の生活」のソローのような意味では自然を愛していない。
文明という地盤があって、当たり前になりがちなその便利さを思いだすための手段。日々の縛りから(たぶん他の人より少ないけど僕は敏感なのだ)一時的に逃避する手段。
僕にとって海外のアウトドア旅はそういう行為だ。

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今年の冬はテキサスの砂漠を歩こうと思う。
砂漠といったら不便さの極致でしょう。抑圧の度数はどうなっちゃうの!?
もはや、"抑圧からの解放"中毒になりかけている気もするけど、ま、いっか。

さくらいたかし| 1977年熊本県生まれ、TRANSIT、Coyote、BE-PALなどで執筆するライター。30過ぎから旅に目覚め、ヨセミテ、セコイア、グランドキャニオン、レッドウッド、デナリなど、アメリカの様々な国立公園を巡る。ロードトリップとハイキングやキャンプを組み合わせるのが好みのスタイル。体力は人並み、英語は人並み以下。人並み以上なのは仕事をサボるスキルだけ。

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