MUJIキャラバン

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Found MUJI 信州 夏 〜森へ行こう〜

2013年08月14日

今回の舞台は、「神の降り立つ地(神降地)」とも称される、
日本屈指の山岳景勝地である上高地。

長野県松本市の無印良品松本パルコ店で行われている、
ワークショップに参加してきました。

その名も「Found MUJI 信州 夏 〜森へ行こう〜」という企画。

無印良品松本パルコ店では、今春から
「食」をテーマに春・夏・秋・冬と季節ごとのワークショップを開催し、
信州の文化やものづくりを見つめる活動をはじめていて、
去る7月27日(土)に夏の企画が実施されました。

※「Found MUJI 信州 春」のレポートはこちら

朝、参加者の皆さんが松本市内に集合し、バスに乗って上高地へと向かいます。

日本の貴重な"風景の財産"として、国内でも希有の、
特別名勝・特別天然記念物の2つの称号をもつ上高地では、
環境保護のためにマイカー規制がされており、
途中で専用のマイクロタクシーに乗り換えです。

しかし、ここで早速ハプニング。
いきなりの大雨…。

「女心と同じで、山の天気は変わりやすいですから(笑)」
なんてスタッフが冗談を飛ばしながら、
上高地バスターミナルに到着すると、見事に雨は止んでいました。

さぁ、いよいよ大人のピクニックへと出発です!

雨が上がったばかりの森はとても生き生きとしていて、
なんだか緑に吸い込まれそうな感覚に陥ります。

木漏れ日や霧が私たちを包み込み、
上高地への来訪を歓迎してくれているよう。

ワークショップへの参加者は約半数が県内からでしたが、
地元の方でも上高地は初めて、という人も多くいました。

参加の動機を伺ってみると、

「"森へ行こう"というフレーズを見て、そういえば前回森に行ったのは
いつだったっけと思って…」

「地元なのに上高地へ行ったことがなかったので、
地元を知るいい機会かなぁと思いました」

という声が聞こえてきました。

"灯台もと暗し"ということわざがある通り、
私たちの身の回りには、近いからこそ気付いていなかったり、
そもそも知らなかったりすることがたくさんあるものですよね。

森の中を歩くだけでも、単純に「気持ちがいい」と感じましたが、
今回は、森のプロである山岳ガイドさんにご案内いただき、
"視る、聴く、触る、嗅ぐ"といった
体全体を使って森を感じることができました。

なかでも好評だったのが、音を表現する"サウンドスケッチ"という遊び。

「花や植物の名前を伝えるのもいいんですが、
頭で覚えたものはすぐに忘れてしまうと思うんですよね。
今から目をつぶって音を聴いてみてください」

そうガイドさんにいわれて耳を澄ましてみると、
それまで聞き逃していた、風の音、鳥の声、土を踏む音などが
不思議なほど、鮮明に耳に入ってくるのです。

「音を描くって初めてやりましたが、こんなに楽しいんですね!」

「サウンドスケッチをやる前とやった後だと、
明らかに五感の使い方が変わりました」

よくクリエーターやアーティストがアイデアを練る際に、
土に触れたり、自然の中に身を置いたりするといい、
ということを聞きますが、まさにそれを実感しました。

森の中で、紙とペンさえあれば、
いや、もしかすると自然と触れ合うだけで、
誰もがクリエーターになり得るのかもしれません。

そして、忘れてはならないのが、五感のひとつである"味覚"です。

途中の休憩スポットで配られた手作りブラウニーは、
それまでの疲れが一気に吹き飛ぶおいしさ♪
じわりと広がる甘さが体を癒やしてくれました。

この頃には、朝の大雨がウソのように青空が広がっていました。

およそ2時間半のトレッキングを終え、最終地点の徳澤ロッヂに到着すると、
そこには「楡(ニレ)の木料理店」と彫られたひとつの看板が。

続いて、蝶ネクタイと白シャツの似合うウェイターさんたちが
笑顔で出迎えてくれました。

「いらっしゃいませ」

そう、ここは楡の木々に囲まれた、この日限りの森のレストランだったのです。

このワークショップのオーガナイザーである、木工作家の三谷龍二さんと、
「楡の木料理店」の料理長、坂田阿希子さんからご挨拶。

その後は、巨峰のサングリアで乾杯です!

「実は私、このお料理が目当てだったんです」

「私も!ご褒美がないと山歩きもなかなかね(笑)」

そんな会話のなか、運ばれてきたのは、
旬の地野菜を使ったスープやサラダにテリーヌ、デザートまで。

野菜のビビッドな色がとても映え、軽いのに温かみのある木の器は、
三谷さんや、地元の作家さんが作ったものでした。

素材の味が生かされた絶品料理の数々は、筆舌に尽くし難いものでしたが、
あの食事の時間が、かけがえのないものだったのは、
その場所が2時間半自分たちの足を使ってたどり着いた、
大自然の中だったからかもしれません。

雲の流れや雨足に不安を抱きながら、
上高地という自然を舞台に行われた、今回の「Found MUJI 信州 夏」。

雨も、風も、木も、葉も、そして私たち人間も、
自然の中で生きている。

そんなことを感じたワークショップでした。

次に上高地へ出掛けたとしても、
そこにあるはずの森のレストランは存在しない。

ひょっとすると私たちは幻の時間を満喫していたのでしょうか…。

※なお、ワークショップの様子は、
下記より、YouTubeの動画をご覧いただくことができます。
また、無印良品松本パルコ店では、同動画とともに、
当日使用したFound MUJIアイテムの展示と一部販売が行われています。

無印良品のすべてがそこに!

2013年04月23日

無印良品の世界最大店舗「無印良品 有楽町」へ行ってきました!

3階建ての店内はとても広々としていて、
ほぼすべての商品が取りそろえられています。
他のお店ではあまり見かけなかったモノもたくさん♪
なんと、店内に"無印良品の家"までありました!

店内をぐるぐる見て回るだけでも、1日過ごせそうです。

そんな有楽町店の人気商品を店長に尋ねてみると…
しばらく考えてからこんな答えが返ってきました。

「平日はビジネスパーソンが中心。法人のお客様もいらっしゃいます。
一方、休日はガラッと客層が変わって、ほとんどがファミリー層。
外国人観光客にも来ていただいており、
場所柄、様々なお客様にご利用いただくので、人気商品も幅が広いですね」

他店舗では、女性服が男性服よりも人気が高いそうですが、
有楽町店では、ビジネスマンのお客様がスーツを買いに来られることも多いそう。

また、男女ともにビジネスパーソンに人気が高いのが、
限定店舗で展開している「MUJI Labo」。

無印良品の定番ラインの服よりも、少しデザインに遊びを持たせたもので、
素材や仕立てにも、よりこだわっているそうです。

綿には、農薬を使わない土地でできたオーガニックコットンを使用し、
トップスのファスナーと、すべてのボタンには、
回収されたペットボトルから作ったリサイクルポリエステルを使用していました。

続いて、ご家族連れに人気なのが、子供服や家具。

お子様用の「こども広場」には、
国内杉で作られた"スギコダマ"と呼ばれる木のイスもあり、
お子様が遊んで待っていられるようになっています。

さらに、外国人観光客にも大人気のこんなサービスも!

無印良品のシンプルな文具に自由に押せるスタンプです☆
日本を象徴するこけしや富士山などもあり、みんな夢中になって押していました。
やってみると、確かに楽しくてついつい押し過ぎて、
センスのなさ丸出しになってしまいましたが…。

商品では展開しきれない無印良品の考え方を伝える、
情報発信スペース「ATELIER MUJI」では、
"人と生活とモノ"を見つめる企画展を随時、実施。

訪れたタイミングには雑誌『POPEYE』とのコラボで、
自分の手で紡ぎだす「Handcrafted Life 手を動かそうよ展」が開催されていました。
※「Handcrafted Life 手を動かそうよ展」は4月21日(日)までで終了しています

有楽町店へ訪れると、あれも、これも、それまで!と、
改めて無印良品の商品展開の広さを実感します。

そう思いながらお店を後にしたら、
日比谷公園近くで自転車に乗った外国人観光客を見かけました。
よくよく見てみると…

その自転車には「無印良品 有楽町」と書いてあるではないですか!
有楽町店では、レンタサイクルも可能なんですね!!
東京観光にとっても便利ですね♪

Found MUJI 青山

このキャラバンをスタートさせた「Found MUJI 青山」へ、
約1年ぶりに来訪。

Found MUJIとは、永く、すたれることなく活かされてきた日用品を、
世界中から探し出し、それを生活や文化、習慣の変化にあわせて少しだけ改良し、
適正な価格で再生して販売する取り組みのこと。

その活動の起点がこの青山店であり、
Found MUJIの商品すべてを結集した場所でもあります。

私たちもこのキャラバンで、いくつかFound MUJIの産地も巡らせてもらい、
改めてこの場で商品を見ると、我が子を見るようなうれしい気持ちになりました。

どれも逸品ばかりですが、Found MUJI 青山での人気商品を聞くと、
「これなんです」と教えてくださったのは、
昔ながらの"お道具箱"を彷彿とさせるボックスでした。

「これはもともと、フランスで公文書を保管するための箱で、
一つひとつ、手作りなんですよ。
工場の創業者の名前にちなんで『コシャーさんの箱』と呼ばれているんです」

と店長が説明してくださいました。
なんでも一般向けに販売されているのは日本が初めてとか!

店長の個人的なお気に入りはこちらだそう。

「これは、ドイツのベジタブルブラシなんです。
ドイツにはマイスター制度があるので、一般的にハンドメイド品は高いんですが、
これらはハンディキャップのある方たちの作業所で作られているので、
価格もお求めやすいんですよ」

一つひとつの商品の裏にあるストーリーを丁寧に説明してくださり、
どれも欲しくなってしまいました。

また、最後にこんな興味深いお話も。

「このお店に携わるようになって、私自身の"Found"にもなりました。
福岡県の日田市にある祖父母の家には、小鹿焼の器があって。
昔は何とも思っていなかったんですが、
先日祖父母の家に遊びに行った時に、いろいろと話を聞いてみました。
そうしたら、私の家系にも職人さんがいたことが分かったんです」

私たちが普段なにげなく使っている日用品にも、
必ずそのモノが作られるようになった背景があり、
そして、そのモノを手掛けた作り手の想いが詰まっています。

今日、その手で持ったモノがいつ・どこで・誰によって作られたものなのか。
想像してみるだけで、違った世界が見えてくるかもしれません。

スローライフを追求する

2013年04月22日

今ではすっかり定着した「スローライフ」という言葉。

この言葉の根底にあるのは、1989年にイタリアで始まったスローフード運動だそう。
大量生産・効率優先のファストフードに対して、
「地元の食材や文化を大事にしよう…」と唱えられました。

そして、その考え方をくらし全般に取り入れたのがスローライフです。

日本でスローライフという言葉が使われるようになったのは
2001年前後からといわれていますが、
同年、スローライフを追求するための場所として誕生した、
1軒のカフェがありました。

府中市で生まれ、現在は国分寺駅から徒歩5分の場所にある、
「カフェスロー」へ。

平日の開店前からお店の前には人だかりがあり、
開店後、店内にはお子様連れの方たちをはじめ、すぐに満席になりました。

「スローとは遅さという時間の概念だけではなく、
自然や人・地域とのつながりを取り戻すという意味です。
カフェはいわば手段で、ここからどれだけ情報を発信できるかでしょう」

と、カフェスロー代表の吉岡淳(あつし)さんは話します。

吉岡さんは日本ユネスコ協会連盟元事務局長であり、
世界平和の促進と教育・環境・文化の国際協力を進めるユネスコNGOで
30年間働いてきました。

「NGOの活動は、資金の確保が最大の業務で持続可能ではなかった。
もともと私はファストな人間で、日々朝から晩までハードに働き、
ふと自分の生活を見た時に、仕事とくらしがつながってないなと思ったんです」

そんな折、吉岡さんに転機が訪れます。
当時、住んでいた府中市の市長選出馬へのオファーでした。

悩んだ末に、ユネスコの仕事を辞めて出馬した吉岡さんでしたが、あえなく落選。

吉岡さんはそこで、「どんなに立派な言葉や公約を並べても、
候補者自身の存在が有権者に信頼感や安心感を与えられなければ票につながらない。
地に足の着かない言葉は人の心に響かない」
ということを学んだといいます。

久しぶりに自由に過ごせる時間を持った吉岡さんは、
これまで出掛けたことのなかった地域へと旅に出ました。
そこで出会ったのが、自分たちも地球に負担をかけない生活を営んでいる、
カリフォルニアの環境運動家の若者たちでした。

「言っていることと、やっていることを一致させてこそ本物だ」

そう感じた吉岡さんは、地域の中でカフェを開き、
そこを拠点に活動していくことを決め、カフェスローをオープンさせました。

"安心安全で安らげる場所であり、情報が得られる場所"
を目指して作られたカフェスローでは、
関東近郊で採れ放射線検査をパスした、
安全で新鮮な食材を使った手作り料理を提供したり、

生産者の暮らし方が分かり、
フェアトレードという物語のある生活雑貨や食品などを販売したりしています。

また、毎週金曜日の夜には、店内の電気を消して
蜜蝋ろうそくの灯りで営業する「暗闇カフェ」を実施。

他にも、食材の生産者のトークライブを開催したり、
様々なイベントを行っています。

「世の中、2割以上の人が意思すれば世界は変わる。
世の中には情報があふれているけど、人々が本当に欲しい情報は探さないとない」
と吉岡さん。

カフェスローでは、上記の他に、お客様に情報を届ける
こんな工夫を見ることができました。

「知ることからはじめよう」と書かれた、閲覧本のコーナーや、

「つづくたねの野菜メニュー」と題した、
全国の在来種を使ったプレートを提供された際には、
"種"について知ることのできるペーパーが添えられていました。

さらに、カフェスローでは、
お金を稼がないと何もできない生活に疑問を呈し、
人と人の信頼を活かせる「地域通貨」の導入も行っています。

「オープンしてから13年。ようやく周りに認知されてきたところです。
多店舗展開ではなく、"続けること"が大事。
ここがつぶれたら『スロームーブメントはそんなものか』
といわれてしまいますから。
Small is beautiful.奇をてらうことをやるよりも、
人々が求めているものの半歩先を行くことを大切にしたいですね」

最後に印象的だったのが、吉岡さんのこの言葉です。

「今の時代どこに住んでいても安心安全なわけではない。
場所によって右往左往するのではなく、
今いる場所で自分のくらしを見つめ直すことが、スローライフの第一歩」

4月に新生活をスタートさせた人も多いなか、
今一度、自分のくらしについて立ち止まって考えてみてはどうでしょうか?

東京の山をキレイに

2013年04月18日

これまで何度か林業に携わる方のお話を伺ってきましたが、
「東京で林業に携わる若手チームがいる」
そんな噂を各地で耳にしました。

東京の最西端、西多摩郡檜原村(ひのはらむら)は約9割が山という環境で、
そこで活動する「東京チェンソーズ」は平均年齢36歳というから、
いろんな意味で驚かされました。

6人のメンバーは皆、父親が林業をやっていて仕方なく…
というのではなく、自ら志願して林業の世界に入った人たちです。

代表の青木亮輔さんは、高校時代からキャンプをしたり、
自転車旅をしたりするアウトドア派で、
「探検部」のある大学に入り、日々、誰も行ったことのない場所へ行き調査する、
というワイルドな学生生活を送っていたそう。

卒業後、青木さんは電話営業の仕事に就いたものの、
やはり体を動かす仕事をしたいと退職。

「将来ずっと続けていくには、林業はいいかもしれない」
そう思って、大学で学んでいた林業の世界へ飛び込んだといいます。

東京都森林組合の緊急雇用に応募し、そのまま職員となった青木さんですが、
「自分たちの働く環境をもっとよくしたい」と、
同じ組合にいた仲間たちと、2006年に独立。

「林業は天候に左右される仕事なので、これまで日給月給制でしたが、
それを月給制でできないかチャレンジしてみようと思いました。
『林業は不景気だから仕方ない…』
と上司はよく言っていましたが、それでは何も変わらない」

青木さんたちは、森林組合の下請けの仕事からスタートし、
続いて、公共事業の入札にも参加するように。
しかし、入札制に対して、青木さんは次のように語ります。

「林業は作業単価が昔から低いんです。
農業・林業は食べるためになくてはならないけど、
林業は今なくなっても誰も困らない…。
入札制で価格競争になると、手入れがおろそかになりかねない。
本来は地域の作業員が自分たちで手入れをする方がいいんです」

最近は、他地域の事業者が檜原村の作業をするようにもなり、
林業が地域密着とはいえなくなってきたといいます。

「地域の人に理解してもらおう! 地域に根差した企業にならないと!」
と、コツコツ信頼を積み重ねてきた東京チェンソーズは、
今では山主から直接仕事をもらえるようになりました。

「林業って銀行のような仕事。山(=お金)を預かっているのと同じですから。
責任は大きいけど、今後も直接仕事をもらえるようにしていきたい」
と青木さん。

そして、そのために、まずは自分たちの存在を知ってもらいたい
とFacebookやTwitterを通じて積極的に情報発信をしています。

元ライターで、東京チェンソーズの広報も担当する木田正人さんは、
「東京チェンソーズをキッカケに東京の山について知ってほしい」
と話します。

東京チェンソーズでは、日々の活動内容の発信はもちろん、

「チェンソーボーイズコレクション」と題して、
作業姿の写真をメンバーが個人的に公開したり、
一般の人が林業に親しみを持てるようにしています。

また、普段なにげなく見ているだけの木に触れ、登ることによって、
よりいっそう木を身近に感じてもらおうと、
"ツリークライミング体験会"も開催。

これまで"育林"を中心に行ってきた東京チェンソーズですが、
今後は間伐材を利用していくフェーズに。

「昔は日本の木が育っていなかったために、外材を使っていましたが、
国産材が育った今はそれを使う方がいい。
木も他の農産物と同様、輸送費が少なく、その地域に合った木が育っているから
本来"地産地消"がいいんです。
東京の木を使えば東京の山がキレイになりますからね」
と青木さん。

私たちの身の回りには木材製品がたくさんありますが、
それがどこで育った木なのか、誰が手入れをして切り出した木なのか、
そうしたことを考えてみることが、林業を知る初めの一歩かもしれません。

FabLab(ファブラボ)

2013年04月16日

何でもお金で買う時代から、自分で作る時代へ。

そんな"セルフビルド"を提唱する動きが、
岡山のニシアワーの取り組みや、滋賀のどっぽ村などをはじめとして、
全国各地で始まっていました。

特に3.11以降、生きていくための力を身に付けることの大切さが見直され、
その動きが加速しているように感じます。

そうは言っても、ものづくりは
小学校の"図工"の授業以来やってないし、工具も持ってない。
私も含め、そんな方も多いのではないでしょうか?

そんな人たちにうってつけの場づくりが、
首都圏を皮切りに始まっていました。

「FabLab(ファブラボ)」

"個人による自由なものづくりの可能性を広げるための実験工房"のことで、
2002年にボストンのマサチューセッツ工科大学で始まりました。

日本では11年に鎌倉とつくばで同時スタートし、
昨年3番目の国内拠点が渋谷にオープン。

都心型の実験工房とは一体どんな場所なのか…?
FabLab渋谷を覗きに行ってきました!

中に入るとそこには、3Dプリンターやレーザーカッター、

刺繍ミシンなど、様々な工作機械が。

「これまで、こうした工作機械は"作る人"の元にあるものでした。
FabLabではこうした機械の利用機会をオープンに提供することで、
子供から専門家まで"使う人"が自由にものづくりできる環境を創出しているんです」

FabLab渋谷の代表、梅澤さんは、この場の意義をそう語ります。

現に、ちょうど私たちが訪れたタイミングには、
春休み中の子供たちが3Dプリンターでおもちゃを制作中でした。

3Dプリンターと聞くと、聞こえは難しいですが、
3Dプリントのためのデータサンプルはインターネット上で共有されているようで、
それをプリンターに指示するだけというシンプルな操作!

試しに3Dプリンターで作ってみたというハートを、
5歳の女の子が嬉しそうに見せてくれました。

おもちゃも制作工程から見たら、愛着が湧きますよね☆

こんな子供たちに刺激を受け、私たちも何か作ってみようと、
レーザーカッターを使ったオリジナルノート制作に挑んでみました!

といっても、梅澤さんに多くをサポートいただきながらですが…。

ノートをセットし、「MUJIキャラバン」のロゴデータを
PCに読み込んで、レーザーカッターに送信。

すると、小さな閃光を放ちながら、2分と経たないうちに、
ノート表紙にMUJIキャラバンのロゴをカットしてくれました!

カット部分をくりぬけば、無印良品のシンプルなノート(写真右)が、
MUJIキャラバンのオリジナルノート(写真左)に様変わり!

ちょっと手を加えるだけで、
オリジナルの1点ものが生まれるなんて嬉しいですね!

他にも、FabLab渋谷ではスマートフォンカバーから、
オリジナルのコースターまで、様々なものが作られていました。

「FabLabは自発力を形成する場。頭の中のものをできるだけ形にしてもらいたい。
そのためのサポートはします」

と、梅澤さんは語ります。

今や世界200カ所に広がるFabLab。
驚いたのは、その運営はそれぞれ独立しており、
理念と一定のガイドライン(FabLab憲章)を守れば、
どこでもFabLabを始めることができること。

アメリカでは国策で今後3年以内に
1000の小学校にFabLabを導入される予定だそうです。

こうした次世代のものづくりのインフラが各地に広がっていけば、
一人ひとりがクリエーターになりえますね。

そのために、まずはちょっとした身の回り品から、
試しに自分で作ってみるのもよいかもしれません。

トランジション・タウン藤野

2013年04月12日

「日本全国の良いくらしを探す旅」と銘打って、
旅して回ったこのキャラバン。

これまでも各地の良いくらし、良い取り組みについて取り上げてまいりましたが、
すべてに共通していえることが、
人々が地域の抱える課題に前向きに取り組んでいることでした。

その課題解決というのは、街の活性化だったり、森林の維持管理だったりと、
地域によってそれぞれなのですが、一言で表すならば"持続可能性"の追求。

それを、個人ではなく、地域のコミュニティで
取り組まれているケースが多かったことが印象的でした。

都心や私が生まれ育ったような都心郊外では、
なかなかそうした地域活動は多くないのだろうなと想定していたら、
故郷の神奈川県に、それを複合的に実践している町がありました。

神奈川県北西部、東京・山梨との県境に位置する、
旧藤野町(現相模原市緑区)。

豊かな自然に囲まれた町は、
今から26年ほど前に「ふるさと芸術村構想」を掲げて推進し、
アーティストたちが住む「芸術の町」としても知られています。

今も町中では、随所にアートの片鱗を見ることができました。

こうした芸術への取り組みと、
新宿から電車で約70分という至近にこれほどの自然が残っている環境は、
アーティストにとどまらず、ナチュラル志向の人たちにも伝わりました。

NPO法人パーマカルチャーセンタージャパン、
学校法人シュタイナー学園の受け入れも相まって、
1万人程の人口のうち、約半数が移住者で占めるような町へ。

「藤野は神奈川県の水源地として、その環境を守るように努めてきたので、
これまで企業や工場の誘致などができなかったんです。
結果的には、それが今の藤野を作り上げていると思います」

そう話すのは、NPO法人トランジション・ジャパンの共同代表、
小山宮佳江(みかえ)さん。

小山さんは、複数世帯で"共有する暮らし"を営む「里山長屋」に構想段階から参加し、
2008年に藤野へ移住されました。(現在は別に住居を構えられています)

現在、4世帯が住む里山長屋は、世帯ごとに独立しているものの、
キッチン、お風呂、ゲストルームのある共有スペースを有し、
打ち合わせやワークショップなど、コミュニケーションの場として機能しています。

軒先ではそれぞれが家庭菜園を営むというプライベート性は保ちつつ、
長屋内で楽しみ、助け合いながらのシェアするくらしを送る。
まるで今の藤野を象徴したような場所でした。

小山さんたちが取り組むトランジション・タウンとは、
限られた化石燃料を湯水のように使うくらしから、
自然との共生を前提とした身の丈にあった持続可能なくらしに、
移行していくための草の根運動のこと。

2005年にイギリスに端を発した運動で、
3年足らずでイギリス全土、欧米諸国をはじめ、世界中に広がり、
日本では2008年にここ藤野と葉山、小金井の3つの町から始まりました。

以前、取り上げた「エコ・ビレッジ」と方向性は近しいですが、
新しくそうしたコミュニティを作り上げるエコ・ビレッジに対し、トランジション・タウンは
元々あるそれぞれの地域の資源を活用することを目指すという点で異なります。

現在では、全国の40を超える市区町村で、
トランジション・タウンの運動が始まっています。

「トランジション・タウンはよく"TT"とも略されるのですが、
私たちはそれを、"楽しく つながる"と呼んでいるんですよ」

小山さんがそう話す背景には、
「よろづ屋」という地域通貨の仕組みがありました。

"自分のできるコト"と"自分のしてもらいたいコト"をあらかじめシェアし、
住民同士が助け合っていく仕組みです。
それも紙幣を発行することなく、通帳に貸し借りを記載していく形式。

内容は畑仕事を手伝ってほしい、駅まで送ってほしいなど、
日常の些細なことから、専門的なことに至るまで様々です。

これによりご近所さんが何を必要とし、何が得意なのかが分かるようになり、
地域内のつながりが生まれていっているといいます。

こうしたゆるやかなつながりは、
住民主体の様々なワーキンググループを生み出しました。

地産の農業から食を考える「お百姓クラブ」、
藤野の森を整備し、材を活かす方法を模索する「森部」など…。

一般に農業や林業に携わる人たちの仕事、と片付けられそうな問題に対し、
住民たちが自ら立ち上がり、取り組み始めているのです。

なかでも近年、注目されているのが「藤野電力」。

3.11以降、原子力や化石燃料に頼らない代替エネルギーの必要性が叫ばれていますが、
藤野ではそれを自らの手によって生み出そうとしていました。

「もともとアウトドアが好きで、キャンピングカーの
すぐに上がってしまうバッテリー対策で、
自ら発電システムを構築したのがきっかけでした。
おかげで3.11の電力不足の際、僕の家だけは生活に支障をきたさなかった。
であれば、周りにも広げていこうと思ったんです」

メンバーの鈴木俊太郎さんは、藤野電力の立ち上げ経緯をそう語ります。

現在では、それに呼応した小田嶋哲也さん(藤野電力代表)を中心に、
再生可能エネルギー発電システムの導入に精を出します。

ちょうどお邪魔した日にも、藤野のアートの拠点「アートビレッジ」に、
太陽光パネルを用いたEVステーションを設置中でした。

ここでは、電気自転車や電気スクーター、
携帯電話などの充電ステーションとしての役割を担う予定。

今後、こうしたEVステーションを町中に増やし、
藤野に遊びに来る人へ充電式の乗り物を交通手段として提供する計画や、
災害時の緊急エネルギー拠点とする考えがあるといいます。

現在では全国各地から引き合いがあり、
ソーラーパネル組み立てをワークショップ形式で作ったり、
再生可能エネルギーの普及に取り組まれています。

「何よりも設置作業が楽しい。この過程をともにすることが大切なんです」

肩ひじ張らない藤野電力メンバーの言葉が、胸に響きます。

「この町は起業家は少ないかもしれないが、人のこころは豊かで、
贅沢なモノはないかもしれないが、素朴な藤野が大好きな人はいっぱいいる。
町の宿命をよく理解した町づくりによって、それに呼応する人が集まってきている。
そして、それを受け入れる住民のオープンな気質が良かったのでしょう」

もともと藤野町の役場で町づくりを推進してきた中村賢一さんは、
今の町の成り立ちについて、そう語ります。

何よりも驚かされたのが、
住民がアーティストや、一部のエコ意識の高い人たちのみならず、
都心の企業勤めの人たちも多いこと。

ひとつには都心からの地の利の良さもありながらも、
街中にただようオープンな空気がそれを作り出しているように感じました。

"楽しく、つながる"、トランジション・タウン藤野。

ここには、地域の新しいコミュニティづくりのひとつの形がありました。

※4月より「藤野トランジションの学校」として、
藤野の様々な活動を学べるワークショップの開催を予定しているようです。
ご興味ある方はぜひ、HP「トランジション藤野」をご覧ください。

濱の八百屋

2013年04月08日

横浜市神奈川区の住宅街に一軒の八百屋さんがありました。

「濱の八百屋」というそのお店に並ぶのは、横浜市内で作られた野菜です。

「鎌倉野菜や三浦野菜は認知されているのに、
横浜で野菜が作られていることはあまり知られていないんです。
横浜野菜の存在をもっと知ってもらいたくて」

店主の三橋壮さんは、21年間のスーパーでの野菜販売業務を経て、
昨年「濱の八百屋」をオープンさせました。

知り合いの農家さんたちの苦悩話を聞いていたのと、
友人たちと2011年7月に行った、消費者と生産者をつなぐ"収穫菜"というイベントが
キッカケだったそう。

地元出身の私たちも、横浜市内で野菜が作られているという事実にまず驚きましたが、
横浜における小松菜の生産量は全国的に見ても3位以内、
カリフラワーも10位以内に入っているというから、さらにビックリしました。

ちなみに、小松菜の生産が盛んなのは、
昔から横浜の中華街で多く使われてきたからだとか。

「通常、農家さんがスーパーなどに野菜を卸すと、
消費者の手元に届くまで5~7日かかります。
直接僕らが販売できれば、1~2日の新鮮な野菜を届けることができる。
それに対面だと、野菜の説明もちゃんとできますしね」

「例えば、このしいたけ。サイズはバラバラだけど同じ種類なんですよ。
スーパーだと均一のサイズしか売られていないけど、
ここではお客様に選んで買ってもらっています」

三橋さんは、より多くの人に横浜野菜を届けたいと、
直営店での販売は週3日にし、それ以外は宅配をしたり、
横浜市内のカフェや居酒屋の前での出店もしています。

また、横浜マリノスのホームゲーム時には日産スタジアムで出店、
東京ガスライフバルのイベントでの出張出店も行っているそう。

「一度食べてもらうと、おいしいって分かってもらえて、
ほとんどが口コミで広がっていっています。
うれしかったのはマリノスの試合の時に、
『冷蔵庫を空にしてきたから』ってお客さんにいわれたことですね」

そう語る三橋さんに、お付き合いのある農家さんの所へご案内いただくと、
横浜駅から車で10分ほどの住宅街の中に、畑がありました!

横浜の農家さんの大半は、広大な農地を持つのではなく、
小規模の農地を何ヵ所かに持つため、多品種小ロットでの生産を行っているといいます。

農家の一人、田澤仁さんは普通のスーパーには並んでいない野菜も生産し、

「三橋さんに販売をお願いするようになって、消費者の声が聞けるようになりました。
それがやりがいにつながりますね」

と語ってくれました。

続いて訪ねた、伊東康範さんは、三橋さんがスーパー勤務時代から
お世話になっている農家の方。

「うちの場合、親は近所の常連さん相手に"引き売り"という手法を取ってきましたが、
僕の代になって別の売り方もしたいと思いまして。
市場には縛られずに自由にやりたい。
三橋くんとは何でも言い合える仲だから、やりやすいですよ」

三橋さんと農家さんが、本当に気心の知れている間柄というのが見て取れました。

「三橋さんが総代理店をしてくれているので、助かっています。
自分で営業してもいいんですが、私は技術屋なのでやっぱり現場にいたいんですよね」

そう話すのは、トマトときゅうりのハウス栽培を手掛ける、山本泰隆さん。

これまで市場への卸しをメインとしてきた山本さんですが、
三橋さんとのつながりを通じて、飲食店のお客様が増えたそう。

これまで市場には出せなかった完熟トマトも、
飲食店では、ソースに使ったり、ジャムにしたりと、
生食以外の使われ方がありました。
そして、食材に対する料理のプロの意見を聞けるようになったといいます。

三橋さんは、対面での販売や宅配業務、また飲食店への納め業務から、
消費者の声を拾って、それを生産者に届け、
また、逆に生産者から野菜の情報を聞いて、
それをFacebookなども活用しながら、消費者に届けています。

「本当に人とのつながりでここまで進んでこられたと思っています」

「濱の八百屋」は、取材当日も同席してくださった、
カメラマンの中村うららさんと、デザイナーの赤尾祐一郎さん、
そして奥様の好美さんとスタッフの方々によって
支えられていると三橋さんは話します。

生産者も含め、協力者みんなに共通するのは、
「横浜野菜を通して、横浜を盛り上げたい!」という想い。

その想いに賛同して、実は無印良品でも3月末にオープンした、
Cafe&Meal MUJI 横浜ベイクォーターにおいて、
「濱の八百屋」に出店してもらっています。

お近くの方はぜひ、横浜野菜を知りに出掛けてみてください♪

おとうさんのヤキイモタイム

2013年04月04日

江戸時代よりサツマイモづくりが盛んに行われてきた埼玉県川越市。
当時、江戸では"焼き芋"が流行っており、
近郊の村々では、こぞって江戸向けのサツマイモを栽培したんだそう。

川越で作るサツマイモは、質がよく最高級品とされ、
また、川越は江戸と新河岸川で結ばれているため、船での運搬が可能でした。
こうしてたくさんのサツマイモを江戸に出荷し、
"川越=サツマイモ"というイメージが定着したといいます。

そんなサツマイモの産地、埼玉県で面白い取り組みに出会いました。
その名も「おとうさんのヤキイモタイム」というプロジェクト。

これは地域のお父さんたちが主体になり、焼き芋をするというイベントで、
2005年に「NPO法人ハンズオン埼玉」と埼玉県が共同で呼びかけ、始めたものです。

発案者である、ハンズオン埼玉の西川正さんに、
始めたキッカケについて伺いました。

「埼玉は残念ながら"自分のまちが好き"といえる人が少ない地域なんです。
というのも、県民の就業者及び通学者のうち、約1/4の100万人が
東京に通勤・通学していて、地元に知り合いがつくりにくいんですよね。
特に、働き盛りで子育て中のお父さんたちは。
地域のお祭りや運動会なんか見ていても、お父さんたちは写真を撮るだけ。
あとはちょっと"いたたまれない"人も多いです」

当時、西川さん自身も東京で働いており、地元に友人がいなかったと振り返ります。

西川さんは保育所の保護者会に参加し、
そこで知り合った何人かのお父さんたちと一緒に、
近所の畑を借りて畑仕事をするように。

「秋に採れたお芋で、とりあえず焼き芋をしてみたんですよ。
そしたら、焚き火をしながら待っている時間がとてもよかった。
焼き芋は炎が揺れて、煙も出て、そして、おいしい。
五感が働きます。
食べると一瞬にして場が和むんですよね」

この体験から、西川さんは県がちょうど募集していた
「お父さんのための子育て事業」に応募し、企画が採用されます。

育児参加、地域参加をしたいけれど機会がないお父さんに、
地域でつながり子育てする楽しさを味わってもらおうと
「おとうさんのヤキイモタイム」を始めました。

西川さんは、焼き芋をすることが目的ではなく、
当日までのプロセスを含めた、まさに「ヤキイモタイム」が大切だといいます。

「やってみてよく分かったのは、企画に参加した人たちが仲良くなっていくということ。
埼玉で焼き芋のための焚き火をするのは、そこそこハードルが高いんです。
でも、まったく無理ではない。
場所の確保や近所への挨拶回りなど、準備段階でちょっと苦労していくうちに、
お父さんたち同士も、地域の人とも仲良くなっていく」

話を聞いて、"焼き芋"が埼玉で実施するのに「ちょうどいい」ということが分かりました。
東京では焚き火をできる場所がほとんどないので実現が難しく、
逆に群馬や栃木では、焚き火自体が珍しくないからだそうです。

実施1年目に32ヵ所で始まった「ヤキイモタイム」は、
2年目に50ヵ所、3年目に75ヵ所に増え、
その後は100ヵ所で行われるまでになりました。

「焼き芋はあくまでキッカケ。『ヤキイモタイムの成果は?』と聞かれたら、
たとえば、卒園式や卒業式で、
どれだけ自分の子以外の子どもの姿を見て泣けるようになること、かな。
あるお父さんが、『西川さん、大人になってからの友達っていいもんですね』
といってくださったのが、一番うれしかったです。
その町であなたを知っている人がどれだけいるか?
地域の人とかかわることで"その町に住んでよかった"と思ってもらいたいですね」

と、焼き芋姿の西川さん。

「ソーシャルキャピタル(社会・地域における人々の信頼関係や結びつき)が
しっかりできていれば、災害時も大丈夫だと思うんです。
農村や漁村は普段のくらしの中に共同作業が組み込まれていますが、
都会や郊外にはそれがつくりにくい」

西川さんは、都下の大学で教鞭をとっており、
子どもたちにとっても、大人が地域活動をした方がいいと語ります。

「今の学生は敬語を知らないんですよ。
携帯世代で、親が知らない人と電話で話している姿を見たことがない。
だからこそ、子どもが地域のいろいろな大人とかかわる必要があるんです。
"たて(親)・よこ(友人)・ななめ(地域の人)の関係"がないと、
子どもは幸せに育ちませんから」

"お父さん"と"焼き芋"をキーワードに、
地域でちょっとおもしろいをつくりだそうとする西川さん。

その場を作り上げてしまうのではなく、
ちょっとしたキッカケを作り、あとは地域の人に任せる。

それが地域活動を無理なく続けるヒントなのかもしれません。

手前みそ

2013年03月29日

海外へ行くと、いつも恋しくなる日本の味、
「味噌汁」。

私の生まれ育った関東では「米味噌」が主流でしたが、
九州では「麦味噌」、愛知界隈では「豆味噌」と、
地域によって味噌の味も様々でした。

そして、終盤に訪れた山梨県では、
これまでに味わったことのない味噌に出会います。

「甲州味噌」

米と麦を用いた、いわゆる「調合味噌」です。

「これらの地域性の違いは、"主食が何か?"で決まってきたんですよ」

甲州味噌の蔵元のひとつ、五味醤油(株)の6代目、
五味仁(ひとし)さんに、分かりやすく解説していただきました。

「大まかに米どころでは米麹、麦どころでは麦麹を味噌づくりに用いましたが、
甲府は狭い盆地で斜面が多く、稲作には適していませんでした。
ですので、米の不足分を、田畑の裏作で作った麦で補ったんでしょう」

時はさかのぼること、戦国時代。

たんぱく質と塩分が賄える味噌は、陣中の兵糧としても重宝され、
各地の戦国武将は、こぞって味噌づくりを推進したそうです。

甲斐の国を治めていた武田信玄も同様で、
冬にほったらかされていた田畑で麦を作ることを指示。

こうして世にも珍しい米麹と麦麹を用いた
甲州味噌が誕生したといわれています。

五味醤油では、今も代々引き継がれてきた製法で、
甲州味噌が造られていました。

「発酵のスピードが違うので、米麹と麦麹は別々に仕込まなくてはなりません」

そう五味さんが語るように、
米麹と麦麹はそれぞれ別々に仕込まれていました。

一般の味噌と比べ、麹の種類が多い分、手間もかかりますが、
それでも、五味さんは甲州味噌を造り続けていきたいと話します。

「甲府の人たちにとって慣れ親しんだ味ですからね」

山梨名物のほうとうも、この甲州味噌が用いられていました。

ほうとうもまた、米飯が食べられなかった甲州の庶民にとって、
収穫量の少なかった小麦を補うために、
かぼちゃをはじめとした多くの野菜を加えた郷土料理でした。

「先代から引き継がれてきた甲州味噌。ずっと造り続けていきたいんです」

そんな想いの五味さんは、甲州味噌を広く伝えていくために、
「手前味噌づくり教室」も開催していました。

そのために「手前味噌づくりキット」も開発。

さらには、なんと「手前みそのうた」まで!

「味噌 味噌 味噌 味噌 手前味噌~♪」

この曲、繰り返し聞いていると、
思わず味噌づくりをしたくなってきますよ!

YouTubeでもアップされていましたので、
よろしければお聞きください♪

YouTubeリンク「森ゆに-手前みそのうた 」

思えば、昔は各家庭で味噌が造られていたわけでして…。
私たちも帰京したら「手前味噌づくり」にチャレンジしようと思います!

山梨県の意外な県民性

山梨では、無印良品「ラザウォーク甲斐双葉」を訪ねました。

果樹王国の山梨県、さぞかしフルーツ系の食品が人気と思いきや、
スタッフさんの持っているこちらの人気商品は、なんと…、

海産物系のおつまみでした!

島国日本において、海に面していない県は山梨含め8県ですが、
山梨県民は実は、無類の海の幸好き!

マグロや貝類の消費量は、毎年上位にランクイン(総務省「家計調査」)しており、
「あわびの煮貝」なんかも名産品として数えられるほどです。

駄菓子「よっちゃんいか」で有名なよっちゃん食品工業株式会社も、
山梨県内にありました。

意外なる山梨県の県民性…。

ただ、海産物でしたら、
山梨生まれの白ワイン「甲州」にも合いますものね☆

ビタミンやまなし

2013年03月25日

「富士山、武田信玄、フルーツにワイン…
山梨には単体では有名なものが多いんですが、
これまでそれらと山梨があまり結びついてこなかったんです」

「こんなに観光資源に恵まれているんだから、ちゃんとそれを生かしていかないと!」

そう話すのは、山梨県 観光企画・ブランド推進課の
佐藤浩一(ひろかず)さんです。

山梨県では、2009年から「ビタミンやまなし」と題し、
A~Zの頭文字に合わせて山梨の観光資源をPRするキャンペーンを仕掛けています。

例えば、AはAqua(水)、

QはQuiet(静かさ)、

SはSpa(温泉)…。

「実はいずれも"美・健康・癒やし"に紐づくものなんです。
そして、これらは首都圏に住む30~40代の女性の興味とシンクロする」

今回の「ビタミンやまなし」キャンペーンは、
都会で生きる女性たちに届けたい26の栄養素(ビタミン)として、
明確なターゲットを設定し、行ったそうです。

「広く、あまねく、平等に」が基本スタンスの行政において、
ここまでターゲットを絞った戦略は珍しいです。

「これまでのPRはやっている側も、見る側も、
誰に向けてのメッセージかが分かりにくかった。
今回は、発信力・行動力・購買力の強い層に向けて"えこひいき"しました」

昨年は「女子会推進課」を県庁に設置するなど、次々と斬新な戦略を打ち出し、
全国から注目を浴びています。

「地域資源はどこにでもありますし、PRもどこもやっていますよね。
山梨が違うのは、きちんとした戦略を持っていることではないでしょうか」

順序よく、とても分かりやすく説明してくださった佐藤さんですが、
話を聞いていると、県内外の人脈がとても多いことが分かりました。
仕掛け人の佐藤さんご自身にも興味がわいて、根掘り葉掘り聞いてしまいました。

すると…

「僕は実は八百屋の息子なんですよ。
小さい頃からごはんを食べていても、お店にお客さんが来たら対応する。
目の前の人、ゲストを楽しませることが僕の基礎にあるんでしょうね」

佐藤さんはプライベートの時間を使って、
9年前から「得々クラブ」という名のコミュニティを創設。

「自分たちにとって、得になる情報を共有しよう」というコンセプトのもと、
地元の本屋さんで購入した課題図書を月1回ディスカッションする「読書会」や、
朝の時間を有効に使うための「三文会」、
公務員のための「ワンコイン学習会」など、各種勉強会を行い、
様々なインプットをしながら、
山梨県内外の異業種の方とのネットワークを築いていました。

「先月の読書テーマが『武士道』だったんですけどね。
それを読んで分かったことがあって。僕は『商人道』なんだなぁって。
人と人との関係の中で生き続けているんです」

佐藤さんが仕掛ける山梨のPR戦略は、表面的なものではなく、
人とのつながりの中から有機的に生み出されたものでした。

Koo-fu

「ビタミンやまなし」のJはJewelry(宝石)。

かつて水晶の原石が発掘され、研磨加工技術が発展していった山梨県は、
国内唯一の県立ジュエリー専門学校を有し、
国内ジュエリーの約1/3を生産する、日本一のジュエリー産地です。

現在、水晶原石は枯渇してしまいましたが、
1000社を超えるジュエリー関連業者が、今も技術に磨きをかけています。

ジュエリーの素材である宝石の研磨・彫刻から、
それを使ってジュエリーを作る貴金属加工まで、
ジュエリーを完成させるすべての工程が賄えるのは、世界的にも珍しいんだとか。

今回お話を伺った、ピアス&イヤリングメーカー、
(株)イノウエのジュエリーデザイナー大森弘子さんは、
高校の授業で彫金を体験してから、その面白さに目覚めたといいます。

「紙切れの上だけではいいものは生まれないと思うんです。
山梨は職人さんとデザイナーの距離が近い、とっても恵まれた地です」

大森さんは新作の企画を考える際には、職人さんと頻繁に相談しながら進めるそう。

そんなジュエリー産地の山梨県は、業界の更なる活性化を目指し、
2008年に産地ブランド「Koo-fu(クーフー)」を立ち上げました。

「Koo-fu」の名は"甲府(Koufu)"から来ていて、
海外に発信していく際にも分かりやすいようにとのこと。

希望するメーカーのデザイナーが参加し、同じテーマで意見を交わしながら
各メーカーがKoo-fuで開発したオリジナルの素材を使った
ジュエリーを作るプロジェクトで、(株)イノウエも参画。
大森さんはこれまで4回担当してきました。

「初めて他のメーカーのデザイナーさんと交流して勉強になりました」
と語る大森さんの作品は、
どれも洗練さの中に力強さがあふれるものばかり。

「小さい頃から、買ってもらったおもちゃで遊ぶよりも、
自然の中で創作して遊ぶのが好きでした。
身に着けるとワクワクするような、
気持ちを動かすことのできるアクセサリーを作っていきたいですね」

(株)イノウエには、デザイナーの大森さんをはじめ、
職人さんにも若手が多くいらっしゃいました。

県内の専門学校で学び、地元のジュエリー企業で働き、業界を盛り上げる。
将来の担い手が今も育っている山梨県のジュエリー業界の未来は、
キラキラと輝いているようでした。

心地良いくらし

2013年03月22日

この旅で、改めて身近にあるモノやコトの大切さを実感する日々ですが、
なかでも「食」に対する価値観は大きく変わりました。

だからといってスーパーに売られているものに文句をいうぐらいなら、
いっそ自分で作ってみようと、思うようになりました。

ただ、自分たちだけで農作物を作りながら「半農半X」的なくらしをするのもいいですが、
それを地域コミュニティで実現できれば、知識も手間も共有し合えて、なおいいのでは?

そんなふうに考えていると、実際にそんな町が全国にあることを耳にしました。
通称「エコビレッジ」と呼ばれ、自分たちで農園を営み、
電力を自給し、町単位で持続可能性を追求するコミュニティです。

そんなエコビレッジのなかでも、ゆるやかなつながりのコミュニティが、
静岡県にあると聞いて、お邪魔しましした。

静岡駅から車で15分ほどのエリアに構えられた
エコロジー団地「池田の森」。

「ゴルフ練習場」として運営していた敷地を、
10年の構想を経て、「池田の森」に再生したのが、
(有)池田の森ランドスケープ代表取締役の漆畑成光(のりひこ)さんです。

「私が生まれ育った頃は、この辺りは畑と田んぼと山がある純農村地帯で、
家にもヤギや羊が飼われていたんですよ。
この団地では、そんな里山の風景を再現したかったんです」

そう想いを語ってくれた漆畑さんが参考にしたのは、海外のエコビレッジ。

アメリカ・カリフォルニア州デイビスにあるビレッジホームズや、
ドイツのエコロジー団地を参考にしたランドスケープが描かれています。

団地内の道路は子供がのびのびと遊べるように、
蛇行させたり、行き止まりだったりとスピードが出せない仕立てに。

食べられる町づくりを目論んで、街路樹には実のなる木が植えられ、
旬の時期には地域の子供たちが収穫して届けてくれるそう。

エコの観点でも、様々な仕掛けが講じられていました。

全戸の地中には、雨水タンクが埋められ、
庭木への散水はもちろん、有事の際の貯水として役立てられています。

公園の柵には間伐材が用いられ、

街灯用の電力は、風力+太陽光発電によってまかなわれています。

団地の中心の畑には、共有のコンポスターも。

「これを設けただけで、住民は落ち葉を拾ったら、
自然とコンポスターに集めてくれるようになりました。
堆肥にして土に戻す。その循環を意識するだけでも有意義なことです」

漆畑さんがそう語るように、コンポスターで堆肥化された落ち葉は、
住民の希望者によって組織された「農園クラブ」の共同農園に還元していました。

この共同農園は、団地の希望者ごとに区画が割り振られ、
各戸で自由に農産物が育てられています。

メンバーの皆さんは工夫しながら有機栽培に取り組んでいるとのこと。

併設されている漆畑さんが管理する田んぼでは、
田植えから収穫まで、団地の住民が協力して行っています。

毎年、秋に開催する「収穫祭」と呼ばれるバーベキューでは、
収穫した野菜を食べながら親睦をはかっているそうです。

「入居者に条件を設けたわけでも、行事への参加を強制しているわけでもありません。
町づくりをする身としては、あくまでもインフラ整備のお手伝いをするだけ。
概念ではなく、体験を通じてこうしたくらしの"心地良さ"を分かってもらいたい」

実際、住んでいる方は自営業者から、企業勤めのサラリーマンまで様々な顔ぶれ。
特にエコ意識の高い人ばかりが集まったわけではなく、
野菜作りも漆畑さん含め、初心者がほとんどだったんだとか。

ただ、こうした様々な活動によって、
住民のあいだにはゆるやかなエコ意識と連帯感が生まれていっているそうです。

団地内に流れる空気に、おだやかな雰囲気を感じたのは、
住民の方々が決して無理をしていないからだと思いました。

「昔の公団住宅なんかも、こんな雰囲気だったと思うんです。
エコを意識したわけじゃなく、昔の知恵に立ち返っただけ。
内側から体質改善できる場になれればと思っています」

そう話す漆畑さんも奥さんも、実に充実した表情をしていらっしゃいました。

私たちの思う"心地良いくらし"の一つの形が
ゆるやかなエコビレッジ「池田の森」にはありました。

伊勢の伝道師

2013年03月08日

かつて「せめて一生に一度」と歌われたお伊勢参り。
私たちは今回初めてこの場所を訪れましたが、
ちょうど3連休と重なってか、ものすごい数の人が参拝しに来ていました。

伊勢神宮には、
太陽を神格化した天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る「内宮(ないくう)」と、
衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る「外宮(げくう)」の
2つの正宮があり、そこは全国にある約8万社の神社すべての
本宗(ほんそう)とされています。

私たちが内宮を訪れた日は、偶然にも建国記念の日で、
「建国記念祭」なるものが執り行われていました。

神話によると、初代天皇とされる神武天皇は
天照大御神の5代後の子孫といわれていて、
神武天皇が即位した2月11日を日本の建国された日として
祝うことになったといいます。

「お伊勢参りは、本来外宮と内宮の両参りをするのが正式な参拝方法なんですが、
昭和40年頃を境に内宮しか行かない人が増えたんです」

そう話すのは、JUING(ジューイング)合同会社 代表の山本武士さんです。

街中にある外宮と内宮は距離が離れているため、
車社会になってから内宮の片参りの人が増え、さらに、1993年に高速道路と
"おかげ横丁"(伊勢が最も賑わった江戸後期から明治初期の風情を
再現した内宮までの観光スポット)ができたことにより、
内宮の片参りに拍車がかかったそう。

「でも一番の原因は、外宮前のまちに住む人たちの意識に問題があったと思います」

伊勢市駅から外宮へとつながる参道沿いに生まれ育った山本さんは、
11年前に外宮参道発展会の会長に就任したことから、地元伊勢について学び始めます。

「伊勢神宮には『式年遷宮』といわれる20年に一度お宮を建て替えるお祭りがあって、
今年はその62回目のご遷宮の年なんですよ。
これは1300年前からずっと変わらず行われているんです」

式年遷宮は神宮最大の重儀で、社殿やご神宝類をはじめ一切を新しくすることで、
神様により若々しくいてもらうための行事なんだそう。

「コロッセオもパルテノン神殿も万里の長城もみんな今では観光地になり、
その場所の使われ方が変わってきていますが、
伊勢神宮では1300年の間遷宮をやり続け、
循環させることによって永遠が保たれてきたんです」

山本さんはこうした神宮の実態を知り、改めてそのスゴさに気付いたといい、
また外宮についてもこう続けます。

「日本人は太陽(内宮)を拝む信仰を持っている。
でも生きるためにはエネルギーが必要で、それが食(外宮)への感謝につながります。
内宮と外宮は、二つで一つなんですよ。
だから、外宮にもお参りしていただきたいんです」

外宮では「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という、
1日に2回神様に食事を出すお祭りが行なわれているそうですが、
それはすべて自給自足で行われてきたもので、
お米は伊勢市内の「神宮神田」、野菜は伊勢市内の「神宮御園」で作られ、
皿に至るまで土器調製所で焼かれているといいます。

「僕はサーフィンをやるから、昔は将来アメリカの西海岸に移住したいなって、
そう思っていたくらい。でも伊勢のスゴさを知った今は違う。
ここは天照大御神さんが選ばれた、どこよりも気のいい場所で、
そんな場所であり続けることが市民の努めだと思うようになりましたね」

山本さんはそれ以降、外宮参道に観光案内所を作ったり、
参道でもともと経営していたアウトドアショップで参拝者の荷物を預かるなど、
伊勢に参拝に来た人が深く美しいお参りができるよう、
サポート活動をしてきました。

そんな折、アウトドアショップの目の前にあった
明治期創業の刃物屋のオーナーが引退し、
後継者がいないことから閉店するという話を聞きつけます。

刃物屋がそこにあることが日常の風景だったという山本さんは、
なんとかその場所を残したいという思いから、
気付いたら「継がせてほしい」と口走っていたといいます。

「刃物屋を継いで分かったのは、刃物を研ぎに出しに来る人がすごく多いってこと。
『ここを残してくれてありがとう』ってお客様から感謝をされます。
伝統はそのモノ自体を残すのも大事だけど、先人の想いをつなげていくことが重要。
過去と今と未来をつないでいっているものを大切にするのが
日本人の特徴ではないでしょうか」

山本さんは「伊勢 菊一」を拠点に、仲間と一緒に、
伊勢ならではのオリジナル商品の企画や制作・販売も手掛けています。

なかでもユニークなのが、伊勢神宮の基礎知識を一問一答形式でまとめた
ポケットサイズのカードブック「伊勢あんちょこ」(写真上右)や、
昔から日本に伝わる神話を読みやすい形にまとめ、
その場面から読み取れるメッセージを占いのように添えた「神話占合(しんわうらなひ)」。

試しに引いてみると…

それは天照大御神の孫であるニニギノミコトが天孫降臨した場面でした。
キーワードは"天命""押し分ける""颯爽と"。

「この神話占合がコミュニケーションの始まりになればと思いまして。
伊勢神宮に興味を持っていなくても、
神話から興味を持ってもらえれば結果、伊勢に行き着きますから。
神話で大事なのは何が事実かを探ることではなく、
「民族の記憶装置」といわれるように、
どんな価値観を古来の日本人が持っていたかを知ることができることなんです」

山本さんから発せられる一言一言はとても深く、話を聞いていると、
講義を受けているかのように、これまで知らなかったことや
どこかで不思議に思っていたことがクリアになっていくような感覚を受けました。

「ここによく来てくださるお客様から
『山本さんは"エヴァンジェリスト(伝道師)"ですね』と言っていただきました」

照れながらそう話す山本さんは、自身を「伊勢の伝道師」と捉え、
どんな人にでも分かりやすいように、神宮の尊さや美しさを発信していっています。

伊勢神宮が20年に一度「遷宮」を繰り返し、
建物を新しくしながらもその心を引き継ぎ、
1300年以上もの間、永遠を保ってきたように、
神宮の周りに暮らす人々のなかにも、世代交代を繰り返しながら、
その場所を大切に想う気持ちや人をもてなす心が、変わらず存在していました。

「秋津野ガルテン」にきてら

2013年02月25日

今回の舞台は、和歌山県中南部に位置する田辺市上秋津(かみあきつ)地区。
昔からこの地域は、みかんと梅の里として知られ、
私たちが訪れた2月上旬は、ちょうど梅の花が咲き始めた頃、
山の斜面にはみかんの果実が輝いていました。

その日は地域の農家レストランがリニューアルオープンするということで、
ランチをしに行ってみると、そこは木造建ての小学校の校舎でした。

平成に入り、この地域には外部から人が移り住み、人口が急増。
上秋津小学校も手狭になり、近くに新校舎が建てられました。
旧校舎はそのまま解体される予定でしたが、
「地域資源を生かそう」と、住民がお金を出し合って買い取ったといいます。

ドイツ語で"庭"を意味する「秋津野ガルテン」と名付けられたその場所は、
レストラン「みかん畑」のほかにも、スイーツ工房兼ショップの「バレンシア畑」、
みかんの歴史やいろはについて展示している「からたち」に
宿泊施設も兼ね備えていました。

「この地域は、もともと愛郷心が強い人が多くて。
昔からコミュニティづくりに力を入れてきました」

先述した平成初めの人口増加によって、
新旧住民の間にトラブルが増え、それを解決するために、
子ども会や消防団、PTAなど11地区の地域団体が集まって
「秋津野塾」を平成6年に設立したのだと、
秋津野ガルテン専務取締役の木村則夫さんが教えてくださいます。

「地域活動にはそれなりに活動資金が必要で、
当時はまだ珍しかった『直売所』を作ろうって話になったんです。
行政に訴えたけど認めてもらえず、結局地元の有志が31人、
各人10万円ずつ出資して10坪ないプレハブからスタートしました」

しかし、すぐにうまくはいきません。設立して半年で倒産の危機に…。
「みかんの里でみかんが売れるものか」といわれていたそう。

そんな危機を救ったのが、「秋津野まるごとセット」でした。
最初は地元の人がお歳暮などのギフトに購入し、
それをもらった人がリピートするようになりました。

その後は、それまで農協に出荷していて
ほとんど利益の得られなかったジュース用果実を、
自分たちで輸入した機械でジュースに加工することで、
それまでの約10~15倍の利益が得られるように。

地元の方言で「来てね!」を表す「きてら」という名の直売所は
20坪に拡大し、現在では年商およそ1.5億円、年間6万人が訪れる場所になりました。

「『きてら』と『秋津野ガルテン』が相互に影響しています。
地域資源の生かし方を考えて、我々が物語を作って情報発信していかないと。
今は"価値"の時代であり、"選択"の時代。
地域が面白いなぁと思って、若い人に選んでもらえるようにね」

「きてら」代表取締役社長兼
「秋津野ガルテン」代表取締役副社長の玉井常貴さんが話すと、
木村さんもこう続けます。

「粘り強く、いろんな方向から玉を進めてやってきました。
自分たちでお金を出してやってきたのがよかったのかもしれませんね」

住民が主体になり、地域でお金が回る仕組みを作った秋津野地区。
農家だけでなく、商売人もサラリーマンも、
立場の違う人々が皆、それぞれの得意分野を生かして活動してきました。

そして、そこには「外に出て行った人をどうにか引き戻したい」
という共通の想いがありました。

吉野の山を守る〜出来杉計画〜

2013年02月22日

「将来節が出ないように、枝を落としていくんですよ」

この日、山でヒノキの枝打ち作業中だった梶谷哲也さん。

6メートルの一本はしごに上りながら枝を斧で切り落としていきます。
こうしてきちんと手入れをされた森では、
木に日の光が十分に当たり、土からの栄養も行き渡って良質な木材が育つのです。

日本は島国であるとともに、実は国土の約3分の2を山地が占める山国でもあります。
このキャラバンで各地を車移動するなかにもそれを実感しますが、
一方で、手入れの行き届いた山が少ないことにも気付かされます。

道中、切った木がそのまま倒れている現場を目にし、
それを梶谷さんに伝えると、こんな答えが返ってきました。

「使い道のない木はそのまま置いておくんです。腐ってそのまま土に還るので。
業界用語では"捨て切り"っていうんですが、
東京から来た僕も最初はびっくりしましたね。
なんだか申し訳なくて、僕は"切り置き"っていっています」

梶谷さんは東京生まれ東京育ちですが、昔から田舎暮らしをしたい
という想いがあり、15年前に奈良県中部に位置する黒滝村に移住。
組合の森林作業員として、働いています。

山仕事を始めて3~4年経った頃、
使い道がなく土に還っていく間伐材を使って何かできないか…
そう考え、2000年に日本に入ってきたばかりの「チェーンソーアート」に挑戦。

2006年には吉野町で仲間と一緒に
「吉野チェーンソーアートスクール」を立ち上げて、月1回講師を務めたり、
地元の高校で授業を行ったり、県内外のイベントで実演をしたりと活動しています。

「あくまでも山仕事がメインですが、いきなり林業の話をしても
みなさん戸惑うと思うんですよね。
チェーンソーアートを見せながら木の説明をしたりして、
林業のPR活動としてやっています」

梶谷さんは、活動全般を"杉のために出来る事をスギスギ(次々)やっていこう!"
「出来杉計画」と命名し、ブログも開設して、情報発信をしていっています。

「人工林や花粉症など何かと印象の悪い"杉"ですが、
昔からその扱いやすさで日本人とともに歩んできたのも事実。
杉の学名は『Cryptomeria japonica(隠れた日本の財産)』というくらいですから」

吉野の林業従事者は梶谷さんが移住した15年前と比べると半減。
梶谷さんは杉の可能性を見つけるために、杉の葉を使って染物をしたり、

杉のおがくず堆肥を作って、自家菜園で使ったりと、
まさに"スギスギ"と活動の幅を広げられています。

「この辺では山で仕事をする人のことを"山行(やまいき)"って呼ぶんですが、
それは昔から町で働けない人っていう見られ方もしていて。
自分は東京から山仕事がしたくて来ている。
子どもや家族に胸を張って『お父さんは山行なんだ』って言ってもらえるように、
そんな気持ちでこれからも山に入っていきたいですね」

吉野の山を守る〜聖山〜

梶谷さんたち作業員によって間伐された吉野の木材は、
山の麓の製材所へと運ばれ、そこで加工されてから市場に並びます。

「これまでは吉野の丸太にブランド力がありすぎて、
自分たちの力を入れてこなくても正直売れていました。
だけど、見つめ直さないといけない時代になりました」

そう話す、坪岡林業の坪岡常佳さんは、
県の商業振興課が行う「奈良ブランド開発支援事業」の一環である勉強会に参加し、
"製材所でできること"を改めて考えるようになったといいます。

「突き詰めていったら、それは『板』やったんです」

そして、2年前から親族のデザイナー・坪岡徹さんと一緒に
「聖山(ひじりやま)」というブランドを立ち上げます。

「聖山」は、もともと坪岡さんらのご先祖様で、
江戸時代の樽職人が屋号として使っていたもの。
吉野郡川上村に実際に「聖」という地区が実際にあるんだそう。

彼らが最初に開発したのが、吉野杉で作った「折敷」です。

とてもシンプルで、天然の年輪が美しいこの折敷は、
「それぞれに使うシーンを創造してほしい」
と、最低限の様式美を追求し、無駄を省いた作りになっています。

他にも、坪岡さんは、
"製材所としてできることで、どのようにしたら今の生活に取り入れられるか"
を考え、いろいろと考案中。

「ヴィンテージデニムのように、木のキズも風合いにして、
それを味方に変えていければ」

と、木肌にヴィンテージ加工を施したり、

※左板は加工後、右板は加工前

製材所で作業に使っている"馬"と呼ばれる鉄の作業台をヒントに、
スツールとしても使え、2つ置いてそこに板を乗せたら、
簡単にテーブルができてしまう「馬」を開発したりしています。

「加工だけではなく、ものづくりをしたことで、
初めて直接お客様から"ありがとう"っていってもらえましたね。
自分で土俵作っていかないとダメやと思ってます」

梶谷さんも、坪岡さんも、これまでの吉野木材の歴史を踏まえつつ、
それぞれが今できることを、それぞれのやり方で発信し、
吉野の山を守っていっています。

こども通貨「まーぶ」

2013年02月12日

「地域通貨」ってご存じですか?
地域通貨は、あるコミュニティ内で循環するお金のこと。

以前、大分県の別府温泉で、入浴をはじめ、飲食や宿泊などに利用可能な
地域通貨「湯路(ユーロ)」を見たことがありますが、
大阪府北部の箕面市(みのおし)で
子ども向けの地域通貨が流通しているという話を聞きつけ、早速足を運んでみました。

そこは北芝エリアと呼ばれる閑静な住宅街。

昔から地域活動が盛んで、この道路も全国に先駆けて、
18年前に住民参加型で造ったそうです。
道路にある馬の蹄(ひずめ)のマークは、
かつてこのエリアを馬車が通っていたことからデザインとして採用し、
子どもたちが"けんけんぱ"をして遊べるようにつけられたとか。

そんな北芝エリアで2011年7月より発行しているのが、
こども通貨「まーぶ」です。

この地域では「人と人とをつなぐ支えあいのきっかけ」として
過去にも2回、地域通貨の活用をしてきましたが、
今回は「子どもたちの将来の選択肢を広げること」を目的に、
18歳以下を対象としているそう。

「山口県のデイケアセンター『夢のみずうみ村』を見学に行った時に、
高齢者向けの地域通貨『Yume(ゆーめ)』が流通していて、
リハビリになることをすると『Yume(ゆーめ)』が稼げて、
みんなが本当に生き生きとしていたんです。
それを見た時に、子ども向けの地域通貨ができないかなって思って」

「まーぶ」の開発者である、
特定非営利活動法人暮らしづくりネットワーク北芝の武田緑さんは
「まーぶ」発行のキッカケについてそう話します。

当初は、子どもに勉強を楽しくしてもらうことを目指して始めたそうですが、
「もっと人と人とがつながって何かを体験することで実現できないか」
「『まーぶ』を稼ぎ、使い、また稼ぐというプロセスを
子どもたちの日常に組み込めないか」ということで、
「まなぶ」と「あそぶ」をくっつけて「まーぶ」に。

では、実際にどんなシーンで「まーぶ」は使われているのでしょうか?

例えば、「まーぶ」を稼ぐ場としては、
地域のお祭りやイベントの準備の手伝いのほか、

イベント当日、地域のゆるキャラ「ゆずるくん」役を演じたり、

地域の草むしり、会報誌のポスティング、託児サポートに至るまで多岐にわたり、
大人が本当に助かる仕事を任せているそうです。

「"ままごと"だと持続可能じゃないと思うので。
いかにほんまもんの値打ちの仕事ができるかですね」

大人と子どもが対等にやりとりすることが重要だと、武田さん。

また、月1回、「こども風呂敷市」なるものが開催され、

出店料に100まーぶを支払うと、
子どもたちが自分でモノやサービスを売ることができるという場もあるそう。

それから、子どもたちが「まーぶ」を稼ぎたくなるこんな仕掛けも。

地域の大人が講師を務める「樂画喜堂(らくがきどう)」で、
パステルを使ったお絵かきや、造形など、
学校や家では使う機会のない画材を使って
1回100まーぶでアート体験を楽しめたり、

地域の駄菓子屋でお菓子を買えたり、漫画を借りられたり、
地域の塾の授業料の一部としても、「まーぶ」が使えます。

さらに、子どもたちが「まーぶ」を"みらいのじぶん銀行"に積み立てて、

「スタディツアー」に参加することも可能なんです。

昨年11月には、5000まーぶを預金した中学2年生が2人、
私たちも取材で訪れた、徳島県の上勝町に
地域の大人たちと一緒に訪れ、農家の民泊を体験。

また「夢コンテスト」という自分の夢の実現に使うという取り組みも行われていました。
10月には、3人の子どもが審査員の前で自分の「夢プラン」を発表し、

3つのプランがそれぞれ条件付きで採用となり、
夢の実現に向けて動き出しました。

みんな夢実現のために「まーぶ」を貯めるべく働いています。

「『まーぶ』を介して、子どもたちが自分に自信を持ち、
人とつながることで、未来に希望を持てるような社会を作りたい。
今後は、このプロジェクトへの協力者、共感者を増やして、
"地域の子どもたちを、地域みんなで支え育てる"
という地域文化を作っていきたいです」

地域の宝である子どもたちを地域で育てるということは、
もしかすると昔は当たり前に行われていたことかもしれません。

しかし、人と人との結びつきが弱くなってきているといわれる昨今、
地域通貨という仕組みを使ってそれを促進している箕面市の事例は、
他の地域のくらしにおける良いヒントではないでしょうか。

どっぽ村

2013年02月08日

滋賀県湖北町、上山田。
小谷山の裾野に広がる静かな山里に、
「どっぽ村」と呼ばれる場所がありました。

「どっぽ=独歩」
自分のくらしを自分で作る人たちが集う場所です。

「家も建てる農家」の松本茂夫さん(写真左下)と
「米も作る大工」の清水陽介さん(写真右下)の二人の職人が、
持続可能な山村を目指し5年前に立ち上げました。

もともと、この地で生まれ育った松本さんは、
若い頃に大工のアルバイトで培った腕を生かし、
農業を営む傍ら、自ら家も建てる、人呼んで「家も建てる農家」。

実際、自宅横の2階建ての建屋は、松本さん自身の手で建てたものでした。

大手施工業者で働いていた頃に、
なぜ寿命の短い家に廃棄物となるような素材を使うのか、
大きな疑問を持っていたそうです。

経済優先の合理主義で進んでいく世の中、一方で進んでいく地域の過疎化。
このままじゃ地元の職人たちの仕事も技術も廃れてしまう。

何か窓口を作ろうと考えていた矢先、
出会ったのが湖北の余呉に住む清水さんでした。

清水さんは、なんと若い頃に自転車で世界一周を経験。
実に30年以上も前に世界一周をされた、我々にとっての大先輩!
世界一周のパイオニア的存在の方でした。

道中、アフリカのガーナで新通貨が導入され、
前日まで持っていた旧通貨の価値が半減するという事態に遭遇し、
お金だけに頼らない生き方を模索するようになったそうです。

帰国後3日目にして大工の見習いに従事していた清水さんは、
大工をしながらも、自宅の田んぼで米も作る、人呼んで「米も作る大工」。

そんな「農業」と「建築」が重なり合い、
どっぽ村構想が具現化されていったのです。

どっぽ村では、生き方を模索する若者を"どっぽ生"として3年間受け入れ、
お給料を支払いながら農業と大工仕事を身につける「どっぽ塾」を行っています。

ユニークなのが、毎年徐々に勤務日数が減っていく制度。
空いた時間を自立のための時間として費やしていけるのです。

基礎を身につけ、そこから先は自分の力で作る。
なんでもお金で買うくらしから、自分の手で作るくらしへ。
それが、独立独歩の「自分らしい生き方」を可能にするどっぽ村の姿勢です。

私たちが訪れた日にも、せっせと家の基礎工事を進める姿がありました。

どっぽ村では、食料自給のための農業はもちろん、
家も自分たちで建てる「セルフビルド」を提唱しているのです。

しかも、使っている材料は、地域の業者が不要になった土やコンクリート。
その日もたまたま、地元の組合が余ったコンクリートを届けに来ていました。

基礎工事など必要不可欠なところは清水さんの指導のもと行われ、
それ以外は住民と地域の人たちが助け合いながら手掛けます。

「こうすることで、素材に何が使われているのかも分かるし、良さも分かる。
おまけに、建築の能力もつく」

仕事としても建築業を営む清水さんは、
セルフビルドを提唱する理由をそう語ります。

「経済優先の社会では、知らないところで大量のゴミが生産されてしまっています。
工業製品を生産するために大量のエネルギーを必要とし、
そのエネルギーを生産するために大量のゴミを排出していることを、
私たちは認識しなくてはいけない。
知らないことは"悪意なき悪意"なんです」

そう話す、清水さんの設計する家は、
可能な限りエネルギーゼロを目指したものでした。

太陽の光、風通し、雨による貯水など、できるだけ自然の力を利用し、
冬でも太陽光によって室内は暖房が要らないほどの暖かさを実現。
夏は風通しによって、涼しくて快適な空間だそう。

また、窓のサッシにはアルミではなく木が使用されています。

木は呼吸するので、冬でも結露の心配がありません。

でも木は腐るのじゃ?
そんな質問を清水さんに投げかけてみると、

「それが自然なんです。腐れば土に返してあげられる。でも意外と寿命は長い。
アルミにも寿命はあるが、廃棄するのにまたエネルギーが必要になる。
こうして自然と常に向き合うことが大切なのです」

とのこと。

枯渇必至のエネルギーに頼りすぎず、大量廃棄のゴミを減らす。

清水さんの主張は一貫しています。

工場には、セルフビルド用に貸し出せるよう、
廃業した工場から引き取られた加工機械が集められていました。

「小さいかもしれんけど、こうした活動が各地で始まれば、それが大きな力になる。
そのために湖北では、こんなおっさんたちが立ち上がったのさ」

清水さんはそういいながら無邪気に微笑みました。

食料を生産するための技術「農業」と住処を作るための技術「建築」。

この2つは、いつの時代においても
生きていくのに必要な力なのではないでしょうか?

そんな2つの力を地域のなかで培えるどっぽ村には、
まぎれもなくこれからの"良いくらし"へのヒントがありました。

「ただ、こんな活動が注目されるのもおかしいんだけどね。
昔に戻っているだけだから」

最後に付け加えられた清水さんの言葉が、印象的でした。

ファブリカ村

2013年02月06日

滋賀県東近江市にある「ファブリカ村」。

琵琶湖の東に位置する東近江市は、
湖からもたらされる湿気が麻の製織に適していたことから、
麻織物の産地として栄えてきました。

ファブリカ村の前身である、北川織物工場は1964年に建てられました。
ちょうど東海道新幹線が開通したり、
東京オリンピックが開催されたりした年のこと。

当時、北川織物工場では、
麻織物を用いた布や寝装品、和装小物などを作っていたそうです。
京都や名古屋が近い立地から、
婚礼布団や婚礼座布団のニーズが高かったんだとか。

「昭和初期は、織機をガチャンと動かせば万単位で儲かる。
当時は麻織物が"ガチャ万産業"っていわれていたんですよ」

そう教えてくださったのは、北川陽子さん。

繊維産業は下請けから脱却して
提案型の産地になっていかなければならない…という、
「産地の高度化プロジェクト」がスタートした1980年代に、
京都の美大で染色コースを卒業した北川さんは、家業の北川織物工場に入りました。

それまで洋服をただ着ていた時代から、ブランドの時代へと変遷。
ヨウジヤマモトなどの有名デザイナーが直接素材を探しに産地へ赴き、
素材からデザインしていた面白い時代だったと、
北川さんは振り返ります。

「うちには、おじいちゃんの時代から作っていた、
手仕事の括り絣(かすり)が残っていたので、
絣に特化してデザインを起こすようになりました。
当時、うちにもヨウジヤマモトさんが来て、絣を見て
『モダンだ!』っておっしゃって。
その時、地域の素材は残していかないといけないな、と思ったんです」

しかし、次第に素材は海外のものを使う時代に…。
半年間かけて作った絣に少し傷があっただけで
焼却処分されてしまう現場を目にし、
北川さんはものづくりに対して疑問を持つようになったといいます。

この頃から素材として絣を作る一方で、
直接販売できるクラフト市などに参加するようになり、
値段だけの取引ではなく、産地について考えるようになったそう。

「実際に自分で販売してみると、近所の人でも
近江が麻の産地であることを知らないんですよ。
ここの土地にできてきた意味を考えないと…って、
この頃から地域を意識するようになりましたね」

もともと人と話すことが大好きという北川さんは、
地域の集まりや組合、異業種交流会などにどんどん参加し、
それまで関わってこなかった人たちとの関わりを通して
ものづくりに加えて、「ことづくり」の楽しさを知ります。

そして、"きちんと地域のものを残していきたい"、
"北川織物工場が守り続けてきた手仕事の良さを伝えたい"と
休んでいた工場を「つくるよろこびにふれる場所」として復活させました。

それが、「ファブリカ村」です。

「ファブリカ村」では、染めや織りなどのワークショップを行ったり、
地元の食材を使ったカフェや、地域の作家が作ったものを買える場を提供したり。

「海外との価格競争に巻き込まれるのではなく、
本当に欲しい人にものを届けられるように。
この空間を共有してもらい、
生活者の意識を少しでも変えられる場所にできたら」

そんな想いを形にし、場の大切さを実感した北川さんは
次々に行動を起こします。

"まずは自分たちが地域のことをもっと知ろう"
"横のつながりを作ろう"
と、異業種の作り手を集めた「湖の国のかたち」を結成。

地場産業の産地めぐりツアーを企画したり、
様々な勉強会や交流会を実施したりしています。

時代とともに自身の考え方が変わってきた北川さんが中心となり、
学び、出会い、そして体験することで
新しいものを生み育てていきながら、
自らの感性と次の世代の感性を育んでいこうというこの取り組み。

その裏には、近江の国から多くのものを全国へと流通させていった、
近江商人の商訓「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」
が今でも残っていました。

もちろん、北川さんは本業のものづくりも続けていらっしゃいます。
近江の麻を使った服や小物のオリジナルブランド「fabrica」を展開中。

北川織物工場は、ものづくりの現場に加えて、
滋賀県のモノ、コト、ヒトが集まる情報発信基地「ファブリカ村」として、
その活躍の幅を広げていっています。

「滋賀は面白いですよ!独立してもやっていける」

北川さんのこの言葉は、地元を知っているからこその言葉だと感じました。

つくるビル

2013年01月29日

歴史と伝統が息づく町、京都。

近代的な街並みのなかにも、自然と古い町家が溶け込む風景からは、
京都らしい風情を感じます。

そんな京都の中心地に、
一風変わった特色のビルがありました。

外観は一見、古びた建物ですが、名前が「つくるビル」。

なんと、その名の通り、
ビル全体がつくり手たちの「ものづくり」の拠点となっているんです。

しかもこのビル、昨年の12月にオープンしたばかり。

今は入居したての作家や作り手たちが、
まさに自分たちの居場所(アトリエ)を作っている最中でした。

平面作品アーティスト向けの共同部屋(シェアアトリエ)も入居募集中で、
部屋によっては陶芸家向けの電気窯付きの部屋もあります。

中にはショップ機能を持つアトリエや、地元産の野菜を扱う八百屋、
古本から新刊までインスピレーションを与えられる本を取りそろえた
本屋も入居しており、

広々としたカフェも併設。
思わず何かを作りたくなってしまうような空間です。

噂を聞きつけフラリと訪れたのですが、幸運なことに、
この「つくるビル」の仕掛け人の方にお会いすることができました。

石川秀和さん、37歳。
内装デザインの会社で勤務した後、独立を果たしました。

「京都はその土地柄、伝統工芸にまつわる
作り手が制作・活動する場は多分にあるのですが、
現代でアナログ的なものづくりをされている
クリエイターたちが制作・活動する場は少ないんです。
また別の話ですが、町家や古い洋館などは、
京都市など行政から保護もあって残されているんですが、
60~80年代に多くに建てられた一般的な築30~50年程度の古いビルは、
景観保護や文化財等の保護計画から漏れてしまい、
取り壊されてしまったり、使われず廃墟になっていたりするんです。

つくるビルは、このふたつの異なる事情をつなぐアイデアがあり生まれました」

このビルも築50年を迎え、リノベーション前までは、
10年以上入居者がいない部屋がいくつもあるような廃墟的ビルだったとのこと。

石川さんいわく、60年代から80年代(高度経済成長期)に建てられ、
老朽化したことにより、人けのない廃墟となっているビルは多くあるようで、
そのビルの活用方法については、ビルオーナーも頭を悩ませているんだとか。

ビルオーナーにとってはビルを残しながらリニューアルでき、入居者から家賃が得られる、
クリエイターにとっては、古さを生かした自由で魅力的な空間が格安で借りられる。

そんな両者のニーズをマッチングすることで、
廃墟ビルが付加価値を得て蘇ったのです。

これまでの道中にも見つけてきた「今あるものをどう生かすか」の視点。
ただ、この角度でニーズを掘り起こしている方は初めてでした。

「京都には伝統という土台がある、だからこそ、
常に新しい多種多様なモノ・コトが生まれる」

と話す石川さん。

現代の作り手たちが「作る」場から、何が生まれるのか。
今後も目が離せません。

人気商品から見える京事情

京都駅南口近くに構える洗練されたモール。
なんと「イオンモール京都」でした。

こちらの無印良品も、基調をグレーにおいた風格ある門構え。

これまで訪ねてきた郊外型のイオンモールとは一風異なり、
さすがは京都といった洗練された雰囲気が漂っています。

さて、そんな京都らしい無印良品の人気の逸品とは!?

スタッキングシェルフ」です♪

一体、なぜ?と感じる方も多いかもしれませんが、
京都の住まいは町家に代表されるように、
入り口が狭くて細長いつくりのものが多く、
その様は、「鰻(うなぎ)の寝床」とも呼ばれているそうです。

そのため、大きな家具は搬入不可となるケースがあり、
狭い入り口からでも搬入可能で、空間を最大限有効活用可能な
「スタッキングシェルフ」が支持されているというわけなんです。

組み合わせ自由だから、様々な間取りにも合わせられ、
和風にも洋風にも合うから不思議です。

各地の人気商品から、
地域ごとにその土地柄を把握することの大切さを痛感させられます。

変わる伝統、変わらない伝統

2013年01月28日

食べてしまうのがもったいない、
ずっと眺めていても飽きない和菓子たち。

(左上「赤い糸」、右上「草かんむり」、左下「あかり」、右下「運だめし」)

これらは、京都を中心に活動する、創作和菓子ユニット
「日菓(にっか)」の二人が作ったものです。

三重県出身の杉山早陽子さんと、埼玉県出身の内田美奈子さんは
京都の同じ老舗和菓子屋で働いていて出会い、
和菓子に対する考えが同じであることから意気投合。
「日菓」を結成して今年で7年目になります。

実は二人が和菓子の世界に入ったのは、
一冊の同じ本に影響を受けてのことでした。

「これまでの和菓子の見せ方は、器と和菓子がセット。
それが私たち世代にはあまりピンと来ないと感じてしまって。
この本に出会った時に、新しい和菓子の見せ方を追求したいと思ったんです」

(左:これまでの見せ方、右:「和の菓子」の見せ方)

和菓子には、饅頭や羊羹(ようかん)という種類の名前のほかに
「菓銘」というタイトルのようなものが付けられていて、
菓銘の多くは、短歌や俳句、花鳥風月や地域の名所等に由来しているそう。

例えば、4月の和菓子に"花筏(はないかだ)"
という菓銘のものがありますが、どんなお菓子か想像がつきますか?

花筏とは、「桜の花が散って花びらが水面を流れていく様」を表しますが、
若い世代にはなかなか伝わりにくいのが正直なところです。

その点、日菓の和菓子はストレートに伝わりやすい
"情報の完結度"を大切にしているといいます。

「くす玉」

「気くばり美人」

「目ぢから」

「商品として食べてもらうよりも、その先の時間を共有したい」
と話す日菓の二人は、
展示会で、和菓子を視覚で楽しんでもらってから、味わってもらったり、
ギャラリーイベントのテーマに合わせて和菓子を発表したりと、
和菓子の魅力を自分たちのやり方で伝えていっています。

京都に移住して10年の杉山さんと、7年の内田さん。
二人にとって京都はどのような場所か尋ねてみると、
こんな答えが返ってきました。

「伝統文化とサブカルチャーが共存している街。
伝統の和菓子があるから、私たちのような新しい形の和菓子も
受け入れてもらえているのだと思います」

京都の伝統文化といえば、「舞妓・芸妓」があります。
海外においても和製英語の"GEISHA"として知られているほど。

しかし、言葉としては聞き慣れているものでも、
日本人である私たちでさえ、あまりなじみのない世界です。

舞妓・芸妓はもともと、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人に
お茶をふるまった水茶屋で、お茶や団子を提供していたものに
お酒や料理が加わり、その店で働く茶汲女(ちゃくみおんな)が
唄を聞かせ舞を見せたのが始まり。

芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域を「花街(かがい)」と呼び、
京都には上七軒(かみしちけん)、祇園甲部(ぎおんこうぶ)、祇園東、
先斗町(ぽんとちょう)、宮川町の5つの花街があります。

なかでも一番古い歴史を持つのが上七軒で、
室町時代に北野天満宮の再建の際に残った材木を使って
7軒の茶店を建てたのが発祥だとか。

この上七軒で元芸妓である勝ふみさんに、
舞妓・芸妓の話を聞かせてもらいながら、
私自身も舞妓体験をしてきました。

舞妓と芸妓の違いですが、舞妓は芸妓になる前の見習いで
身に付ける着物や髪型、かんざしの種類などが異なるそう。

舞妓は、肩と袖に縫い上げがあり、
だらりと垂れ下がる「だらり帯」に「裾引き」という、お引きずりの着物を着て

10cm以上ある「おこぼ」を履くのが特徴。

また、髪形は舞妓の場合、自毛で桃割れの髪を結い上げ、
経験年数や行事に応じて結い上げる髷(まげ)が決まっているといいます。

ちなみにかんざしは、2月は「梅」、4月は「桜」、10月は「菊」
というように四季折々の花があしらわれています。

(左上:1~3月、右上:4~6月、左下:7~9月、右下:10~12月の花かんざし)

舞妓になるためには、中学卒業後に
お茶屋(プロダクションのようなもの)に所属し、
唄や舞、三味線の稽古、京言葉や花街のしきたり、行儀作法などを学びます。

弱冠15歳にして、将来の職業を決めるというから驚きですが、
全国各地から舞妓希望者が集まるというからさらに驚かされます。

勝ふみさんいわく、舞妓・芸妓に大切なことは、
"お客様をもてなす心"だそう。

日菓の二人も「和菓子の根底にあるものを学びたい」
と、茶道を習っていて、
「お茶の世界では、何があっても落ち着いていて、
その場の時間の流れを止めない臨機応変さが必要で、
何よりお客様に楽しんでもらうことが第一」
と話していました。

和菓子も舞妓・芸妓も京都のお茶文化とともに栄えてきたもの。
季節のうつろいに敏感で、相手のことを思いやる心を持つ日本人の精神は
こうした古くからの文化の積み重ねによって、
自然と育まれてきたものなのでしょう。

伝統文化が一部形を変えながらも、色濃く残る京都だからこそ、
こうしたことを感じることができたに違いありません。

淡路島の心地よいくらし

2013年01月24日

淡路島で訪れた「樂久登窯(らくとうがま)」。

祖父母の古民家を改装したという工房、兼「gallery+cafe」は、
地元の漁師さんたちで賑わい、温かみのある雰囲気に包まれていました。

その雰囲気を助長しているのは、これらの器たち。

実に多彩な技法が駆使されているのも、陶工の西村昌晃(まさあき)さんが、
先日のブログでも記した丹波立杭焼で修業をされてきた証でした。

丹波の窯元で6年間薫陶を受けられた西村さんは、祖母の住む淡路島に戻り、
2年前にこの窯、兼「gallery+cafe」を立ち上げられました。

一風変わっているのが、
陶工として器づくりに励みながらも、記者としての一面も持っていること。

「自分の器に盛られる食材の成り立ちと、
生産者の想いを知りたいと思ったんです」

「自分はバトンを渡されている。一体、どこから始まっていたのか?
そんな好奇心から、身の回りの生産現場やその想いを取材し、
一冊の本としてまとめていきたくなりまして」

そう考えるようになっていった西村さんは、
「rakutogama book」の発刊のために、取材活動を始めるようになりました。

島に住みながら、島の生産者の取材をする。
そうすることで、季節を追うことができるし、
家畜牛の出産シーンなど決定的な瞬間にも立ち会うことができる。

その地の利を生かした取材ぶりは、プロも顔負けするほどです。
こうして食材の背景を知ることで、器づくりに対する姿勢も
大きく変化していったといいます。

「何より器の向こう側にある風景を想像できるようになったこと。
形として表現するのは難しいですが、
明らかに自分のなかで変化が起こりました」

以前は東京の展示会や店舗などにも出品していたという西村さんでしたが、
流行や売れ筋に振り回されることに強い違和感を覚えるようになります。

都会のセンスにとらわれずに、もっと身の回りの生産者が作った食材を
おいしく食べてもらうための器づくりでいいのではないか。

そう考えるようになっていったそうです。

そして、長い歳月をかけて取材をされ、
最近、完成したばかりという作品がこちら。

淡路黒炊飯土鍋。

同じ淡路島内で「合鴨農法」という有機農法で米作りをされている
花岡農恵園を取材したことをきっかけに手掛けた逸品です。

「とにかく手間隙かけて作られた合鴨農法米。
いかにおいしくいただくかを念頭に作りました」

そう西村さんが話す通り、そこには時代や流行にとらわれない、
作り手の想いが交錯する空気感を感じました。

そんな西村さんが強いインスピレーションを受けたという「花岡農恵園」を訪ねると、
確かにそこには強い信念のもと、活動される素晴らしい生産者の姿が。

花岡明宏さん、36歳。

花岡農恵園代表の花岡さんは、
3児の父親でもあります。

「子供たちに安全安心なものを食べさせてあげたい」

と話す花岡さんの田畑は、完全有機農法。

有機は困難といわれる米作りにおいても、
先述の「合鴨農法」という方法で、無農薬で生産しています。

私たちが訪れた12月は、ちょうど米の収穫後でしたが、
田植え後1週間から穂が出るまでの2ヵ月ほどは、
その名の通り「合鴨」が田んぼを泳いでいるんだそう。

生まれたての合鴨の雛を水田に放鳥することで、
雑草や害虫を餌として食べてくれ、かつ、排泄物が肥料となるわけです。

ただ、農薬や化学肥料を使用しないため、
手入れに手間隙がかかるうえに、一般的には収穫量が下がることから、
手掛けている農家が少ないのが現状です。

それでも「地域内循環」に強い興味があると話す花岡さんは、

「農薬や肥料も外に頼る必要はないのではないかと。
もっと自分たちでできることを、地域のなかで循環させていければいい。
有機農法は、そのベースになりうると思っています」

と語ります。

現に花岡農恵園では、牛や鶏も飼い、
その排泄物を堆肥にして農園に還元していっています。

「できればこれを島単位でやっていけたらいいですよね。
家畜の餌や堆肥を地域のなかで回していき、そこに雇用が生まれる。
そんな循環を夢見ています」

花岡さんは現在、新規就農を目指す若者の指導もしています。

そんな花岡さんの想いの詰まった「愛鴨米」は、
西村さんの「rakutogama cafe」でも、平日限定ランチで提供されています。

流通の発達から、見失いつつある地元にある宝物。

淡路島では、今一度それらを見直し、生産者同士が強固につながっていくことで、
新しい潮流が生まれ始めています。

「ただ、楽しいことを実践していきたいだけなんですけどね」

最後にそう笑顔で話される西村さんの言葉に、
人間が本来持ち合わせている心の中のセンサーの中にこそ、
これからのくらしのヒントが隠されているように感じました。

デザイン都市神戸の発信基地、KIITO

2013年01月22日

神戸は古くから、海外の「人々」「情報」「物資」を受け入れ、
多様な文化の融合の中から、特色ある神戸文化を生み出してきました。

さらに、平成7年の「阪神・淡路大震災」からの復興の過程で、
人の豊かな感性に基づく想像力と、それを生かすデザインの力が
人への思いやりと未来への力となって神戸の復興を支えたと認識できたといいます。

そんな神戸市では、
「住み続けたくなるまち、訪れたくなるまち、そして、継続的に発展するまち」
を目指して、神戸の今と未来をデザインしていくことで、
人間らしい幸せを実感できる創造都市「デザイン都市・神戸」を実現させると宣言し、
2008年10月に、"ユネスコ創造都市ネットワークデザイン都市"に認定されました。

そして、2012年8月には、「デザイン都市・神戸」のシンボルとなる
創造と交流の拠点「デザイン・クリエイティブセンター神戸」(愛称:KIITO)を設立。

"KIITO"という愛称は、"生糸"から来ており、
もともとは旧神戸生糸検査所だった場所なんだそう。
建物内にはその名残があちこちに見受けられました。

KIITOは、神戸で暮らす人や働く人、子どもから大人まで、
すべての人が集まり、話をして、次々に何かを生み出していく場所であり、
一部のアーティストやデザイナーだけでなく、
様々な人や世代が交流し、そこから生まれるアイデアや工夫で
新しい神戸を作っていくということを目的としています。

例えば、「+クリエイティブゼミ」というプログラムを実施。
福祉、防災、環境、医療…など様々な社会的課題に対して、
小グループでディスカッションを行い、
クリエイティブな視点で今あるものを編集していく場を提供しています。

昨年10月には、神戸の子どもたちとクリエイターが一緒に、
「食」をテーマにした夢のまちを作る体験プログラム「ちびっこうべ」を開催。

子どもたちが「シェフ」「建築家」「デザイナー」の中からなりたい職業を選び、
プロの指導のもと、体験ワークショップを通して、
みんなで食べ物のお店を作っていくというものです。

建築家チームは模型づくりから、

シェフチームはメニューのスケッチから手掛けたというから
とても本格的ですね。

また、体験ワークショップから参加できなかった子どもも、
ハローワークに並んで、警察や銀行など当日のお仕事を体験し、
10日間で1万人の来場者を記録し、大成功に終わりました。

「学校教育ではカバーしきれない"本当の創造教育"を
子どもたちにしていかないと」

「ちびっこうべ」のアイデアは、
ドイツのミュンヘンで30年以上の歴史がある「ミニ・ミュンヘン」からヒントを得て、
KIITOの副センター長を努める永田宏和さんが2年以上温めてきて、
ようやく実現させたものでした。

「自分たちで一から考えて作り上げる。
ワークショップは、今の社会へのアンチテーゼかもしれませんね」

永田さんは、NPO法人プラス・アーツの理事長でもあり、
阪神・淡路大震災の教訓を生かす防災教育を中心に活動しています。

2005年から美術家・藤浩志氏と共同で新しいカタチの防災訓練プログラム、
「イザ!カエルキャラバン!」をスタート。

子どもたちや若い親子を対象に、
楽しみながら震災時に必要な「技」や「知識」を身につけてもらい、
"カエルポイント"を集めて、好きなおもちゃのオークションに参加ができる
という仕組みになっているそう。

神戸で始まった「イザ!カエルキャラバン!」は評判を呼び、
東京、横浜、新潟、大阪、宮崎など国内各所で開催するとともに、
2007年以降、その活動は海を渡り、インドネシアやグァテマラ、
エルサルバドル、モンゴルなどでも開催されています。

「"不完全プランニング"を大切にしています」

永田さんは、1つの企画の中で、作るプロセスにいかに人がかかわって、
後に何が残せるかを重要視していると語ります。

「企画を成り立たせるためには、3つの人が必要だと思っています。
『土の人=地域の人』『風の人=いい種を運ぶ人』
『水の人=地域に寄り添って、中間的立場で地域支援をしてくれる人』。
企画はローカライズされればされるほど、定着するんです」

インドネシアに輸出された「イザ!カエルキャラバン!」は形を変え、
学校の先生たちによる有志団体によって、現在も継続されているそうです。

「防災の分野では、日本は進んでいると思います。
それを世界に発信していくことで、
日本人としての海外におけるポジションを築いていきたいですね」

実は無印良品もこのたび、KIITOの運営パートナーとして、KIITO内に、
「MUJI+クリエイティブスタジオ」を構えることになりました。

NPO法人プラス・アーツ、アートディレクター寄藤文平氏らの協力で
2008年より、「日常から備える防災」をテーマとした商品の編集展示、商品開発、
キャンペーン等を継続的に実施してきており、
この活動が今回の協働のベースとなっています。

KIITOを拠点とする、無印良品の今後の活動にも
ぜひご注目ください♪

神戸の無印良品

神戸港の開港以来、いち早く洋菓子文化が定着し、
今なお全国一の洋菓子激戦区でもある神戸。

そんなスイーツが大好きな神戸の人たちに人気の商品を
無印良品 アクタ西宮店で聞いてきました。

アーモンド入りの生地をまるく焼きあげ、粉糖をまぶして仕上げた、
"白い雪の玉"を意味する名前のフランス菓子です。

紅白2色あるので、おめでたい席への
ちょっとした手土産にもいいかもしれませんね。

このブールドネージュ、そうしたギフトニーズも多いらしく、
パッケージに直接値段表示がされていません。
パッケージ裏の☆の数で価格が分かるようになっているんです。

ひとつ食べ始めると、なかなか止まらないおいしさですよ!

人の循環する町

2013年01月18日

徳島県北東部に位置する神山町(かみやまちょう)。
この町が近年「すごいことになっている!」という噂を聞きつけ、やってきました。

徳島市内から車で約40分の山間にある人口6350人の町は、
"遍路ころがし"といわれる、四国霊場八十八ヶ所最大の難所がある場所だそう。
その町で昨年度、初めて転入者が転出者を上回ったというのです。

一体、神山町で何が起こっているのでしょうか?

その理由を語るのは、NPO法人グリーンバレーの理事長、
大南信也(おおみなみしんや)さんです。

「そもそものキッカケはPTA活動で子どもの学校に行った時に見かけた、
"アリス"という一体の青い目の人形だったんですよ」

以前、カリフォルニアで日系人が差別されていたことを受け、
1927年、米国から日米友好のために全国の学校に人形が送られました。
しかし、後の太平洋戦争で多くの人形が処分されます。
大南さんが地元の小学校で見かけたアリスは、
戦後まで残った約300体のうちの一つだったのです。

「この人形の送り主を探したら、何か起こるかもしれないって思ってね。
1991年に"アリスの里帰り"を計画したんです」

アリスにはパスポートが付いていて、そこには出身地が書いてあったそう。
市長に手紙を書いて問い合わせをし、なんと64年の時を越えて、
アリスの送り主のご遺族と対面を果たしたといいます。

そして、この時の成功体験を共有できていた仲間が、
今のグリーンバレーの中心メンバーとなっています。

"アリスの里帰り"を機に、大南さんらは「神山町国際交流協会」を立ち上げ、
毎年キャンプを開催したりと、町民を巻き込んで国際交流を図ってきましたが、
現在の活動を行う転機となったのが、
県の計画で神山町に国際文化村を作るという「とくしま国際文化村構想」でした。

「その時、神山町から県に対して、中身の提案を行ったんです。
施設ができても内容がともなわなければ使われなくなる」

その時の案が、現在も継続して行われている、
"環境"に軸を置いた「アドプト・プログラム」と、
"芸術"に軸を置いた「アーティスト・イン・レジデンス」でした。

「アドプト・プログラム」とは、民間団体が道路や河川の清掃活動を行うこと。
現在、20団体が参加し、清掃活動を行っているそうです。

「町に訪れた時に、汚い場所だったらもう二度と人は来ないと思うんです。
五感で感じられる町を目指したいと思って」

一方、「アーティスト・イン・レジデンス」は
毎年8月末から約2ヶ月間、国内外のアーティスト3人を神山町内に招いて、
芸術作品の制作・展示を行うもので、今年14年目を終えました。

本年度参加した、ドイツで活動するアーティスト出月秀明(いでつきひであき)さんは、

「ずっと温めていたアイデアを神山の大自然の中で形にできました。
この場所が個人と社会の関係や自分の時間を考えてもらう場になれば…」

と語ります。

出月さんが手掛けたのは森の中にひっそりと佇む
「隠された図書館」。

神山町住民の希望者に、人生で3回、
卒業、結婚、退職の時に読んでいた本を収めてもらい、
記憶を共有、もしくは思い出してもらおうという作品です。
図書館を開けることができるのも住民のみなんだとか。

大南さんは"アートによる町づくり"についてこう話します。

「手法は2つあって、
一つは評価の定まった作家の作品を集めて観光客に見に来てもらうこと。
もう一つは、作家に作品制作のために滞在してもらうこと。
神山町が行っている後者は、作家が住民との触れ合いを通して、
神山の町民によるお遍路で培った"おもてなし"を自然に受けることで、
神山のファンになっていくんです」

実際、「アーティスト・イン・レジデンス」で過去に神山町を訪れた人が
後に移住してくるようになったそう。

そこで、ウェブサイトを一新し、神山町での暮らしを伝える
「神山で暮らす」というコンテンツを載せると、一気に注目を浴びるように。

その後、神山町から委託されて移住交流支援センターを運営するようになり、
「ワーク・イン・レジデンス」という新たな仕組みを取り入れます。

「田舎には職がないからといって、若い人が集まらない。
だったら、仕事を持ってきてもらおうってね」

それは、自分たちの町に必要な職種の人を逆指名で募集する、という驚きの策でした。
これまでに、パン屋やWEBデザイナー等が移住してきているといいます。

さらに、2年前から「サテライトオフィス」の事業展開を開始し、
すでに9社が神山町にオフィスを構えています。

(写真上:Sansan(株)・サテライトオフィス
写真下:(株)ソノリテ・サテライトオフィス)

「町の活性化のためにモノを作るのではなくて、
"人"が集まる場所を作るんです。
入ってきた人は必ず何かを残していってくれますから」

直近では、神山町に住む映像作家・長岡マイル氏と、5人の外国人作家が
里山や鎮守の森の現在、林業や様々な森を基点とする仕事などをテーマに
国内5つの場所を訪問し、「森と暮らしの関係」を撮影する、
「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバン
(愛・地球博成果継承発展助成事業)を企画・実施中。

来る2月10日(日)、11日(月・祝)に
シンポジウムでの映像上映を予定しているそうです。

神山町に訪れる前に聞いていた、「神山がすごいことになっている!」というのは
今に始まったことではなく、
大南さんら、グリーンバレーが1991年の"アリスの里帰り"以降、
ずっと継続して行ってきた様々な取り組みの結果だったのです。

大南さんはアリスという人形との出会いと、
アリスの送り主との交流を通して、
「今やっていることすべてに意味があるはず」
ということを学んだそう。

*できない理由より、できる方法を!
*とにかく始めろ!(Just Do It!)

という活動指針を置いて、これからの時代を先読みしながら
"人"による循環型の町づくりを実践しているグリーンバレーは、
地域の課題に正面から向き合い、その解決のために今日も突き進んでいます。

葉っぱと共にイキイキと

2013年01月16日

「明るく元気に100歳まで長生きするわ~♪」

満面の笑顔を見せながら、そう元気に話される西蔭さんは、
今年でなんと75歳を迎えられます。

その年齢を感じさせないイキイキとした姿に、驚きを隠せない私たちの前で、
今度は「プルル プルル」と携帯が鳴りだします。

「注文入ったかしらね~」
と、おもむろに携帯を取り出す西蔭さん。

画面を見せていただくと、1通のメールが届いていました。

「新しい注文があります。◆南天(ジャンボ) 1ケース」

「ほな取っておこうかね~」
そういいながら、今度はパソコンに向かいます。

「画面が更新されるのが遅いんよな~」
とつぶやきながら、トラックボールで巧みに画面を操ります。

「えい!」と気合を入れてクリックすると…

画面には
「残念! 注文を取ることができませんでした」
の文字が!

「ありゃ~!」
ショックのあまり、作業中の葉っぱを散乱させてしまいました。

「私、のんびりした性格だからね~。あっはっは~!!」

一緒になって笑いながらも、
目の前で起きている事象が信じられないでいると、

「畑に出ている時は、これを持ち歩くの」
といって、西蔭さんが出してきたモノは…

なんとタブレット端末です!!

75歳のおばあちゃんが、まさか携帯、パソコン、
タブレット端末までを使いこなされるとは…。

西蔭さんが取り組まれているのは、徳島県上勝町の
(株)いろどりが運営する通称"葉っぱビジネス"。

自宅の裏山や畑で栽培した花木の葉っぱを摘んで、
それを料理の"つまもの"として出荷しています。

全国の飲食店等からいろどりに葉っぱの発注が入ると、
「注文」という形で会員農家の端末に連絡が入ります。

それを受けた130~40軒の会員農家のあいだで、先述のような
注文の先取りがネットを通じて行われているのです。

今では時期ごとに、何の葉っぱの注文が入りやすいかまで、
農家のおばあちゃんたちが独自に分析をしているんだとか。

まるでマーケットの予測を立てるトレーダーさながらの姿ですね。
その日の自分の売上ランキングも、毎日チェックしているんだそう。

最高90歳のおばあちゃんまでもが、
同じように取り組まれているというから更なる驚きです。

「このビジネスによって、
町のおばあちゃんたちがイキイキと輝き始めました」

同じくイキイキした表情で、快く取材に応じてくださったのは、
(株)いろどりの代表取締役社長、横石知二さん。
この方こそ、葉っぱビジネスを起こされた仕掛け人です。

事の発端は1981年のこと。
上勝町役場に就職し、地元の農協に配属された横石さんを、
記録的な異常寒波によるミカン畑の壊滅という事件が襲います。

町の農業をどう立て直すか?

使命感に燃える横石さんは、たまたま立ち寄った難波のお寿司屋さんで、
料理に添えられていた"つま"を大切そうに持ち帰る女性客の姿を目撃。
その瞬間、横石さんはひらめいたといいます。

上勝町に戻り、農家の方にアイデアを説明するものの、大多数が反対。

それでも賛同してくれた4軒の農家とスタートを切るものの、
当時"つま"は料理人が自分で摘んでくるもので、そうしたビジネスもなかったため、
全く売れない多難な船出だったそうです。

どうしたら売れる"つま"になるのか、
横石さんは自腹を切って、ひたすら料亭に通いつめます。

葉っぱの種類、色、形、大きさなど徹底的に研究を進めながら、
それを農家の方たちと共有し開発を進めると、徐々に売れ始め、
事業に参加する農家も増加。

現在ではなんと年商2億円を超える、町の重要な産業にまで成長しました。

「おばあちゃんたち一人ひとりのツボを知っていたこと。これに尽きます」

葉っぱビジネスの成功の秘訣を、横石さんはそう語ります。

「他の会員には負けたくない」という競争意識と、
経営者のように自覚を持って取り組んでもらうための仕組みが、
おばあちゃんたちの自発的な行動を促したのです。

横石さんは、おばあちゃんたちのやる気を最大限引き出すために、
他にもこんな取り組みをしていました。

前日からのトレンドや当日の目標を綴った、
手書きによる一斉FAX。

そして、会員農家さんしか読むことのできない、
横石さんのブログ、ならぬ、「見たら得する情報」の投稿。

今や講演などで全国を飛び回る横石さんですが、
旅先からも情報をアップデートされていっています。

「経営者にとって一番大切なことは、
生産者(労働者)との距離感だと思っています」

そう話す横石さんは、ビジネスが軌道に乗ってきた頃、
事業から退こうと考えたこともあったそうです。

そんな時、生産者代表のおばあちゃんが、嘆願書と全会員農家の署名を持って、
運転して帰路につこうとする横石さんの前に現れ、こう言い放ったんだとか。

「帰るんだったら、私を引いてくれ。
あなたがいなくなったら、私は生きている意味がない」

今でも宝物だという、その時の「嘆願書」と「署名」を、
特別に見せていただきました。

そこには、横石さんと農家のおばあちゃんたちとのあいだの、
言葉では言い表せないほどの、絶対的な信頼関係の証が記されていました。

葉っぱビジネスという、一見シンプルに思えるモデルですが、
長年かけて構築された仕組みと、
横石さんと生産者らの強固な関係があってこその結果でした。

そんな上勝町では現在、未来の子供たちに豊かな大地を引き継ぐために、
2020年までにゴミの焼却・埋め立て処分をなくすための活動
「ゼロ・ウェイスト」にも取り組んでいっています。

できる限りのリサイクルを実現するために、
34分別したゴミの完全持ち込み制を導入。

「量り売り」のお店もオープンするなど
ゴミを極力出さないようにするための活動も始まっています。

高齢者が生涯イキイキと働き、
その環境を守るための活動にも積極的な町、上勝町。

日本の目指すべき社会が、そこにありました。

美しき日本を残すために

2013年01月14日

吉野川の中流域「大歩危(おおぼけ)」渓谷。

そこから剣山へと抜ける途中に、その地はありました。

日本三大秘境の一つにして、
平家落人伝説の里ともいわれる徳島県「祖谷(いや)」。

その深い渓谷にうっそうと朝もやがかる様は、
しばしば日本の「桃源郷」と呼ばれるほどです。

今から40年ほど前、この地を訪れ、
魅了された一人の青い目の青年がいました。

現東洋文化研究者、アレックス・カー氏です。

父親の仕事の関係で、12歳から2年間ほど横浜で暮らしていたアレックス氏は、
イエール大学在学中、再び日本へと留学。
その頃に祖谷を訪れ、その眺望と人々の暮らしに魅了されます。

「ここには"日本の原風景"がある」

そう考えるようになったアレックス氏は、
100軒以上の空き家を回って一つの茅葺き家屋に巡り合い、
親に借金までして、その古民家を購入しました。

地域住民とともに茅を葺き替え改修し、

そこを「篪庵(ちいおり)」と名付けます。

アレックス氏は日本文化の研究、および海外への紹介に励み、
一方で、篪庵は外国人来訪者のための家屋として使用されてきました。

そんな篪庵の価値やアレックスの思いに、市や国が賛同し協力することになり、
大改修工事が実現され、正式に古民家宿として、生まれ変わることになったのです。

改修には日本全国から、アレックス氏の活動に関心のある若者が集まり、
約40年前と同様、地元の方々とともに進められました。

こうして今夏、ゲストハウス「篪庵(ちいおり)」としてオープン。

外観は完全なる茅葺きの古民家ですが、
中に入ると、まるで戦に備える本陣のような佇まいになっていました。

内部の飾りや調度品は、すべてアレックス氏がこれまで集めてきたものだそう。

その重厚感あふれる趣だけでも圧倒される雰囲気ですが、
驚いたのが床暖房をはじめ、ハイテクを駆使した仕立てになっているのです。

入り口は、鍵の受け渡しの面倒を省くための、
番号入力によるセキュリティキー。

台所はIHが導入されたシステムキッチンを配備。

ウォッシュレットのトイレに、シャワールーム、

お風呂場にはヒノキ風呂がありました。

古民家にハイテクの設備。

そのギャップに驚きを隠せませんでしたが、
これらはすべてアレックス氏の考えに基づいていました。

彼は、日本に必要なものは、古いものを大切にしようとする意識と、
古い建屋を保存するために、現代人が快適に暮らせるように改修する技術、
と説いているのです。

思えば、ヨーロッパの街並みがなぜ、美しいと感じるのか。
それは、現代の用途に合わせた使い方をしながらも、
昔ながらの街並みを保存しているからのように感じます。

アレックス氏によると、
欧米の石の建物は、一度ヒビが入ると改修が困難なようですが、
それを技術でカバーしているとのこと。

家屋改修のための技術を進め、"きれい"な状態で
古い街並みを残していくことが日本の今後にとって何よりも大切、
とアレックス氏は語っています。

彼のプロデュースによって近くの落合集落に今年オープンした、
「浮生(ふしょう)」「晴耕(せいこう)」「雨読(うどく)」といった古民家宿にも、
篪庵と同じコンセプトが取り入れられていました。

これらの古民家改修に携わり、
今もこの祖谷で働く「篪庵トラスト」の笹川さんは、
取り組みについての想いをこう語ります。

「アレックスは、観光バスが停まるような観光地としての開発ではなく、
人々の暮らしのなかにこそ、その土地の魅力があるという考えに基づいて、
こうした宿泊施設をオープンさせました。
ここを拠点に祖谷での暮らしを体験してもらって、
やがてこの地に移り住んでくる若者が増えてくるといいですよね」

現に笹川さんも、この取り組みに共感して、
祖谷へ移住してきた一人です。

現代の日本が取り残してきた土地にこそ、
本来の日本の姿が残っている。

こうした視点を得るためにも、
時に外からの目線が必要だということを、
祖谷は気付かせてくれました。

四万十ドラマ

2012年12月25日

この秋放映のドラマの舞台にもなっていた四万十川。

日本三大清流にも数えられる一級河川は、
昔から川漁で生計を立てている人が多いほど、
天然ウナギから鮎、テナガエビ、青海苔などの水産物に恵まれています。

その中流域に位置する、四万十町十和村(とおわむら)という
信号もコンビニもない人口約3000人の小さな村に、
一つの道の駅がありました。

「道の駅 四万十とおわ」

高知市から車で約2時間強かかるほど、
決して利便性が良いとはいえない立地にもかかわらず、
オープン5年目で来場者数約80万人に達する見込みだそうです。

旅路の途中、よく評判を耳にした私たちは、
運営者にぜひお話を伺いたいと、(株)四万十ドラマの代表取締役社長、
畦地履正(あぜちりしょう)さんの元を訪ねました。

幸運なことに、その日は四万十ドラマが主催する
「いなかビジネス教えちゃる」というセミナーの開催当日で、
全国各地から畦地さんの取り組みを学ぼうとする方たちが集まり、
どさくさに紛れて私たちも参加させてもらうことに。

「これまでの道のり、失敗も多かった。
私は生産者を裏切るような真似もしてしまった」

実績やサクセスストーリーばかりが伝わりがちななか、
畦地さんは失敗談を交えながら、その歩みを語ってくれました。

四万十ドラマが産声をあげたのは、今から18年前の1994年。
旧北幡3町村(西土佐村、十和村、大正町)の出資で設立されました。

もともと農協に勤めていた畦地さんでしたが、退職し、
四万十ドラマの立ち上げから参加。
常勤職員は畦地さんたった一人からのスタートでした。

当時はひたすら"地域には何かある"と信じて、
地元の人に触れ、地域のことを調べていったそうです。

徐々に地元の産品を展開し始めるようになり、
やがて有機野菜も取り扱うようになりました。

そんな折、大きな過ちを犯してしまったと、畦地さんは振り返ります。

「有機野菜の出荷に穴があきそうになったため、同じ四万十産の野菜だからと、
他の生産者の野菜を混ぜて売ってしまったのです」

これが発覚し、有機農家からは1年ほど口をきいてもらえなくなりました。

この時のことを猛省された畦地さんは、
「あるものはある。ないものはない」
と何事にも正直に、誠実に対応するようになり、
「ないものは作らなくてはならない」
と一次産業の大切さを痛感するようになったといいます。

ここに畦地さんの礎を見るように思います。

その後、四万十ドラマのコンセプトを、

ローカル: 四万十川を共有財産に足元の豊かさ・生き方を考える
ローテク:地元の素材や技術、知恵を活かした第1~1.5次産業にこだわる
ローインパクト:四万十川に負担をかけずに活用する仕組みを作ること

と置き、様々な商品開発を進めていくなかで、
一次産業に対しても大きくかかわりだすのです。

その一つの事例が、こちら。

四万十の栗=地栗(ジグリ)を使った「渋皮煮」です。

かつて栗の有数の産地として知られていた旧十和村も、
安い海外産や高齢化の影響で、徐々に山は荒れていきました。

それを地元にもともとあった渋皮煮に加工して出すことによって、
原料としての栗に付加価値をつけ、経済を生み出していくことに成功。

ヒット商品となった渋皮煮、今度は材料の栗が不足し、
今では毎年5000本の栗の木を植えて、山の再生にまでつなげています。

また、会計時には環境に優しいこんな取り組みも。

レジ袋には古紙で作られたバッグが使われているんです。

これまでも四万十ドラマでは
「新聞バッグ」のワークショップなどを開催してきており、
全国に200人以上ものインストラクターを輩出してきています。

地域や国によってその土地らしさが生まれ、
思わず読み込んでしまう新聞を使うというアイデアも斬新ですよね。
「新聞バッグ」の制作キットも販売していました。

このように開発された商品は100種類を数え、
町の経済を活気づけるとともに、四万十の景観を守っています。

今では、売れない商品はないというほど。
ここまで展開できた秘訣は何なのでしょう?

研修の後半、訪れた有機農家での一コマに、
その理由を垣間見たような気がします。

畦地さんは、加工品を作るために生産者と作物を取引するわけですが、
生産者の販路開拓にもひと役買っていました。
青果の取引の際に、消費者や小売担当者と生産者を直接つないでいるのです。

畦地さんはこう話します。

「地域ビジネスに必要なのは、
実際にモノを作る"労働者"、労働者が働きやすい環境を作る"管理者"、
そして、新しい産業を作り出す"起業家"。
前にも後にも"人"なんです」

畦地さんとともに歩んでこられた地域の方の言葉が
今も脳裏に焼き付いています。

「畦地さんとは運命共同体ですから」

四万十ドラマの成功も、
すべては畦地さんが、その地の生産者たちとともに考え、ともに歩み、
絶対的な信頼関係を築いてきたからこそだと思いました。

ドラマは人が作るもの。地域を生かすも殺すも"人"次第。
四万十ドラマにそう教わった気がします。

無茶々園

2012年12月21日

空高く昇っていく太陽のように、青空に輝くみかんたち。

ちょうど収穫のまっただ中の12月初旬に、
みかんの産地、西予市(せいよし)明浜町(あけはまちょう)を訪れました。

辺りを見渡すと、山の斜面にはこれでもか! といわんばかりに
みかんの段々畑が広がっていて、

その前には宇和海がキラキラと光っていました。

ここは、町全体が南向きで日当りがよいうえに、海からの照り返しがあり、
水はけのいい土壌、ミネラル分を含む潮風…と、
おいしいみかんができる自然条件がそろっています。
また、段々畑の石垣が熱を保つ役割をしているそうです。

それにしても、段々畑を目の前にすると、その傾斜のすごさに驚かされます。
収穫したみかんの運搬用に、
各畑にはジェットコースターのようなレールが設置されていて、
もぎたてのみかんが運ばれていました。

一般的に有機栽培が難しいとされる柑橘類ですが、
この畑で栽培されているみかんには、除草剤や化学肥料は一切使用されていません。

生産者の川越文憲(ふみのり)さんは、

「除草が大変かなぁ。夏場は毎日刈っても、すぐに草が生えてくるからねぇ。
だけど、一度自然に育ったみかんの味を知ってしまうと、
いくら頑張ったって自然の力には勝てないって思うんだよね」

と、絶景をバックに話してくださいました。

川越さんいわく、自然に育ったみかんは糖と酸のバランスがよく、
しっかりとした味がするのだそう。

「採れたてのみかん、食べたことあるか?」

そういわれて、渡されたみかんを食べると…
とてもみずみずしく、程よい酸味と甘さが口の中いっぱいに広がり、
「おいしーい!!!」
と感嘆の声を上げた途端、次のひと言に今度は驚きの反応をすることに。

「このみかん、市場じゃ値段はついても10円だよ…」

形が不ぞろいなことと、皮に傷がついていることが問題だそう。
それでも、明浜町を中心に80軒以上の農家が有機栽培をしています。

その理由は「無茶々園(むちゃちゃえん)」にありました。

「無茶々園」とは、できるだけ農薬や化学肥料に頼らないみかんづくりをしていこうと、
1974年に3人の青年によって立ち上げられた実験園のこと。

その後、社会への訴えとともに協力者としての消費者会員を募り、
「無茶々園」の栽培方針に賛同した生産者の輪も地域全体に広がっていき、
現在は生産者団体として活動しています。

また、直営の農園も持っていて、
全国からIターンの若者が集まり、有機農業に取り組んでいます。

今でこそ、"有機"や"オーガニック"という言葉をよく耳にしますが、
約40年前からそれに取り組まれているとは驚きです。
それでも理由を聞いて納得しました。

彼らにとって、有機栽培は第一目的ではなく、
"特色ある地域づくり"が主たる目的だったのです。

農業を主軸として、集落や町全体で気持ちよく暮らせる田舎を作りたい。
環境にやさしいみかんづくりを志すのは、
自分たちの住む地域の自然環境を向上させたい、
というのが大きな動機だったといいます。

「無茶々(muchacha)」とは、スペイン語で「おねえちゃん」の意味。
"ネオン街の蝶を追っ掛けるより、蜜柑畑のアゲハチョウでも追っ掛けようや"
"無農薬、無化学肥料栽培なんて無茶なことかもしれないが、無茶苦茶に頑張ってみよう"
という意味を含めて、設立者は「無茶々園」と命名したのだそう。

「無茶々園」で営業企画を担当している、高瀬英明さんは、

「今、田舎は過疎化が進んで疲弊していくっていわれていますが、
人の流れで問題は解決できると僕は思ってるんですよ」

と爽やかな笑顔で語ります。

彼は、10月に発売になったばかりの、
無茶々園発のスキンケアコスメの生みの親。

ジュースを搾った後の柑橘の皮がもったいない!と、
その活用方法を模索していたところ、
奥様がお子さんの乾燥肌で困っていて、
当時使っていた海外産のオーガニック化粧品の原料を見てみると、
これなら明浜にある原料でも作れると思い、開発に至ったのだそう。

原料は、無茶々園の有機農法にこだわって栽培された柑橘類から採れる精油と
宇和海で手塩にかけて育まれた真珠貝のパウダー、
無茶々園の直営農場で育成されたゆずのシードオイル、
そして、段々畑に咲く柑橘類の花の蜜を集めたみかん蜂蜜。

「今回、スキンケアコスメをこうして作れたのは、
無茶々園に関わる人たちが、"美しい景色を後世に伝えたい"と
ねばり強くやり続けてきてくれたからだと思っています。
このコスメを通して、無茶々園のこと、無茶々園のみかんのことを知ってもらい、
そして農業の未来について考えるキッカケになったらうれしいです」

高瀬さんは、地元に伝わるお祭りのかけ声「やー、えーとこー」から、
明浜の"いいところ"を発信する想いを込めて、
このコスメのブランドを「yaetoco(ヤエトコ)」と名付けました。

約40年前から、川越さんのような生産者とともに、
「無茶々園」がこの地で積み重ねてきたものが、
今、新たな風を明浜に吹かせ始めています。

有機生活マーケット「いち」

2012年12月07日

岡山生まれで、岡山市でヘアサロン「ヴィハーラ」を経営する、
高橋真一さん。

高橋さんは10年ほど前から、
サロンで使っているパーマ液などが人体や環境へ及ぼす悪影響を知り、
オーガニックなサロンづくりを目指す一方で、
「多くの人に循環可能な環境づくりの必要性を知ってもらいたい」
と「T.T.T.PROJECT」を主宰。

「T.T.T.PROJECT」の3つのTは
「ツナガリ」「ツナゲル」「ツナガル」の頭文字を表します。

地球温暖化、環境汚染、有害化学物質などの環境問題の現状を
いろんなツナガリから改めて知ってもらい、
自分たちのできることからアクションを起こすことで、みんなで今を変えていく。
周囲と次世代にツナゲル行動が、未来ヘツナガルきっかけになれば…
と、立ち上げたプロジェクトだそう。

本業の美容師の傍ら、ファッションやアート、デザインによる様々な展示や
イベントの企画などを運営してきました。

どうせやるなら岡山で同じ想いを持って活動している人ともっとツナガリたい!
そう思っていた時でした。
あの未曾有の大災害が起こったのです。

3.11をきっかけに、活動の方向性を模索していた高橋さんは、
2人の仲間と新たなスタートを切ることに。

仲間の1人が、岡山生まれで、
現在岡山市でNPO法人「タブララサ」の代表を努める、河上直美さん。

「タブララサ」は、ラテン語で「白紙の状態」を表し、
エコの要素を取り入れ、おしゃれに、楽しく、
何にもとらわれない真っ白な心で街づくりのアイデアを実現していく
20~30代のグループだそう。

もともと、素敵な場所なのに人通りが少ない場所の
魅力発信のためにイベントを行っていた彼ら。
イベントに出店をすると必ずゴミが出ることを解決できないかと、
"リユース食器"の普及、ゴミ分別など、様々な方法を模索し、
イベントの開催場所からゴミを減らす提案のほか、様々な活動をしています。

高橋さんとは、5~6年前に知り合い、活動の構想を話し合ってきました。

そして、もう1人が、大阪生まれで、東京を拠点に
クリエイティブディレクターとして活動していた、木内賢さん。
震災後、東京では"タブー"が増えたと木内さんは話します。

クリエイティブな世界を実現するためには、
本音と建前が入り交じった東京では正直に仕事ができない…
と西日本に移住を決意。

昔住んでいた徳島を目指すも、
電車を乗り換えた岡山で、友人に会おうとたまたま降り立ち、
その友人経由で高橋さんと知り合い、そのまま今に至るそうです。

さて、「ストレスのない心地よい都市生活を追求したい」
という共通の目指すべき世界を持つ3人は、すぐに意気投合。
準備をしていた構想を実現へと進めることにしました。

2011年11月から、これまでに4回、
「有機生活マーケット『いち』」を開催しています。

「いち」には、有機栽培、無農薬、減農薬、地産地消などこだわりの食材や、
それらを使った料理、エコなライフスタイルを提案する雑貨などを扱う
約40店が並びます。

出店者は人のツナガリで、高橋さんらの考えに共感する人たち、
「いち」を知る人たちが集まっているそう。

「『いち』を開催する前に、定期的に『茶会』を設けていて、
そこで価値観の共有がなされているんだと思います」
と高橋さん。

すると、河上さんが

「これは賢さんのアイデアで始まったことなんですが、
東京のParty文化を取り入れようって。
岡山で活動する私たちだけじゃ生まれなかった企画だと思います」

と重ね、続いて木内さんが

「その場を機能的にはしたくなくて。
説明会ではなく、雑談から始まる何かがあると思っていて。
生のエネルギーは、人間の興味関心と仲よし度から生まれると思うんですよね」

と加えます。

見事な3人の連携っぷりがうかがえました。

実際に「茶会」から、生産者さんと野菜を仕入れるカフェがツナガル事例も
生まれているそうです。

3人は、「いち」は町のコーディネーター的な役割を担っていると話します。
岡山は昔から災害が少なく"晴れの国、岡山"といわれるほど天気も良いので
そんなに助け合わなくても生活できてこられたんだとか。
そのため、横のツナガリがこれまで希薄だったそう。

「僕らが考えている"有機生活"というのは、オーガニックのモノを選ぶ
ということより、人と人とが有機的なツナガリを築いていくということ。
代替できるモノは代替しつつ、
出店者同士がコラボをしながら、持続可能な暮らしができる
新しい街を作っていけたらいいと思っています」

「有機生活マーケット『いち』」は来年度4月から定期開催するそうです。

「岡山でこれができたら他の県でもできるでしょ
っていう実例を見せたくて。
みんなが真似していって、自分たちの街の経済圏を自分たちで作っていく状態が
できたらいいと思いますね」

出身や職業、キャラクターの異なる3人がしっかりとツナガリ、
岡山の人を巻き込みながら新しい街づくりの形を示していっています。

百年の森林構想

2012年12月05日

以前、岐阜県の石徹白(いとしろ)でも触れた日本の森林問題。

国土の約3分の2を占める日本の森林の多くは、実は30年以上前に植えられた人工林で、
適正な環境に保つためには間伐し続けなければならない状況にあるにもかかわらず、
建材需要の低下と、安い海外産の木材に押され、木を切る人が減少しているのです。

全国各地の森林で起きているこの問題は、各地域の行政も頭を悩ませています。
そんななか、村ぐるみでこの問題に取り組み始めている村が、岡山県にありました。

岡山県の北東部、西粟倉村(にしあわくらそん)。

人口約1600人の小さな村は、
実に面積の95%が森林に覆われています。

「今から約50年前、子や孫のためにと、木を植えてくださった方々がいました。
その想いを忘れてはいけないと、西粟倉村では森林の管理をあきらめるのではなく、
美しい森林に囲まれた上質な田舎を実現していくことを決めたんです」

西粟倉村にIターンでやってきた坂田さんが教えてくださいました。

2004年、平成の大合併を拒み、自立の道を選んだ西粟倉村では、
先人たちが植え、50年にわたって育ててきてくれた森林こそが村の資源と置いて、
もう50年かけて立派な森林に育て、村の産業としていく決断を下しました。

約1,330人が持っている森林を一括して役場が管理、
事業の委託を受けた森林組合が間伐し、
それで得た収益は持ち主と折半、費用は役場負担という試み。

これが、西粟倉村の掲げる「百年の森林構想」です。

この決断に呼応するように2009年10月、一つの会社が立ち上がります。

増加する村の間伐材の加工、販売をはじめ、
地域資源を発掘し、発信していくことを目的に設立されたのが
(株)西粟倉・森の学校です。

拠点を構える廃校になった旧校舎は、
その役割を学校から、地域の情報発信基地として変化させながら、
今も存分にその存在価値を発揮していました。

先にご紹介した坂田さんも、この森の学校勤務。

校内をご案内いただくと、中にはオフィス機能はじめ、
間伐材を使った家具の展示スペースや、

木製雑貨、ならびに、村の特産品を扱うショップ、

さらに、村で採れる食材を使ったカフェまで。

昨今、ハンター不足による過剰な増加が問題視されている
鹿の肉を使ったカレーも提供されていました。

ここは地域と地域外の人をつなぐ場でもあり、
地域資源の循環を試みる場でもあるのです。

もちろん、置かれている木工製品の多くは、
西粟倉村の間伐材を使って開発されたものでした。

木のぬくもりをそのままに感じることができる、
木皿やお盆、木のスプーンや、無漂白の割箸。

さらに机・椅子といった家具まで。

普段の生活のなかに自然と西粟倉の木が溶け込むようなものばかりです。

その昔、建材需要に備え植えられた人工林は、
そのほとんどがスギ・ヒノキのため、木材のなかでは柔らかく、
業界では家具には向かないといわれ、使われることも少ないそう。

「西粟倉の作り手たちは、そうした業界の常識に捉われずに
企画・製作していったため、新しい商品が生まれやすいんだと思います」

坂田さんがそう話される通り、スギ・ヒノキ材の家具をはじめ、
なかにはこんなユニークな商品も。

「モクタイ」
ヒノキの柔らかい質感で、木目がそのまま模様になるという逸品です。

さらに、森の学校で注力しているのが、
セルフビルドという考え方。

家のリノベーションをするにも、施工業者に頼むのではなく、
「ユカハリ・タイル」と呼ばれる、
裏に遮音シートが張られた50cm四方の無垢の木を買ってもらい、

それを自分で床に敷き詰めていくだけで、

この通り、無垢の木に囲まれた温かみのある空間に様変わり。

家族との時間を犠牲にしてまで働いて得たお金で何でも買ってしまう、
という近代の日本の生活スタイルに警笛を鳴らし、
時間の使い方を根本から考え直してもらうための提案なんだそう。

また、「お客さんができるところは任せる」というスタンスで、
つくり手に過剰な手間ひまをかけさせず、
その分、余分なお金をとらないという考え方に基づいています。

ゆえに、タイルは無塗装。
お客さんが自身で好きな色に変化させていくことができるんです。

このように、木と共生することを決めた村では、
木とともに生活するための様々な工夫が生まれていました。

村ぐるみで森林を間伐し、その木材を利用していく取り組みとしては、
全国でも先駆けた事例のように思います。

日本の美しい森林を守るためにも、
こうした実情に目を向け、選択をしていくことが、
私たち消費者にも求められているのかもしれません。

地域ならではの宝

2012年12月03日

岡山県中央部に位置する美咲町(みさきちょう)が、
ある食べ物で町興しをしているという噂を耳にしました。

公園内の空き店舗を再利用した、「食堂かめっち」に行ってみると、
そこには40分待ちになるほどの人だかりが!

このお店が提供している食べ物とは…

そう、「たまごかけごはん」です。

美咲町出身で、明治時代を代表するジャーナリストの
岸田吟香(ぎんこう)氏が、「たまごかけごはん」を愛好し、
日本に広めたという説があることと、
町内に西日本最大級の養鶏場があることを理由に
2008年に「たまごかけごはん」専門店の同店をオープン。

ごはんとお味噌汁に、たまごとお新香というとてもシンプルなメニューですが、
お米は町内の棚田で栽培した棚田米、
たまごは町内の養鶏場から毎日入荷する生みたて、
そしてお醤油も地元のものという、美咲町づくし。

それも300円で、ごはんとたまごのおかわりが自由なんです!

お醤油をベースとした「しそ、ねぎ、のり」のオリジナルのタレで、
いろいろな味を楽しめるのもうれしいところ♪

それにしても不思議です。
ごはんにたまごを乗せて、お醤油を数滴かけただけのこの食べ物が
どうしてこんなにおいしいのでしょう…。

これも"地産地消"だからこそ、
この新鮮さを実現できているのだと思います。

地域ならではの資源を発掘し、磨いていくことで、
人を惹きつけることができるんですよね!

同じく美咲町に、地域の資源を活かして、
とあるファンを魅了している場所がありました。

吉ヶ原(きちがはら)駅。

ここは同和鉱業「片上鉄道」の駅で、
鉱山の閉鎖にともない、1991年6月に廃駅となったのですが、
ファンからの熱烈な要望により、駅と一部線路が残されました。

今では毎月第1日曜日にだけ、片上鉄道保存会によって
保存車両の展示運転が行われています。

鉄道は片道約300メートルだけ走り、
片上鉄道保存会の1日会員になると、車両に乗車することができるんだそう。

また、駅の入り口にはこんな看板が。

駅長猫!

残念ながら、その日は在宅勤務でしたが、
毎月第1日曜日には勤務姿がお目にかかれるそう。

代わりに見つけたカフェらしき小屋に入ってみると、
駅長猫には会えませんでしたが、ネコラテがありました☆

このラテを作ってくださったカフェ店主の森岡さんにお話を伺うと、
ご自身も片上鉄道保存会の方でした。

「片上鉄道の一部を残したことで、ここは人が集まる場所になりました。
それも、ゆっくりとですが徐々に人も増えていっているんです。
この"ゆっくりと"というのがポイント。田舎ではこのぐらいのペースがいいんです。
猫駅長のおかげで鉄道ファン以外の方もお越しいただけているんですよ」

とても印象的な言葉でした。
新しいものを作ることは簡単かもしれませんが、
古いものを壊してしまったら、それは二度と戻ることはありません。

「たまごかけごはん」にしても、「吉ヶ原駅」にしても、
地域ならではの資源を磨いていったことで、
それは今、地域の宝として陽の目を浴び始めています。

そんな美咲町の宝を味わいに、
月初めの日曜日には、2大スポットに出掛けてみてはいかがですか?

岡山県の愛され商品

あれ? なんだかくつろいでいますね!

スタッフさんが座っているのは、
体にフィットするソファ」!

岡山は倉敷で立ち寄った、無印良品 イオンモール倉敷では、
この「体にフィットするソファ」がとっても愛されている商品なんだそう。

私たちも以前から自宅で使っていますが、
座ると本当におしりにフィットして、座り心地抜群なんですよね!

「みなさん家族の分をそろえていらっしゃったりするんです。
平屋の家が多くて、家も広いからじゃないでしょうか」

カラーバリエーションもこの通り★

自宅に色違いでそろえられたらかわいいですね♪

伯州綿

2012年11月29日

鳥取県米子(よなご)市の米子駅から鳥取県境港市の境港駅に至る、
JR境線の上道(あがりみち)駅は別名「一反木綿(いったんもめん)」駅!

一反木綿は、鹿児島県の肝付町(きもつきまち)に伝わる木綿のような妖怪で、
かつては比較的無名な妖怪だったものの、
「ゲゲゲの鬼太郎」に登場してから一躍、名が知られることに。
なんでも境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」では1位に選ばれたそうです。

そして、この駅の前には偶然にも"コットン"畑が広がっていました。

実は、ここは境港市が管理している「伯州綿(はくしゅうめん)」の畑なんです。

「伯州綿」とは、300年以上前の江戸時代前期に
鳥取県西部・伯耆国(ほうきのくに)で栽培が始まった綿で、
最盛期には一大産地を形成し、北前船によって全国各地へ運ばれ、
鳥取藩の財政を支えるほどのブランド綿だったそうです。

しかし、関税撤廃による、安価な外国産綿の台頭により、
国の伝統的工芸品のひとつ「弓浜絣(ゆみはまがすり)」の主原料として
一部栽培される以外はほぼ衰退してしまいました。

2008年に耕作放棄地の解消策として、
休耕地の管理耕作用の作物を検討していた市役所職員が、
在来種の和綿「伯州綿」の試験栽培を行ったところ成功。

少ない労力で高齢者でも一定面積の栽培が可能なことが分かり、
2009年からは国の雇用対策事業を活用して本格栽培に取り組んでいます。

2009年度は約1ヘクタールにつき約668キログラムの収穫があり、
2012年11月現在、6人の職員を雇用して、約2.6ヘクタールで栽培を行っています。

綿の栽培方法は、かつての生産方法と同様に、
農薬ならびに化学肥料を使いません。
防草のためにマルチ栽培を行ったり、
天敵であるアブラムシ対策に、水で薄めた牛乳をかけたりと、工夫を凝らしています。

それでも、やはり除草作業には人手が必要…。

「昨年から"栽培サポーター制度"を導入して、
市民のみなさんにも栽培を手伝ってもらっているんですよ」

そう教えてくださったのは、境港市商工農政課の大道幸祐さんです。

"栽培サポーター制度"とは、境港市農業公社が畑の整備を担当して貸し出し、
種植えから収穫に至るまでの一連の作業を、一般の市民に参加してもらい、
最後にできた綿を農業公社が買い取るというもの。

現在、個人とグループ合わせて、
13組78人がサポーターとして参加しているようです。

私たちキャラバン隊が今回この「伯州綿」について知ったのも、
実は今年サポーターとして栽培に参加した方からの情報でした。

サポーターの方々によって収穫された綿は、加工され、
境港市の新生児および100歳になられる方に、
それぞれ伯州綿製品の「おくるみ」と「ひざかけ」として贈呈されています。

試しに触らせていただくと、ふんわりと柔らかい肌触り!
生成りの色合いが優しく、ぬくぬくと体を温めてくれそうでした。

また、前の年におくるみを受け取った親子は、
次年度の新生児のために種を蒔き、栽培に参加していくという取り組みもあるそう。

地元の特産品を、生まれた時から肌に触れて知ることができ、
また、ペイ・フォワードしていく(自分たちがしてもらったことを次へつなげていく)
このサイクルはとっても素敵ですね!

先月の10月には、国産綿について意見交換をする、
「2012全国コットンサミットin境港市」を開催。
全国の国産綿の主な栽培地などから、総勢約700人が参加し、
「伯州綿」の魅力を全国に発信しました。

「伯州綿は繊維が短いので加工が難しいのですが、
弾力があって、軽くて暖かいのが特徴です。
そして、何より農薬や化学肥料を使っていない国産綿は貴重です。
食だけでなく、"衣"にも安心安全の意識を持ってもらえたらいいですね」

農業公社では、今後、伯州綿の茎を使った和紙づくりや
綿の実から採れる油を石鹸などの加工品に使えないかと、
副産物の活用も視野に入れています。

トットリノススメ

2012年11月28日

「いいまちに住みたい。
どこかに引っ越してもいいけど、
ここを耕すって方法もある。

このまちの特殊性は
僕らが暮らしていることにある。
それは、砂丘やマンガよりずっと深くてゆるぎなく、
かつ、不確実で頼りない。

世界のほとんどは気持ちで出来ている、と思う。
僕らはたくさんの仲間とここに居る。
このあいまいで確実なコミュニティーが、
お互いに気持ちのチューニングをし合う
そういうまちに住みたい」

"街を歩いて、発見して、頭の中の地図を書き換える月間"
「トットリノススメ」のキャッチコピーです。

鳥取市では5年ほど前から、秋から冬に入るまでのあいだ、
市内の店舗や空きスペースを利用して、様々なイベントが催されています。

あるレコードショップではドキュメンタリーフィルムの上映会、
あるパン屋さんではトークイベント、旧病院跡では大学生が運営するカフェ、
など…。

どれも街の人が自主的に企画し、運営しているイベントです。

ちょうど私たちが鳥取市にお邪魔した時にも、
韓国焼肉レストランでトークイベントが催されていました。

その日は「ゲストハウスの作り方」というテーマで、
大阪と鳥取でそれぞれゲストハウスを運営する人たちによるトークセッション。

会場には、ゲストハウスに興味のある人から、
単純におもしろそうな人たちの話を聞きたい人までが集まり、
好奇心が交錯しながらの、心地よい時間が流れていました。

「1ミリでもいいから、鳥取に住んでいる人たちで幸せを感じ合いたい。
そんな想いを持つみんなで作っているイベントなんです」

そう語るのは「トットリノススメ」の発起人、本間公(あきら)さん。

鳥取の木を主な木材とした家具製作や店舗内装を手掛ける家具工房
「工作社」を営んでいる方です。

初めてお会いした瞬間、「ようこそ鳥取へ」と手を差し伸べられ、
どこか外国人の雰囲気を感じたのは、本間さんがもともと旅人だったからかもしれません。

岐阜県高山市での木工修業を経て、
タイ、インドネシア、オーストラリアといった外国を1年間放浪。

帰国後、年に5週間は休暇をとるという
オーストラリアのライフスタイルを実現すべく、
故郷、鳥取市に自身の工房を構えられました。

「帰郷したはいいんですけど、カフェはない、BARはない。
周りの人たちの気持ちもどこか都会に向いていて。
だったら、ないない文句言ってないで、作ればいいじゃん!」

そういって、運営したい人と一緒に、空き物件を見つけて、
カフェをオープンさせてしまいました。

古い建屋を改装した店内は、とても落ち着く空気が流れていて、
私たちも2日続けて、訪れてしまったほど。

都会のカフェとはまた一味違う魅力が放たれていました。

「このカフェによって、街中の人の流れも、人の意識も変わった。
"変わる"おもしろさを知ってしまったのはそれからだね」

この経験が、「トットリノススメ」のような企画につながったのでしょう。

旅に出たい衝動に駆られながらも、
「旅に出なくとも自分の身の回りを耕せばいい、
そのためには周りの人たちの意識を変えればいい」
そう考えるようになっていったんだとか。

本間さんは、「トットリノススメ」の役割を、
"気持ちのチューニング"と話します。

数々の民藝に代表されるものづくりや、人と人との近さ。
こうした鳥取の魅力を、この機会に再認識するきっかけになればと。

「イベント打って儲かるわけじゃありません。むしろ、採算は度外視。
各店舗の人たちが、あくまでも自主的に企画・運営しているんで、
気持ちが満ちればやればいいし、満ちなければやらなければいい」

そう話す本間さんは、あくまでもニュートラル。

今年4回目を迎える「トットリノススメ」には、10/28~12/9に、
16カ所(店舗含む)で20を超える企画・イベントが催されています。

「いいまちに住みたいから、ここを耕す」

鳥取のように、皆がそんな気持ちになれば、
きっと地域はもっと楽しくなるのではないでしょうか。

まんが王国とっとり

2012年11月27日

2012年は鳥取県が地域のマンガ・アニメカルチャーの豊かさをアピールする
「まんが王国とっとり」を建国した、
記念すべき年であることをご存じでしたか?

私たちが鳥取県に入った週末には、偶然にも米子(よなご)で
「国際マンガサミット鳥取大会」が開催されていました。

鳥取県は、『ゲゲゲの鬼太郎』の著者である水木しげる氏を始め、
『名探偵コナン』の青山剛昌氏や『神々の山嶺』の谷口ジロー氏など、
多くの著名なまんが家を輩出してきた県であり、
この素晴らしい鳥取県自慢の「まんが文化」を世界に広めていこうじゃないか!
ということで、「まんが王国とっとり」を建国したそうです。

といっても、鳥取県のまんがによる町興しは今に始まったことでもありません。
水木しげる氏の故郷・境港市には、1993年に
水木しげるの代表作である『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』
に登場する妖怪をモチーフにした銅像を設置する「水木しげるロード」を設置。

また、米子から境港市までをつなぐJR境線では、
「鬼太郎列車」が同年から運行されています。

普段、キャラバンカーで移動している私たちですが、
せっかくなので車を置いて、「鬼太郎列車」に乗って境港へ行ってきました!

各駅名には、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪名がついていて、
出発は「ねずみ男」駅(米子駅)から。

車内も鬼太郎一色で、アナウンスは鬼太郎と猫娘の声優さんが担当♪

もちろんれっきとした移動手段であり、地元の乗客も多く乗っているので、
はしゃぎ過ぎてはいけませんが、
なんだかアトラクションの一種のように、ワクワクしました!

45分ほど電車に揺られ、ついた先は「鬼太郎」駅(境港駅)。
ゲート(写真下)をくぐって、いよいよ"妖怪の国"へと入国すると…

そこには水木しげる氏の世界が広がっていました。

浮き立つ気持ちを抑えながら水木しげるロードを進むと、
なんと!!!
向こうから鬼太郎が歩いてくるではありませんか!

あまりにも自然に歩いていたのでビックリしましたが、
さすがは人気者、すぐにみんなに囲まれていました。

平日にもかかわらず、この人だかりです。

これまで他の地域でも、キャラクターによる町興しは見てきましたが、
ここまで徹底して行っている町は初めてだったかもしれません。

町と鉄道と市民、すべてが協力しないと、こうした町興しは難しいと思いますが、
その壁を乗り越えて実現しているとは素晴らしいですね。

「まんが王国とっとり」が次に何を仕掛けてくるか、楽しみです。

冬支度

鳥取県では、米子近くの無印良品 イオンモール日吉津
お邪魔してきました。

店長さんいわく、
「鳥取って西日本なので温かく思われがちなんですけど、
北陸と同じ日本海側でして、冬はとっても寒いんですよ」
とのこと。

店長さんは冬に雪で電車が停まって家に帰ることができず、
年末年始をお店近くのホテルで過ごしたこともあるんだとか…。

最近めっきり寒くなってきましたが、
これからもっと寒くなると思うと身震いしてしまいますね。

そんな冬に備えて、これからの時期活躍すること間違いなし!な、
こちらの人気商品をご紹介いただきました。

タッチパネル手袋」です。

3本の指先部分に導電性の糸を編み込んであり、
手袋をはめたままで、タッチパネルの操作ができるんです!

私たちも去年から愛用していますが、寒い中で手袋をはずさずに
スマートフォンをスムーズに操作できて気に入っています。

今年も間違いなく活躍してくれそうですが、
願わくは、もうしばらく手袋をはめなくてもいい気候が続きますように…。

海士町に生きる

2012年11月22日

島根半島の沖合、約60kmに浮かぶ隠岐(おき)諸島。
その一つの中ノ島に、海士町(あまちょう)という町があります。

面積33.52平方キロメートル、周囲89.1kmという小さな島では今、
約2300人の人口のうち、300人強がIターン者で占められ、
20~30代の人口が増加傾向にあるという、驚異的な現象が起きています。

一体、海士町ではどんな取り組みが行われているのでしょうか?

好奇心に駆りたてられ、1泊2日の強行スケジュールで訪れました。
高速船に揺られること約2時間。

夕方の到着にもかかわらず、
海士町役場職員の山斗さんが快活な笑顔で迎えてくださいました。

なんと海士町役場は年中無休なんだとか!
町長の号令で役場を「住民総合サービス株式会社」と位置付けており、
島への訪問者に対しても、常に受け入れてくださる体制を敷いているようなのです。

到着するや否や、とても晴れやかな気分になりました。
実は海士町がこうした風土になったのにも、様々な背景がありました。

大学や専門学校のない海士町では、高校卒業後、進学者は島を出てしまい、
就職先がないという理由で島に戻ることがほとんどなかったそう。

人口減少に歯止めがかからず、高齢化率も約40%を迎え、
おまけに公共投資によって膨らんだ多額の債務…。

そんななか、平成14年に市町村合併の波が島を襲います。
俗に言う、平成の大合併です。

「超過疎」「超少子高齢化」「超財政悪化」の、
三重苦のなか、押し寄せる合併の波。

窮地に立たされた海士町は、役場と住民で徹底的に話し合い、
結果、出した結論は、「自立」でした。

ここから海士町の、地域再生のための挑戦が始まります。

「守り」と「攻め」の戦略を立て、
「守り」では行財政改革を断行します。

人件費を極限まで切り詰め、町長自らが給料を50%カット。
当時、日本一給料の安い公務員となったそうです。

「攻め」の戦略では、外からのお金を獲得すべく、
ターゲットを東京に定め、島の資源を活かした特産品開発に乗り出します。

島ブランド定着のために、絞ったキーワードは「海」「潮風」「塩」の3つ。

まず、島の海産物のことを指す「海」では、
細胞を破壊しない新冷凍技術CAS(Cells Alive System)を導入しました。

当時の財政状況からすると、超高額投資ですが、
このテクノロジーによって、新鮮な状態で島から白イカの出荷が可能になり、
東京のオイスターバーで好評を得た「いわがき」をはじめ、
数々のヒット商品が生まれていきました。

続いて、「潮風」とは、
海からの潮風をたっぷり浴びた天然牧草を食べている黒毛和牛のこと。

それまでは、交配させ生まれた仔牛を島外へ販売していたところを、
地元の建設業者が畜産業へ参入し、島内で繁殖から肥育→出荷までを担い、
新たな「隠岐牛」ブランドを作り上げました。

出荷された牛肉は、最高ランクのA-5が5割を超えるほど、
高級和牛としての認知を確立しつつあるようです。

そして最後は、その名の通りの「塩」。

すべての特産品開発の原点となる「塩」を
島の伝統製法によって復活させ、「海士乃塩」として展開。

限りなく海士町らしい商品開発のために、
島の特産品にも使用されています。

こうした「攻め」の戦略によって、徐々に島の財政は改善へ。

「その裏には、島のために活動する多くの"人"の姿があるんです。
多くのIターンの方も、海士町のために力を貸してくださっています」

山斗さんがそう話す通り、海士町には実に多くのIターン者の姿がありました。

海士町の「集落支援員」として活動する、
花房さん(左)、寺田さん(右)もIターン組。

広島県出身の花房さんは、大学卒業後すぐの5年前に、
東京のIT企業で働いていた寺田さんは、
今年の5月に島へ移住してきました。

島の住民と触れ合うなかで、
お年寄りの方の愛着があって捨てられなかった古道具を集めた
古道具市を開催するなど、地域の触媒役として活躍しています。

島に移住し、起業した阿部さんもIターンの一人。

皆さん本当にイキイキとした表情をされていますね。

京都大学卒業後、トヨタ自動車(株)へ就職するも、
「持続可能な社会モデルを作りたい」と、
2008年、海士町へ移住し、仲間とともに(株)巡の環を設立。

島に根ざすための「地域づくり」事業、
島を知ってもらうための「メディア・WEB制作」事業、
そして、島まるごとを"学びの場"として企業や大学を島外から招き入れ、
フィールドワークとワークショップを行う「教育」事業と、
その領域は多岐にわたっています。

「地球1個分を超えた経済活動に、学生時代から疑問を持っていまして。
そんな時、島まるごと社会のモデルを目指そうとしている海士町の存在を聞き、
島の人たちと一緒に、持続可能な社会を追求したくて移住を決めました」

そう話す阿部さんは、自身のライフスタイルも、生命力にあふれたものでした。

会社として田んぼも運営する傍ら、個人で舟も所有され、
夏には素潜りで漁に出るという阿部さん。

「最近じゃ"仕事"と"プライベート"という言葉で
表現されるライフワークバランス。
島では、"くらし"と"仕事"と"稼ぎ"の3つが、
同じ活動のなかにあることに気付きました。
島でいう仕事とは、地域を守るために必要な役割のこと。
日本社会が忘れつつある生活が、島にはあります」

こうした若い人が海士町を知るきっかけの一つに、
2006~2009年に実施された「AMAワゴン」という企画がありました

「人が来ないならば、呼べばいい」と、
海士町から東京まで往復でワゴンを走らせ、
20人ほどの学生と若手起業家を海士町へ招き、
島の学校で出前授業をしたり地域との交流をする企画です。

「この時のネットワークが、
今の海士町にかかわる人たちにつながっているといっても過言ではありません」

山斗さんはそう振り返りながら、
同時に、企画の実現と成功のために頑張った
役場の課長たちの存在が大きかったと話します。

最近では、特に目立った観光名所のない海士町の売りは"人"として、
人々との出会いを楽しむ旅のガイドブック『海士人』も創刊。

町長はじめ、住民、U・Iターン、過去の歴史上の人物まで、
海士にまつわる魅力的な人たちが紹介されていました。

島国で同様の問題を抱えているという面では、
海士町はいわば日本の縮図のようなもの。

状況を打破するためには、
改めて島の資源を見直すとともに、
柔軟な舵取りが大切なことを知りました。

そして、そこにあるのは常に人の"情熱"。
それが人から人へと伝播し、社会を構成していくという好実例が、
ここ海士町にはあるように思います。

"A級グルメ"の町

2012年11月21日

"B級グルメ"は聞き慣れた言葉になりましたが、
"A級グルメ"というワードを、
島根県邑南町(おおなんちょう)で初めて聞きました。

島根県の中部に位置する邑南町は、2004年10月に
旧石見町(いわみちょう)、瑞穂町、羽須美村(はすみむら)
の合併により誕生した町。

豊かな自然に囲まれ、寒暖の差を生かした水稲を中心とする
農業文化を形成する地域で、
現在 、"A級グルメ"による町づくりを行っています。

早速、仕掛人に会いに行きました。
現れたのは、パリッとジャケットを着こなした男性。

開口一番、出てきたのが
「昨日シンガポールから帰ってきましてね…」
という言葉で、なんだか商社マンのようですが、
彼は邑南町の商工観光課に勤める、寺本英仁さんです。

旧石見町ご出身で、東京の大学を卒業後、地元に戻って町職員に。
2004年の3町村合併時に、町の産業振興の担当になり、
道の駅の産直市や、地元産の和牛などを扱う通信販売サイト「みずほスタイル」
を次々と立ち上げていきました。

「地元の人は売れるという確信が持てる、青信号の状態じゃないと進めない。
赤か黄色か分からない時に切り込んでいくのが、行政の役目だと思ってます」
と寺本さん。

2005年にスタートした通信販売サイトですが、
当初、生産者はマイナス思考で、売れるかどうか疑問視していたそう。
そこで、寺本さんは発想の転換でモノの見せ方を変えていきました。

例えば、地元の石見和牛を売っていく際に
生産者は「うちには200頭しかいないから…」というところを、
寺本さんは「200頭限定の石見和牛!」というように変換。

「みずほスタイルをやって分かったことは、
モノが売れて外からのお金を獲得することが、町を元気にするのではなく、
モノが売れることが、モノづくりの人を元気にするんです」

通信販売という新しい販路が築け、モノが売れるようになり、
後継者が戻ってきたことに生産者は一番喜んだといいます。

また、2008年より毎年、全国の"田舎のお取り寄せ逸品"を
認定していくプロジェクト「oh!セレクション」を実施し、
審査委員長に料理愛好家の平野レミさんを招くなど、
PR活動に勤しんだ結果、邑南町の特産品の認知度は上がり、
一定の評価も得るようになりました。

しかし、質は評価されても、量がないのが弱点でした。
それなら、「ここでしか味わえない食や体験」を"A級グルメ"と称し、
人を呼び込んで、町内で完結させる「究極の6次産業化」を目指そうと、
取り組み始めたのが、2011年のこと。

その拠点として、2011年5月には、地元産食材を味わえる
町営のイタリアンレストラン「素材香房ajikura(味蔵)」をオープンさせました。

ここでまた面白いのが、そのプロデュースを担うシェフたちを
都市部から募集し、任せていることなんです。

シェフの三上さん(写真左)は、広島からUターン、
"耕すシェフ"の安達智子さん(写真右)は、横浜からIターンで
邑南町に定住しながら、野菜等の栽培から料理の提供までを行っています。

ちなみに"耕すシェフ"とは、将来的に邑南町で飲食店等の経営を目指す人を、
3年間の期限付きで町が募集しているもので、現在5人の"耕すシェフ"が活躍中。

安達さんは前職のネット広告代理店の経験を生かして、
情報の発信源となり、月1回、農家の方を招き、
その方が育てた野菜を使ったコース料理を楽しみながら、
生産者の想いを聞くことができる「生産者ライブ」の企画・運営も任されています。

島根県でこのような取り組みが10年ほど前からなされていたのは、正直知りませんでした。
こうした積極的な活動が行われているのはなぜなのかを寺本さんに尋ねると、
こんな言葉が出てきました。

「"過疎"という言葉は、実は島根から生まれたものなんですよ」

島根県西南端にある益田市匹見町は、1950年頃には7500人を超えていた人口が
1963年の豪雪後、人口流出が続き、現在は2000人を切っているそう。
また、65歳以上人口比率が53%を超える地域です。

「今我々がしていることは、10年後の日本につながる取り組みだと思っています。
『自分は何のために暮らすのか?』を考えた時に、
それは『自分らしさの追求』にあると思っていて。
そして、それは田舎の方が実現しやすいんじゃないかなって思うんです。
競争を生むのではなく、お互いを認め合う、
多面的な考えを認められる土壌づくりをできたらと考えています」

邑南町では、"A級グルメ"の町おこしのほかにも、
婚活イベントや子育て支援にも力を入れています。

「過疎化」は全国各地で起こっている、もしくは今後課題となってくること。
そして、邑南町には、そのヒントがたくさんありました。

なっちゃんと古民家

2012年11月09日

"山口愛"を競ったら右に出る人はいないんじゃないか…

そう感じさせるパワーと情報と人脈を持つ、
一人の女性と山口市で出会いました。

彼女の名前は松浦奈津子さん。
通称「なっちゃん」です。

初対面なのにそうは思えない人懐っこさで、
おもわず、すぐに「なっちゃん」と呼んでしまいました。

ちょうどお引っ越しで忙しい最中、お時間をもらい会いに行くと
「いらっしゃ~い♪」
と彼女が出てきたのは、とても趣のある家屋でした。

「昭和18年に建てられた古民家なんです」

岩国市で生まれ、山口の大学に進学したなっちゃんは
卒業後、地元の地域情報紙の記者として
山口中を駆け回っていたそう。

その後、結婚を機に退職し、出会ったのが
「古民家鑑定士」の資格でした。

「古民家って単に古い家のことをいうのかと思っていたんですが、
ちゃんと定義があって」

古民家とは、釘などを使わない伝統的日本建築で建てられた建物を指し、
昭和25年に建築基準法が制定されてからは
もう建てることのできない建築様式なんだそう。

「古民家は日本の技術と文化の象徴だなぁと思って!」

学生時代に海外を旅していたなっちゃんでしたが、
当時日本のことを伝えられなかったもどかしさが残っていて、
「古民家を通して日本と山口のよさを世界に発信できたら」
と「一般社団法人 おんなたちの古民家 グリーン建築再生機構YAMAGUCHI」を
2011年3月に立ち上げました。

そして、古民家を売りたい人や維持に悩む人、
リフォームしたい人の相談に乗り、
同時に古民家に住みたい人のマッチングも行っています。

全国に3000人ほどいる古民家鑑定士ですが、
そのほとんどが男性ということで、
女性視点での提案を強みに活動中。

月1回「古民家大好き女子部」を開催し、
ランチ会やコンサート、また古民家に関する勉強会をしたりと、
古民家の魅力を発信しています。

それは日本だけにとどまらず、
昨年にはニューヨークで活躍するアーティストのマイク・ペリーを招いたり、
すでに海外へも届き始めている模様。

続いて、なっちゃんの紹介を受けて、
昨年11月に萩市佐々並(さざなみ)にある古民家に移住をした
久保さんを訪ねました。

「佐々並音楽堂」と入り口に掲げられた看板。
久保さんは作詞・作曲や執筆をされている方で
住居兼活動の場をここに構えられたのです。

というのも、今回の入居者の条件は
「古民家に住みながら地域を盛り上げる活動をしてくれる人」
だったんだとか。

萩市と山口市のちょうど中間にある佐々並地区は、もともと
萩往還(江戸時代に整備された萩と三田尻を結ぶ街道)沿いにある
宿場町であり、国の重要伝統建造物群保存地区にも指定されています。

しかし、最近では過疎化が進み、
それをどうにかしようと奮闘する地域の振興会からの依頼で
なっちゃんが入居者を募集したという流れ。

入居希望者が自分のやりたいことを
古民家オーナーさんと地域の代表者にプレゼンして、
最終的に久保さんに決定したんだそうです。

「自分が佐々並の広報大使になりますよ、とお話ししました」

兵庫県ご出身の久保さんですが、仕事の関係で全国を回り、
5年前から日本一住みやすいと感じた山口県の山口市に定住。
どうせ住むならもっと田舎で、ものづくりに集中できる場所を探していた時に、
知人経由でなっちゃんを紹介され、
物件に惚れて、企画に応募されたといいます。

実は久保さんは3年ほど前から、山口の老若男女を対象にした
「山口で生まれた歌」を制作し、地元のケーブルTVで発信しているんです。

「その地域の人たちの感性に合った音楽があっていいと思うんです。
"文化の地産地消"を促していきたい」

久保さんは佐々並音楽堂で、山口の季節と風情に合った歌を
地域の人に聞いてもらう場を設けたりと、
すでに地域を盛り上げるべく活躍中でした。

山口のことを話し始めたら止まらない、なっちゃん。
次から次へと山口のホットな情報が飛び出します。

「古民家ではないんだけど、昭和の家をリノベーションして、
珈琲を焙煎している、めっちゃハイセンスな夫婦がいるんですよ!」

ちょうど珈琲ギフトを注文していて受け取りに行くという
なっちゃんについて行くと…

そこには雑誌やドラマのワンシーンに出てくるような素敵な空間が☆

ここは珈琲の焙煎と、珈琲道具と珈琲生活空間の提案を行う
「CAPIME coffee(カピンコーヒー)」の
亀谷夫妻のご自宅兼アトリエ。

"和"を活かしながら、"洋"がうまく合わさっている
絶妙な空気が漂っていました。

「ひとつでも多くの古い家を後世に残して、
日本の住文化を未来につなげていきたいと思っています」

そう話すなっちゃんに、最後に気になる質問をぶつけてみました。

山口をこれまで離れようと思ったことはなかったのか?

これまで見てきた私たちの感覚では
一度地元以外の世界を見てきた人の方が、
地元の良さがより分かったり、
地元を盛り上げたいと想う気持ちが強いように思ったのです。

「2006年によさこいのチームを立ち上げて、
それがあったから地元に残っているのかも」

「長州よさこい連 崋劉眞(かるま)」の演舞で
全国を駆け巡っている、なっちゃん。

山口県内にずっと住みながらも、
なっちゃんはよさこいの活動を通して、
山口を客観的に見る機会を得ているのかもしれません。

萩・維新塾

2012年11月08日

山口県北部に位置する萩市(はぎし)は、
江戸時代に、長州藩の本拠地として栄えた都市であり、
今でも歴史の面影を色濃く残す城下町です。

萩市内の小学校では、朝の時間には、
萩出身の幕末の志士、吉田松陰の言葉を朗唱するなど、
現代においても長州藩のDNAは引き継がれています。

そんな萩市において、
現代版、松下村塾のような取り組みが始まっていました。

「萩・維新塾」

萩市が音頭をとって、萩の若者を公募し、
互いに学びあい教えあいながら、
まちづくりに参加していくという試みです。

萩市に在住、または就労している18~40歳の
意欲のある会社勤めの方や自営業者が積極的に参加したんだそう。

活動では、
萩市にある世界最小といわれる活火山「笠山」の楽しみ方を
提案するイベント「笠山プロジェクト」を開催したり、

地元の商店街の空き店舗などを活用し、
ハロウィンイベントを企画するなど、

町の活性化のために若い力が精力的に動いていました。

また、来春には維新ゆかりの町の特性を活かして、
歴史好きの女子に萩の魅力について語ってもらうイベント
「幕末・維新girl'sサミット」も企画中。

若者のアイディアと行政の推進力によって、
斬新な企画が次々と実現されていっています。

主催する萩市まちじゅう博物館推進課の畠中さんに
お話を伺うことができました。

「この活動は、長州に長く伝えられている言葉、
"草莽崛起(そうもうくっき)"の理念に則っているんです。
志があれば、誰でもまちづくりに携わることができることを知ってほしい」

"草莽崛起(そうもうくっき)"とは、吉田松陰が維新への決起を促した言葉で、
志を持った在野の人々こそが、日本の変革を担う原動力になるということ。

まちづくりを行政や商工会任せにすることなく、
地域の若者たちが参加できる仕組みを作り、
それに積極的に参加する人たちがいることは素晴らしいですね。

この萩・維新塾から、
萩の経済活性化のために独立を果たし、活躍し始めている人も出ています。

萩産の野菜をプロデュース販売する椋木(むくのき)さんもその一人。

東京のTV制作会社で勤務していた椋木さんは、
地元の活性化に取り組むべく2009年に帰郷。

低所得かつ重労働ゆえに減りゆく農家の実態に奮起し、
萩・維新塾を経て、昨年、農業分野で起業しました。

「萩にも農家の方が一生懸命、手塩にかけて育てた野菜がたくさんあるんです。
僕はそれらを仕入れ、背景を伝えながら展開し、
"萩野菜"ブランドを確立したいと思っています」

椋木さんのプロデュースする萩産野菜の棚は、
地元で一番大きいスーパーの野菜売り場の一等地にもありました。

野菜の背景にあるストーリーを伝え、新鮮なうちに適正価格で販売することで、
萩産の野菜を選び、買ってくれる地元の人も増えたんだそう。

「野菜は儲からないなんて、誰が言ったんだ!って(笑)
この事業で雇用を生み出し、若者に萩で働ける環境を作るのが、
僕なりの萩活性化策です!」

椋木さんの活動は、確実に萩活性化の一翼を担い始めています。

吉田松陰が唱え、萩・維新塾が現代に提唱する
"草莽崛起(そうもうくっき)"、
まさに、今の日本にも必要な教えではないでしょうか。

下関の新名物

2012年11月05日

山口県では無印良品 ゆめシティ新下関を訪ねました!

すると、そこで待ち構えていたのは…、

ペアルックを着こなした男性店長と副店長コンビ。

うれしいことに、下関らしいフグの飾り物を掲げて
出迎えてくださいました☆

そう、下関といえば全国で水揚げされたフグの
7~8割が集積される一大拠点。

フグ鍋「てっちり」なんかの季節も近いですね♪

そんなつながりで、
こちらのお店の人気&オススメ商品はこちら↓

土鍋」です!

「こたつに入って鍋で温まろ~」

なんて季節ももうすぐそこ!

ところで、フグの産地として知られる下関には、
もう一つ漁獲高日本一を誇る魚があることをご存じですか?

その答えは、こちら!

「あんこう」です。

深海魚のあんこうは、
下関漁港を基地とする沖合底曳網漁船が捕獲してきましたが、
5年ほど前までは地元でほとんど消費されず、県外へ出荷されていました。

その奇妙な出で立ちと、ぬめりによる調理のしにくさゆえに、
猫も敬遠して食べない"猫またぎ"と揶揄され、
漁港にあがっても邪険に扱われていたんだそう。

そのあんこうに着目し、
下関の新名物を作ろうと立ち上がった人がいました。

下関市内でふぐ料理屋を営む「旬楽館」の女将、高橋さんです。

高橋さんは、2006年に下関商工会議所が主催した
「下関うまいものづくり名人」のコンペに、
「あん肝のみそ漬」を考案し、出品。

これが見事、「マイスター」を受賞し、
現在では、あんこうを下関地域ブランドにすべく、
「あんこうプロジェクト」も発足し、これに尽力されています。

「昔に食べたことのあった、あん肝の味が忘れられなくて。
あんこうなら、あん肝を使いたいとかねてから思っていたんです」

そう話す高橋さんが開発された「あん肝のみそ漬」は、
病みつきになる味わいでした。

今では、店舗でもフグ料理に加えてあんこう料理も提供し、
あんこうの下関料理への定着にもひと役買っています。

驚いたのが、高橋さんはこう見えて今年70歳を迎えること!

55歳で「女性でも気軽に入れるフグ料理屋を」との想いで起業し、
65歳から、下関のあんこうブランド化事業に携わっているわけです。

なんとお元気なことでしょうか…。
元気の秘訣を伺うと、

「まだまだやらなきゃいけんことが多いですからねぇ」

と、ひと言。

地域の活性化に年齢は関係ないということを、思い知らされました。

下関に行ったら、「フグ」に「あんこう」。
これ、鉄板ですよ!

竹あかり

2012年09月26日

お祭りなどで目にする演出といえば、

花火や、

提灯などありますが、
近年、注目を浴びている演出があります。

「竹あかり」です。

写真の熊本「みずあかり」をはじめ、
大分県では臼杵市の「うすき竹宵」、日田市の「千年あかり」、
竹田市の「たけた竹灯籠 竹楽」、佐賀県の「清水竹灯り」など、
九州の各所で竹あかりを演出に使ったお祭りが、
秋の風物詩となっています。

この竹あかりを、日本を代表する演出にすべく、
精力的に活動するチームに、熊本県阿蘇市で出会いました。

「ちかけん」

池田親生(ちかお)さんと三城賢士(けんし)さんによって設立された、
竹あかりの制作・プロデュース集団です。

丸ノコギリのけたたましい音に包まれた工房内には、
竹と格闘するたくましい男たちの姿がありました。

「僕らは竹のオブジェを作っているわけじゃないんです。
人と人とをつなげる手段として、竹を祭に使っているんです」

ちかけん代表の一人、三城賢士さんは、
気さくな笑顔でそう話してくれました。

彼らが目指しているのは、祭の演出屋にとどまることなく、
地域の人たちを巻き込んだまちづくり。

竹あかりを作る工程から、地域の人たちを巻き込むことによって、
希薄になった地域のコミュニケーションを活性化させるのが、
ちかけん流まちづくりのやり方です。

2007年から関わる熊本の「みずあかり」でも、
彼らが手掛けるのは、竹あかりデザイン企画、制作指導まで。

準備は町の人総出で行います。

「竹は2~3カ月もするとカビたりくすんだりしてしまうので、
年に一度の祭のためには、毎年作り直さなくてはなりません。
だからこそ毎年、地域の人たちが顔を合わすきっかけになるんです。
同じベクトルに向かって作業すると、自ずと結束固まりますでしょ」

こうして地域の人たちによって作られた竹あかりの灯す光は、
人々の結束をも照らし出すかのように輝きます。

私たちも竹あかりの制作体験をさせてもらいましたが、
これが思いのほか楽しくてハマってしまう作業でした。

汗水かきながら作った竹あかりに光が灯ると、
感動もひとしお。

人々の結束意識が高まるというのも分かる気がします。

こんな彼らの活動は、熊本・九州にとどまることなく、
京都、南丹灯りの祭典や、

表参道のイルミネーションなど、全国に広がっています。

「できるだけその地で採れる竹を使うようにしています。
里山の竹林は、間伐してあげないと生態系を壊してしまうので」

まさか、彼らの取り組みに、
環境保全の意味合いも含まれているとは驚きでした。

もともと人の手によって植えられた竹林。
竹が増えすぎた林は、新しい竹が生える際、
田畑や杉・ひのきの山に侵食してしまうようなのです。

こうならないよう間伐をして、適正な竹林を保たなければ、
毎年、タケノコも育たなくなってしまうのだそうです。

この間伐材の幹の部分を竹あかりに利用するわけですが、
細い幹や笹の葉の部分は堆肥として生まれ変わり、
農業用に利用されます。

そして、竹あかりで役目を終えた竹も、
竹炭・竹酢液として再利用。

彼らの取り組みは、まちづくりを促すのみならず、
竹林の再生と環境循環を実践しているわけです。

もともと同じ大学の同じゼミで出会った二人。
問題意識もノリも似ているそう。

「楽しいと思ったことは、何でもやってしまうんです。
引っ越しから政治家の討論会の企画・運営まで。
ビジネスとそれ以外を切り分けなくちゃいけないんですけどね(笑)」

好奇心に突き動かされる彼らの活動が、
社会に大きなインパクトを与え始めています。

郷中教育

2012年09月21日

幕末維新期に西郷隆盛、大久保利通ら
数々の有力な人材を輩出した、かつての薩摩藩。

沖縄県を除く日本の最南端に位置しながら、
薩摩藩の人材が維新のイニシアチブを担った背景には、
独自の教育システムがありました。

郷中教育(ごじゅうきょういく)。

郷中教育とは、同じ地域内(郷中)に住む武家の青少年に対し、
自発的に実践された集団教育のこと。

最大の特色が「教師なき教育」で、
先輩が後輩を指導し、同輩はお互いに助け合う、
いわば学びながら教え、教えながら学ぶという仕組みになっていました。

豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役によって、
多くの大人武士が駆り出されたことに端を発するようです。

その目的は、学問もさることながら、
武芸の鍛錬や日常のしつけ、勇気と根性を養うもので、
武士としての生き方を追求したものでした。

「負けるな、嘘を言うな、弱い者をいじめるな」

といった教えに代表されるように、
学問や鍛錬の場では真剣に競い合いながらも、
どんな時も正々堂々と振る舞い、卑怯を憎み、自分より弱い者をかばう、
という薩摩男子の目指す生き方そのものでした。

かつてのイギリスの軍人、ベーデン・パウエル卿が、
この制度をモデルにしてつくったのがボーイスカウトとする説もあるくらいです。

この郷中教育を、現代においても教えている場所があると聞き、
訪ねました。

場所は、姶良(あいら)市加治木町にある
精矛神社(くわしほこじんじゃ)の境内。

そこには、雄叫びをこだまさせながら、
剣術に励む若者たちの姿がありました。

薩摩の代表的剣術、「自顕流(じげんりゅう)」です。

薩摩の剣は「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」といわれたほど、
防御のための技は一切なく、先制攻撃による一撃必殺を極意としました。

そのスピードは、新撰組の近藤勇局長が隊員たちに対し、
「薩摩の初太刀を外せ」としつこく言い続けたほど。

それは、厳しい鍛錬による賜物でした。

例えば、「続け打ち」と呼ばれる鍛錬の一つは、
叉木に置かれた数十本の横木の束を打ち続けるというもの。

一見、単純ですが、本気で振ると一太刀で汗が噴き出します。
おまけに、打った衝撃に耐えうるだけの力も必要。

これを昔は、朝に3000回、夕に8000回、
合計1万1000回も打っていたというから驚きです。

この自顕流の剣術の鍛錬で体力面を鍛え上げ、
精神面の鍛錬には、薩摩琵琶や天吹(てんぷく)を奏でます。

両者とも薩摩の武士のあいだで伝承されてきた楽器です。

神社の境内の静かな室内に響く天吹の音色には、
心の邪念が払われるような不思議な力がありました。

これら郷中教育を今の時代に教えているのは、
NPO法人「島津義弘公奉賛会」が運営する「青雲舎」。

明治25年に創設された後、
平成12年にNPO法人として復活を遂げた組織です。

その運営法は、あくまでも昔からの郷中教育に則り、
来る子・人に対しては無償で教えるというスタンスなんです。

運営者の一人、川上さんは、
「自分がこの地でしてもらってきたことを、後世にもしてあげたい」
と、その想いを語ります。

そして、将来的には、
薩摩藩の下級武士から国政の舞台にまで上り詰めた西郷隆盛を目標に、
鹿児島県からアジアのリーダー、世界のリーダーを生み出したい、
と、目標を語ってくださいました。

今も鹿児島の地で脈々と継承される郷中教育。

その精神、その教えには、
現代においても学ぶべきことがたくさんあるように思いました。

綾町の美しい町づくり

2012年09月14日

宮崎県のほぼ中央、宮崎市から西に約20kmの地に、
多くの緑に囲まれた美しい町があります。

綾町(あやちょう)。
人口7200人強の小さな町です。

今、この小さな町が世界中からの注目を集めています。
2012年7月11日、ユネスコのエコパークに登録されたのです。

ユネスコのエコパークとは、一言で言うと、
地域の文化を守りながら、地域社会の発展を目指す地域のこと。

評価された点は大きく以下の点で、
日本固有種の多い照葉樹自然林の面積が日本一広く、
その保護・復元活動に積極的に取り組んでいる点と、
町を挙げて有機農業を推進し、自然と人間の共存に配慮した地域振興策。

約380戸ある農家のすべてが、
綾町の認める有機農業に準じているのです。

そもそも綾町が有機農業を推奨し始めたのは昭和48年のこと。
今でこそ有機栽培された野菜が注目されていますが、
当時から町ぐるみで有機農業に舵を切っていたとは驚きです。

そこには、亡き郷田実、前町長の強力なリーダーシップに基づいた
町政がありました。

『命を守り心を結ぶ-有機農業の町・宮崎県綾町物語-』(自治体研究社)
によると、前町長は、町づくりの目標は、
「目先の住民ニーズよりむしろトレンド(方向・近未来像)を示すこと」と置き、
「心の豊かさ・余暇を楽しむ・健康を買う時代の到来」と捉えます。

そして、かつて農山村の伝統であった『結いの心』に焦点を当て、
町民が生き生きした生活文化を楽しむ町づくりを推進しました。

昭和40年代前半、
綾町にも大規模な国有林の伐採計画が持ち上がったことがありましたが、
前町長は、「照葉樹林を町の発展のために最大限に利用したい」として、
国に直談判をし、計画を阻止。

その後、「森を守ろうという気運を高めたい」と、
照葉大吊橋の建設を決めました。

同時に、「自然の仕組みを生かし、健康な野菜をつくろう」と
地域住民に対して有機農法を導入した、一坪菜園の推進と
野菜種子の配布を行ったのです。

現在、綾町役場で有機農業振興係を務める
入田さんにお話を伺いました。

「綾町では、昭和63年には全国に先駆けて、
自然生態系農業(有機農業)の推進に関する条例を制定しました。
家庭から出るし尿や生ごみ、家畜糞尿などを町で回収して、
堆肥や液肥にリサイクルすることも進めています」

こうした取り組みも、前町長の提唱する
「土づくり」の考えに基づいたものです。
「薬をかけないとは言わない。土をつくれば薬は必要なくなる」
町内で資源循環を行うシステムが出来上がっているのです。

「さらに綾町では、管理状況に応じて、
農産物のランク付けを実施しています。
厳しい基準の認証制度をクリアしているので、
安心・安全な自然生態系農産物の証といえると思います」

認定は、過去の農地の管理状況に加え、
栽培された作物の栽培管理状況によって、
総合的にランク付けされるようです。

入田さんにお薦めされ、地元で生産された新鮮な有機野菜などが並ぶ、
町中の「手づくりほんものセンター」に足を運ぶと、

そこには確かにランク分けされた野菜が並んでいました。

こうした農産物は、町内の公共施設をはじめ、
学校給食の食材にも使われていますが、
最近では、県内はもとより県外へも販路が拡大し、
町内への供給がひっ迫するほどだそう。

そんな綾町へは有機農法による農業を求めて、
毎年30組ほどの移住希望者がいます。

町では有機農法の厳しさを正直に伝え、それでも取り組みたい、
という希望者を、年間3~5組受け入れているそうです。
観光客に関しては、年間120万人が訪れるまでに。

綾町の町づくりは、
あくまでも地域住民が生き生き楽しく暮らせる町をつくることであって、
そこに時代と周囲が付いてきているのです。

帰りがけ、前町長の娘さんが営まれている、
「薬膳茶房オーガニックごうだ」へと立ち寄りました。

限定メニューで提供される料理の数々は、
どれも健康と美味しさのバランスが取れたものばかり。

綾町には、
町づくりのうえでも、人が生活を営んでいくうえでも、
様々なヒントが隠されているように感じました。

別府のいいものみつけた

2012年09月05日

大分県別府市。

市内各地で温泉が湧出し、源泉数は2800ヵ所以上。
日本の総源泉数の約10分の1を占めるんだそうです!

別府では、温泉に浸かるのはもちろんのこと、
温泉から噴出する蒸気熱を利用した「地獄蒸し料理」を
楽しめる場所もあります。

温泉地だからこそのアクティビティですね。
でも、この「地獄蒸し」は観光目的に作られたわけではなく、
昔から湯治目的で温泉に長期滞在している宿泊客が自炊に使っているものだそう。

別府は明治から昭和の初期にかけて、観光地として栄えました。
しかし、その後、観光客の数は伸び悩み、
新しい観光振興のあり方が課題となっていました。

そんななか、16年ほど前から民間と市が一緒になり
地域を見つめ直していく動きが始まりました。

今回私たちが取材したのは、2005年に発足し、
町とアートのつなぎ手として活動を続ける「BEPPU PROJECT」。

2009年に別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」を実施し、
現在は同フェスティバル2012の開催準備の真っ最中です。

他にも、中心市街地の活性化を目的に
空き家をリノベーションして、様々な取り組みがなされています。

駅のプラットフォームのように、多くの人が集い交流し、
別府のまちがいきいきとした活動の場となることを目指して作られた
8ヵ所の「platform」があり、そのうちの4スペースの運営を担っているそう。

例えば、築100年のこの長屋はplatform04。
別府の工芸品やアート作品を扱うセレクトショップとして営業しています。

店内にはおもわず手に取ってしまいたくなる、
洗練されたグッズの数々が並んでいました。

この「SELECT BEPPU」店主の宮川さんは、東京都出身。
学生時代に参加した都市デザインプロジェクトをきっかけに別府を訪れ、
大学卒業後、別府に移り住んだといいます。

「別府には面白い人がたくさんいて、
東京ではお金を払って会うようなアーティストさんが
ふらっとお店に来たりするんです」

興奮気味に話す彼女に勧められて、商品の制作現場を訪れました。

商店街の一角にある、platform07「別府竹細工職人工房」では
竹細工職人さんたちが実際に作業している様子を
目の前で見ることができました。

別府竹細工の歴史もやはり温泉とともに歩んできました。
湯治客が滞在中の自炊のために使用するザルなどの竹製生活用品から始まり、
その後お土産品としての市場が拡大し、地場産業として定着したのです。

別府市には全国で唯一の竹細工の訓練学校があり、
全国から竹細工を学びたい人が集まってきているそう。

大阪府出身の竹職人の清水さんもその一人。
大学卒業後、訓練学校で竹細工を学び、そのまま別府の町に住み着いています。

関西弁で冗談まじりにおしゃべりしながら
竹を1mmよりも薄くして、器用に編んでいきます。

話しているうちにいつの間にかこの通り、箸置きを作ってくれました。
まるでリボンを編むかのような早業でした。

もともと東南アジアを旅するうちに竹細工に興味を持ち、
竹細工職人になったという清水さんに
ちょっと意地悪な質問をしてみました。

"海外の竹細工と日本の竹細工の違いってなんでしょうか…?"

「海外にも竹細工の技術が高い人はたくさんいますよ。
王様に献上するモノとか作っていますから。
ただ彼らの作るモノは中国雑技団のように、超人芸というか…。
日本人の作るモノは美しいんです。
そのモノだけではなく、周りの空間も含めて美しくしている気がします」

なるほど。清水さんの言わんとすることが妙に腹に落ちました。
確かに、「SELECT BEPPU」に置かれていた竹細工の商品は
どれも使うシーンの想像を掻き立てられるモノばかりでした。

続いて、伺ったのは「別府つげ工芸」。

昭和5年に建てられた長屋を守り、昔も今もこの地で
つげの木を使った工芸品を作り続けています。

もともとは、3代目の現社長のおじいさんが
くし職人としてスタート。

印鑑や将棋の駒に主に使われるつげの木は、
非常に堅く、細かい細工が可能なんだそうです。

おじいさんが若い頃に作ったというこのブローチ、
その細かいデザインと艶が木材とは思えませんでした。

観光地として別府が賑わっていた頃には、
50人の職人をかかえ、細工品を作っていました。
しかし、お客様が増えれば増えるほど、粗製濫造になり、
ついにはつげの木ではない木材を使ったりもしていたんだとか。

「今は原点を見直している時期なんです。
いいモノを作って、後継者を育てたい。
商品はマネできても、この場所での歴史はマネできないですから」

そう話す安藤社長は、時代に合わせた商品づくりにも余念がありません。
くしの需要が減っていくなか、つげを使ったブラシも作るようになりました。

つげの堅さとブラシの形状が頭皮にマッサージ効果を与え、
またあらかじめブラシに染み込ませてあるツバキ油が
髪に艶を出し、まとまりやすくしてくれるんだそう。

もちろんそれらはすべて手づくりです。

折りたたみブラシのちょうつがい部分にも
つげの木を利用しているのには驚きました。

工房には近所の方たちが集まってきて作業されていました。

「これをきちんとした産業として育てていきたいんです。
職人さんが食べられなくて、商品ができるわけはないからね」

社長の力強いお言葉に、つげ工芸のさらなる可能性を感じながら
工房を後にしました。

ちなみに、「SELECT BEPPU」に置かれていたこれらの商品が
9月末から福岡のMUJIキャナルシティ博多で販売されるそうです!

※詳細はこちら

実物を手に取って見られるチャンスです♪

別府のいいもの、みつけてみませんか?

天領、日田のものづくり

2012年09月04日

日田の市街地に、古民家を利用した形の、
ひと際洗練されたショップがありました。

Areas(エリアス)。
既にそこから地域密着型を感じるネーミングです。

店内は、日田の家具・雑貨を中心に、
国内外よりセレクトされたグッズであふれていました。

一品一品が何か語りかけてくるような、
そんな雰囲気すら感じます。

ショップを運営するのは(株)hi-countの仙崎さん。

大学卒業後、デザインをする仕事をしたいと、地元の北九州を離れ、
恩師に薦められた日田の家具メーカーへと就職。

かつて幕府の天領として治められていた
日田のものづくりの魅力の虜になった仙崎さんは、
2006年、日田でデザイナーとして独立します。

その後、日田の職人たちと、家具や小物を創作していき、
2009年、念願のショップをオープンさせました。

ゆえに、ショップで扱うものは、
すべて想いを込めて作られたものばかり。

各種家具をはじめ、

日田産の杉を使った「杉玉ペンダント」(ライト)や、

同じく日田産の檜を使ったアロマの香る
「てる坊のおにいちゃん」まで。

「日田には家具から木工細工、畳、焼物…と、
ここまで職人がいる町も珍しいんじゃないですかね。
彼らと日田産の素材を使ったものづくりをすれば、
自ずとそれが個性・ブランドにつながっていくと思います」

仙崎さんがこう考えるようになったのは、
北欧家具に出会ってからだったといいます。

寒い北欧で、家の中を快適な空間にするために追求された結果が、
世界で人気を誇る北欧家具なんだとか。

「北欧家具はあくまでも一例ですが、
その土地の風土や歴史に必ずものづくりのルーツがあるわけで、
各地でこうした動きが活発化していけば、
各地の個性が表れたものづくりができると思うんです」

そう話す仙崎さんの店内には、約300年続く窯元、
小鹿田焼とのコラボ商品もありました。

これぞまさに、ここでしか作れない商品の一例です。
なかには、こんなに器用な商品もありました。

ステンレス製の指輪のなかに、曲げ木が施されているんです。
これを作るのも、日田市内に工房を構える「ウッドクラフト かづ」さん。

特別に工房へお邪魔すると、そこには
良いものづくりに対する飽くなき探求心を持った職人たちの姿がありました。

どれも寸分のズレも許さない丁寧なものづくり。

また、ここは他社が面倒と感じる曲げ木にも積極的に取り組み、
今や卓越した木を曲げる技術を習得しています。

代表の宮原さんいわく、管理せずとも
職人たちは自らの意思で追求・改善を求めるようです。

「この、より良いものづくりに対する姿勢こそが、
日本と他国とのものづくりの違いではないかと感じます」

最後に、仙崎さんはこう話してくれました。

「伝統は守るものではなく、進化するもの。
日田の伝統技術を活かしながら、
現代の生活様式に合わせたものづくりをしていきたいですね」

その力強い視線の先には、
日田のものづくりの未来が見えているような感じさえ受けました。

ここにもまた、その地に根ざして生きる人たちの姿がありました。

土の魅力

2012年09月03日

地元に帰ると、心が落ち着く。ほっとする。
お盆に一時帰郷した際にも、なぜかそんな気分になりました。

幼い頃、多くの時間を過ごしてきたその場所には、いつ帰ろうとも、
まるでタイムスリップしたかのように、
昔と変わらない光景、味、やり取りが残っています。

故郷に帰る時に襲われるこの感覚は、
多くの方が感じるものではないでしょうか。

「その土地によって違うものに土があります。
人は、自分の故郷の土に囲まれると落ち着くというか、
土には、なぜかそういったことをもたらす効果があるんですよ」

日田市でお会いした左官(さかん)職人の原田さんは、
長い髭をまとった優しい笑顔でそう教えてくださいました。

左官とは、建物の壁や床、土塀などを、
こてを使って塗り仕上げる職種のことで、
日本のみならず、海外でも多くの従事者がいます。

近年、壁の仕上げには塗装やクロスが利用されるなど、
建築物の工期の短縮化の波に押され、左官仕事の需要が減りつつありましたが、
最近になって、味わいのある手仕事の仕上げが見直されつつあるようです。

原田さんのオフィスは、もちろん土壁に囲まれた空間。
確かにそこには、落ち着いた心地の良い空気が流れている気がしました。

左官によって、使う素材もやり方も様々なようですが、
原田さんが主に使用するのは、昔ながらの自然素材の土と漆喰(しっくい)。

それぞれ別に使うケースもあれば、2つを混ぜて使うこともあるそう。

土は、九州の中でも日田から約1時間圏内で採取可能な
地元産のものを使い、

漆喰には、有明海で採れる貝殻を使用しています。

つなぎとして使うワカメは北海道産、
壁割れを防ぐために加える藁は、なんと自前で生産し、
強度を高めるための本麻は、
以前私たちが取材した栃木の野州麻のものでした。

こうしてすべて自然素材から生み出された土壁には、
丈夫で一つとして同じところのない自然模様ができあがります。

驚いたのが、土の産地によって、
ここまで色合いが違うものが出せること。

これはあくまでも一部分にすぎませんが、
原田さんいわく、その土地によって土の色は異なるそうです。

思えば、土地とは"土"の地と書くぐらいですしね。

「お客さんに色を選んでもらうと、
自ずとその人の土地の土色を選ぶ方が多いんです。
であれば、せっかくなのでその方の地元の土を使ったらどうですか?
と提案するんです。
やっぱり地元の土に囲まれて生活すると、安心しますからね」

かつて日本ではよく蔵に使われた土壁は、
そもそも火に強く、中は外気の影響を受けにくいという特徴があります。

さらに調湿効果にも優れており、
内部は快適な空間を通年保てるんです。

傷ついても何度でも再生可能、というのも、ならではですね。

「ふわっと仕上げる。ザラっと仕上げる。
土の肌をどう仕上げるか、それができるのが日本の左官の特徴です。
それによって中の雰囲気が変わるんですよね。
僕らの仕事は、壁を塗っているんですが
実は、空間を作っている仕事なんです」

とても印象的な原田さんの言葉でしたが、
その後、訪れた原田さんの手掛けた喫茶店で、その意味を体感しました。

その落ち着いた空気と、
どこかモダンさも感じさせる空間。

現代の生活様式のなかにも、自然と土を溶け込ませる。
左官の職人技を感じずにはいられませんでした。

豆田町の酒造

実は上にあげた写真は、日田市街で
酒蔵が運営しているカフェ&パン工房「KOGURA」の店内。

一瞬、聞いて耳を疑いましたが、
日田には酒蔵が営む、天然酵母を使ったパン屋さんがあるんです。

その酒蔵の名は「クンチョウ酒造」

かつて幕府直轄の天領として治められてきた日田の豆田町で、
元禄時代(1702年)より続く老舗の酒蔵です。

この酒蔵では、清酒や焼酎はもちろんのこと、

先述の天然酵母を使ったパン屋から、

酒粕を使ったアイスクリームまで展開しているんです。

これまでも各地の酒蔵を訪ねましたが、
ここまで多角経営をしている酒蔵はありませんでした。

酒蔵を守る冨安さん親子にお話を伺うと、
そこには街づくりと密接に関わる酒蔵の姿が見えてきました。

「日田は立地的にも、福岡、大分、熊本の間に位置し、
昔から天領として栄えてきた風情ある街並みもあります。
ただ、観光客が立ち止まって、一息つくような場所がなかったんです。
そこで、地域の酒蔵として一つひとつできることから始めていったんですよ」

まず手掛けたのは、なんと駐車場の整備。

日田観光の中心地であり、酒蔵のある豆田町には、
それまで大型の駐車場がなかったことから、まずは酒蔵の前の土地を購入し、
大型バスも停まれる駐車場にしたのです。

通常、行政任せと考えがちな仕事を酒蔵が率先して行い、
またそれが功を奏したのです。

私たちが滞在している数時間の間にも、
何台もの観光バスが停まっていきました。

同時に、酒蔵のトイレも整備したことで、
多くの方が酒蔵に立ち寄るようになったといいます。

「そうなってくると、次は一休みしていただける喫茶店。
街歩きしながらでも食べられるアイスクリーム、
という感じに、アイデアが膨らんでいったんです」

アイスクリームは酒蔵らしい吟醸酒粕入りのものが一番人気とか。
今では喫茶店で、地元の作家さんの民芸品も扱っていらっしゃいます。

「顔の見える酒蔵を目指しています。
町でも古い歴史を持つ酒蔵なので、
街づくりのなかで酒蔵が果たせることもあるんじゃないかって」

そう話す女将の冨安裕子さんは、
街づくりの様々な委員会にも顔を出しているそうです。

日田では、日田天領祭りの夜のイベントとして、
3万本の竹燈篭が町を彩る「千年あかり」というお祭りも
平成17年より始まっているそうですが、
裕子さんはこのイベントを仕掛けた人のひとり。

同じ大分県臼杵市の「うすき竹宵」や、
竹田市の「たけた竹灯籠 竹楽」にならったものでしたが、
今では、認知も高まり観光客も多く押し寄せるそうです。

これまで昼のお祭りだけの日帰り客が多かったところ、
夜のイベントを開催したことで、宿泊客が増えたといいます。

「ここから先は、一つひとつのお店の頑張りです。
ネットでもモノが買える時代だからこそ、
ここに来てくれた人にしか味わえない魅力を発揮していきたいです」

クンチョウ酒造では、
単に一所の酒蔵として甘んじることなく、
街づくりのなかの酒蔵として発展をしていました。

七つの願い☆

2012年08月17日

東北3大祭りのひとつに数えられる、「仙台七夕まつり」

七夕といえば、織姫と彦星が年に1度だけ会うことを許された日…
というのはよく知られたお話ですが、
ではなぜ年に1度しか会うことができないのか、
その理由を知っていますか?

これはもともと、中国で生まれ日本に語り伝えられた伝説なのだそう。

むかし、天に織女(しょくじょ)という、手芸にすぐれ、
機織(はたおり)が巧みな娘がいました。
ところが、牽牛(けんぎゅう)という青年と結婚してからは、
手芸をおろそかにし、機織も怠けだしたため、
父親の天帝(てんてい)は怒って、牽牛を銀河の対岸に別居させ、
年に1度、7月7日の夕べにだけ逢うことを許しました。

織女は牽牛と逢える七夕の日以外は、せっせと機織りしているため、
手芸の神様と考えられていました。
七夕まつりは本来、7月7日の2人が逢えるめでたい日に、
織女に対して手芸上達を願う祭なのです。

短冊に願い事を書いて笹に飾る風習は、日本ならではですが、
仙台においては、風流を好んだ伊達政宗が奨励したともいわれ、
藩政時代から各戸の軒先に笹飾りを出していたそうです。

そう、「仙台七夕まつり」の特徴といえば、やっぱり笹飾り!

商店街の各お店が数ヵ月間かけて毎年手づくりし、
その豪華さを競い合うのです。

飾りの内容は当日まで企業秘密だそうで、
蓋を開けてみると、それぞれの個性が際立ちます。

子供向けのかわいらしい動物柄のものもあれば、

涼しげな色だったり、ビビッドにまとめていたり。

どれも手づくりなので、ほのぼのとした温かみが感じられます。

これらの七夕飾りですが、実は「七つ飾り」と呼ばれる伝統の飾り物を守り、
それぞれに深い意味が込められていました。

まず、飾りつけの主役になっているのが「吹き流し」。
くす玉の下に垂れている部分のことで、これは織姫の織り糸を象徴し、
機織や手芸の上達を願います。

続いて、着物の形をした「紙衣(かみごろも)」。
これは病や災いの身代わり、または、裁縫の上達を願うもので、
七夕竹の一番上に吊るす習わしがあります。

「千羽鶴」は家の長老の年の数だけ折り、延命長寿を願います。

「投網」は昔から重要なたんぱく源としての魚介を欠かさないように
仙台近海の豊漁を祈願し、「短冊」は学問や書、手習いの上達を願います。

今年の短冊は、オリンピックへの願いが目立ちました★

また、「巾着」は富貴を願いながらも、無駄遣いを戒め、商売繁盛を願います。
「くずかご」は七つの飾り物をつくり終えた
裁ちくず、紙くずを拾い集めてくずかごの中にいれ、
ものを粗末にしないで役立て、清潔と倹約の心を育てます。

「七つ飾り」のそれぞれに込められた願いを感じながら笹飾りを見ていると、
この七夕まつりが仙台市民に愛され続け、
昔から変わらず今も続いている意味が少し分かる気がしました。

かつて、天明の大飢饉、第一次世界大戦後の不景気など、
数々の窮地を乗り越える力になってきた「仙台七夕まつり」。

今年、震災復興の大きな原動力となっていることは、
言うまでもありません。

もしもの備え

仙台市内ではお祭り期間中、駅前を中心に屋台が並んでいますが、

今年はここに無印良品 エスパル仙台店も参戦。
お祭りは見るのもいいですが、参加するのもまた盛り上がりますね!

さらに仙台駅前には、無印良品 仙台ロフト店もあり、お邪魔してきました。

仙台では昨年の震災を受けて、スタッフのみんなで
災害時のもしもの時に使える無印良品グッズについて話し合ったそうです。

例えば、この「柔らかい ランドリーボックス

普段は通常通り、洗濯物入れもしくは収納BOXとして、
一方、もしもの時には「貯水のためのバケツ」として使えます。

続いて「キャリーバッグ

普段はビジネスの出張や旅行時に、
一方、もしもの時には「食料ほか、避難グッズ入れ」に。

ほかにも、普段はキッチンや玄関などで使える「アミノ酸 無香消臭スプレー」は、
もしもの時、ニオイが気になる衣類にかけて消臭ができます。

それぞれが自分自身で考え、家族や友人と話し合うことが何よりも、
備えることで一番大切な事かもしれません。

新しいモノを買って備えるのもいいですが、
もしもの時を想定して今、身の回りにあるモノを再度考えてみませんか?

花火に込められた想い

2012年08月16日

仙台七夕まつりの前夜、
仙台の夜空は約1万6000発の花火で彩られました。

今では、夏の風物詩ともいえる日本の花火ですが、
かつては鎮魂のために打ち上げられた歴史もあります。

1733年、畿内が見舞われた飢饉と、
江戸が襲われたコレラによる多数の死者を弔うために、
将軍吉宗が催した水神祭りで大花火を打ち上げました。
今の隅田川花火大会の起源ともいわれている史実です。

将軍吉宗は、暗い世相が明るくなるようにと祈りを込めたようですが、
現在でも、その目的は変わっていないように思います。

夜空に咲く花を見ていると、
少し感傷的な気持ちにもなりますが、
同時に、その美しさに心が洗われ、元気が出ますよね。

思えば海外にも花火はありました。

※写真はベルギー、ブリュッセルの花火

一般に、欧米諸国など海外の花火は、
同心円状に広がらない円筒形のものが多く、
その分、火薬量も多く、華やかな光や色を出すことが可能だそうです。

一方、日本では、同心円状に広がる球型のものが多いです。

これは、欧米では貴族の館などの裏から打ち上げることが多く、
一定方向からしか見られなかったのに対し、
河川敷で打ち上げることの多かった日本では、
あらゆる方向から観賞可能にする必要があったことが、
球型の花火が発達した理由とされています。

かつて同心円状に広がる花火の製造は困難でしたが、
日本で最も古い花火業者「鍵屋」の十二代目が技術を習得し、
その後、多く作られるようになっていきました。

私が子供の頃、花火大会の掛け声といえば、
「たまや~、かぎや~」
でしたが、玉屋は鍵屋から暖簾分けした花火業者で、
江戸時代、両国の川開き(現 隅田川花火大会)の際には、
玉屋が上流、鍵屋が下流を担っていたんだそうです。

こうした両者の切磋琢磨や、大名からの命を受けた花火職人によって、
日本における花火製造は活発化。

特に、火薬製造が規制されていなかった、
尾張(現・愛知県)、紀州(現・和歌山県)、水戸(現・茨城県)の花火は、
御三家花火と呼ばれるほど、人気を博しました。

また、豪快で派手好きな伊達家の藩風を反映させた仙台河岸花火も、
江戸町人からの人気を得て、当時から大勢の見物客が訪れていたそうです。

こうした歴史を振り返っても、
花火は日本の古くからのものづくりの一つといえますね。

ところで、この仙台七夕花火大会には、
日本を代表する花火師が関わっているんです。

仙台市内で唯一の花火製造会社、(株)芳賀火工。

鉄砲や火薬の製造販売を営む(株)芳賀銃砲火薬店の花火部門です。

先祖は伊達家に砲術師として仕えており、
明治維新後、銃砲の製造と火薬類の取り扱いを始め、
昭和22年から本格的に花火の製造を始めました。

今では、仙台七夕花火祭をはじめ、
数々の花火大会の企画・運営を担うまでに。

そして、2000年のシドニーオリンピックの閉会式。

アメリカ、オーストラリア、スペイン、南アフリカと並んで、
(株)芳賀火工がアジア代表の花火師として参加し、
五輪のフィナーレを飾る花火を打ち上げたのです。

世界に対し、「仙台に芳賀あり」を知らしめた瞬間でした。

日本の夏の夜空を彩る花火の背景には、
こうした歴史と誇るべき日本の技術力がありました。

ちなみに、第43回仙台七夕花火祭のテーマは
「ありがとう~感謝の想いを胸に 新たな仙台(まち)の創造へ向かって」
でした。

参加した誰もが、仙台の空に大きく輝いた花火を見て、
今ここにいられることに感謝したのではないでしょうか。

天然水

2012年08月10日

顔を洗う、コーヒーを飲む、食事を作る、入浴する…。
「水」は私たちの日々の生活において欠かせない存在です。

人体の約60%を占める水は
人間が生きていくうえでも必要不可欠。

良質な水を求める人も増えてきている昨今ですが、
水には一体、どんな種類のものがあるかご存じですか?

まず、よく聞くのは「硬水」「軟水」というくくり。

これは、水分中に含まれるカルシウム・マグネシウムの量によるもので、
多いと硬水、少ないと軟水となります。

ヨーロッパや中国では、
地中のミネラル分が多く水に溶け込んだ硬水が多く、
味も引き締まった印象を受けます。

日本やアメリカ、同じ島国のイギリスなどでは、
地中のミネラル分の影響が少ないため、軟水が多く、
口当たりもまろやかです。

水質基準が厳しく、高度処理技術の進む日本では、
世界でも珍しく、水道水が飲用可能です。

ただ、バクテリアの発生を防ぐために微量の塩素を含んでいます。
よく「カルキ臭い」といわれる原因はこれです。

一方で、ミネラルウォーターとは、
地下水を原料とし、飲料用に適した水のこと。

その中にも、以下のような種類があるようです。

「ナチュラルウォーター」
特定の水源から採水された地下水を原水とし、
ろ過、沈殿、加熱殺菌以外の処理をしていないもの。

「ナチュラルミネラルウォーター」
ミネラルが融解した地下水を原水とし、
ろ過、沈殿、加熱殺菌以外の処理をしていないもの。

「ミネラルウォーター」
ナチュラルミネラルウォーターと同じ原水を使い、
品質を安定させる目的のためにろ過、沈殿、加熱殺菌のほか、
オゾン殺菌、赤外線殺菌、ミネラル分解調整、ブレンド等を行ったもの

こうして見ていくと、天然水・自然水と呼べるのは、
「ナチュラルウォーター」と「ナチュラルミネラルウォーター」のようです。

その原水の種類も、
「湧水」「鉱水」「鉱泉水」「温泉水」「伏流水」「井戸水」と様々。

欧米でミネラルウォーターというと、
よく炭酸入りのものが出てくることがありますが、
これは原水にもともと、炭酸が含まれているためです。

水の世界は、実に奥が深いですね…。

こうした数ある水の中でも、
日本で初めて非加熱水の申請をしたおいしい水が、
岩手県釜石市にあると聞きつけ、行ってきました。

お邪魔した先は、「釜石鉱山」。
安政4年から155年の歴史を持つ鉱山です。

現在は鉱石の採掘から、鉱泉水の採取へと、
その役割を移行しました。

その昔、坑夫たちが、鉱山内部に湧き出る水を
「二日酔いに効く」として飲み続けていたことが、
鉱泉水の採取のきっかけだったようです。

トロッコ列車に乗って、鉱山内部へとご案内いただくと、

そこは、かつての鉱石採掘の現場。

まるで映画の中にいるような鉱山内の至る所から
豊富な水が湧き出ていました。

一口頂くと…、

ほのかな甘みと、なめらかな喉越し…。
やさしい潤いを取り入れている感覚です。

この鉱山内に湧き出る水は軟水の「鉱泉水」。
ナチュラルミネラルウォーターの類です。

真上にそびえる標高1147mの大峰山に降り注いだ雨水や雪解け水が
磁鉄鉱床をはじめ石灰岩、花崗岩など様々な厚い岩盤を
何十年もの時間をかけて岩盤を通過し、湧き出てきたと推測されるよう。

まさに天然の巨大ろ過装置を通ってきた水ですね。

このような地質・採水環境は、世界でも珍しいようです。

この水をパイプで直接、3km離れた鉱山外の工場へと流し込み、
0.1ミクロンのフィルターによるろ過除菌のみ実施してボトリング。

「仙人秘水」と呼ばれる奇跡の水の誕生です。

非加熱でも出荷できるミネラルウォーターは、
日本でも2番目に厚生省の認可を受けました。

pH値も8.8と涙などの生体水に近く、
とても体にやさしい水といえるのではないでしょうか。

仙人秘水は、料亭や厳選した水を飲んでいる人に
愛用いただいているそうですが、
実は、この水を使って生まれたのが、
無印良品の化粧水シリーズなんです。

無印良品ではこの「仙人秘水」という
煮沸や殺菌の必要のないピュアな天然水を
スキンケアの原料として贅沢に使用しています。

飲んでおいしい水で肌に潤いを与える…
なんて贅沢なのでしょう。

これまで訪れた無印良品の店舗でも
"人気商品"としてたびたび紹介を受けましたが、
確かに使ってみると、肌にやさしくしっとりとうるおう感じ。
そして何よりお手軽価格でバシャバシャ使えるのがいいですよね!

今回、使用されている「仙人秘水」について知り、
この化粧水の人気の秘密を
改めて知ることになりました。

夏のお供に♪

無印良品 盛岡フェザン店にお邪魔しました。

盛岡のお気に入りをスタッフに伺うと、
「いしがきミュージックフェスティバル」
をご紹介いただきました。

これは、毎年盛岡市街で9月に行われる無料野外フェスで、
岩手県内在住のアーティストから一般募集された
ミュージシャンが出演し、
ゲストには全国区で活躍するアーティストも参加するそう。

地元の高校生バンドが出演していたり、
お客様の年齢層も様々で
地域に根ざした音楽祭だそうです♪

ちなみに今年は6回目の開催で、9月23日(日)に行われます。

さて、音楽フェスやアウトドアイベントが目白押しのこの時期、
盛岡フェザン店で人気なのがコレ。

汗ふきシート

ひんやりしていて、汗のベタつきを解消してくれます。
パウダーが配合されていないので
サラサラ感はあまりありませんが、
白くなる心配がないのでいいですね。

男性にはこちらも☆

オーガニックリフレッシュミスト

夏の汗によるベタつきが気になる時に肌に直接スプレーすることで、
さらっとした使用感と、すっきりとしたハーブの自然な香りが
気分をリフレッシュさせてくれます。

ここでも釜石鉱山の天然水が使われていました。

もくもく絵本

2012年08月09日

岩手県内陸部にある遠野市は、
柳田國男の遠野物語のもととなった町であり、
カッパや座敷童子などが登場する「遠野民話」で知られています。

ここはカッパが住んでいるという伝えのある「カッパ淵」

よく見ると、カッパの好物のきゅうりが仕掛けてあるではないですか!
しばらく見ていると、絵本の中から登場したような
可愛らしいおじさんが登場しました。

その名も「ニ代目カッパおじさん」

二代目は現在も修行中で、本物のカッパを見たことがあるのは
初代のカッパおじさんだけだそうな。

「昔あったずもな…」
(昔あったそうだ)

決まってこのフレーズで始まる民話は
語り部さんによって今でも語り継がれており、
観光施設やホテルなどでも昔話を生で聞くことができます。

市内の小学校でも語り部さんが学校に出向いてお話をしたり、
子供向けの「語り部教室」なるものも存在するそう。

さて、そんな遠野で見つけた「なるほど!」
と思わずうなってしまった、子供のおもちゃがあります。

「だれが」「どこで」「なにを」「どうした」の
4つのキューブを組み合わせて物語を作って遊べる木のおもちゃ、
「もくもく絵本」です。

「おんなのこが・やまで・おにを・たべました」

「ねこが・やまで・おひめさまを・たいじしました」

手の中でコロコロ回していくうちに
あれあれ? 不思議な物語に!

「鬼はおいしかったのかな?」
「おひめさまは何か悪いことしたのかな?」

遊んでいる中でコミュニケーションが生まれます。

そのストーリーの組み合わせは、なんと1296通り!
子供たちは一度遊び出すと、夢中になって止まらなくなるといいます。

「遠野にはこんなに山があって木があるのに、
子供たちが遊べる木のおもちゃがない。
民話の里・遠野らしいものづくりができないか」

そう思った地元の主婦3人が集まり、
遠野市のバックアップのもと、
木のプロ、デザインのプロを加えて2004年にもくもく絵本の研究会を発足、
2年の月日を経て、2006年5月に発売。

すると、子供たちが「もくもく絵本」で楽しく遊ぶ写真が全国紙に掲載され、
「孫にあげたい」「子供と遊びたい」
と問い合わせが殺到したそうです。

さらに嬉しい感想のお便りも続々と寄せられました。

「ゲームだと一緒に遊べなかったけど、もくもく絵本だと毎日一緒に遊んでいます」

「別居中でしたが、もくもく絵本をきっかけに夫婦も復縁できました」

などなど。

「人と人をつなぐことのできるおもちゃだと、
評価いただいています。
子供に対して木の良さを伝える、"木育"にもなりますし」

代表者の前川さんがそう教えてくださいました。

上述の4つのキューブを組み合わせて遊ぶ
「おはなし木っこ(こっこ)シリーズ」のほかに、
昔話が描かれている「昔話シリーズ」もあり、
こちらのイラストは前川さん直筆のもの。

プロの描くイラストにはない、
とっても味のある絵で親しみがわきます。

最近では、岩手大学教育学部と共同で
小学校の英語教育の教材として、英語版を開発しました。

また、「だれが」の部分に名前を入れることのできる
オリジナルシリーズも!
誕生日や記念日のギフトにピッタリですね。

木の香りや手触りを楽しみながらコミュニケーションがとれ、
さらに言葉の習得にもつながる「もくもく絵本」。

イラストや文字はレーザーで焼き付けられているので、なめても安全、
お風呂の中でも遊ぶことができてしまうんです。

これまでも伝承されてきた遠野の民話と言葉を、新しい絵本の形で、
地元の間伐材を用いて表現する。

その土地の日常の言葉を大事にした柳田国男の思想が、
今もこうして引き継がれていました。

生活に溶け込む盛岡の伝統

2012年08月08日

南部鉄器に、

紫紺染、

明治26年から続く駄菓子屋さん(関口屋)から、

160年続く長沢屋の黄精飴(おうせいあめ)、など。

盛岡には、古くから伝わる技術を活かしたものづくり・食づくりが、
今でも数多く残っていました。

市内を北上川・雫石川・中津川などが流れ、
比較的戦災の被害の少なかった盛岡には、明治・大正期の建造物も多く残っています。

現代の県庁所在地としての機能を備えながらも、
かつて南部藩の城下町として栄えた情緒を残しながら発展していく様は、
どこか懐かしさと心地よさの両面を感じさせてくれます。

そんな盛岡を象徴するようなプロダクトに出会いました。

これ、何だか分かりますか?

手前から、岩手の南部鉄器に、秋田の樺細工…、
そう、各地の伝統工芸の技術などを使ったペーパーウェイトなんです。

企画しているのは、「Holz Furniture and interior」の平山さん。
爽やかな笑顔で迎えてくださいました。

彼は、盛岡市内で、機能性とデザイン性に優れた生活用品を扱う
インテリアショップを運営しています。

以前、秋田の「WAPPA Project」で取材した
「casane tsumugu」の田宮さんにご紹介いただいた方です。

店名の「Holz」とは、ドイツ語で「木・木材」を意味し、
生活に密着した必要不可欠なもの、という想いも込められているそう。

平山さんは、東京のインテリアショップで働いていた際、
そこに自然と南部鉄器が陳列されていたことをきっかけに、
地元の工芸品を違った目で見るようになったといいます。

その後、偶然フリーマーケットで見つけた
鉄のペーパーウェイトと南部鉄器が頭の中でクロス。

構想から5年かかりながらも、
南部鉄器を使ったペーパーウェイト「イエモノ」が完成しました。

なぜ家型か?

「家の形って、なんだかホッとすると思うんです。
ある意味、普遍的でしょ」

左の初代作は、屋根部分にあえて磨きをかけることで、
使い込んでいくうちに酸化していく仕立てになっています。

まるで、家の屋根に味わいが出てくるように。

こうして生まれた「イエモノ」シリーズは、
日本最大産地の岩手産漆を使ったものまで、計14種類にも及んでいます。

「伝統工芸だから守りたい、とかじゃなくって、
単純にかっこいいと感じるかどうか。
そんな感覚が大事だと思うんです」

目の前にある物を「心地良い」とか「素敵だ」と感じとる
人間の中にあるセンサー。
私たちは物事を論理で考えるよりも先に、
誰にでも備わっているこのセンサーに素直に向き合うことが
大切なのではないでしょうか?

盛岡で生きる意味

「盛岡を知っているといえば、この人の右に出る者はいないよ」

平山さんに紹介いただいてお会いしたのは、
まちの編集室の編集デスク&アートディレクターの
木村敦子さん。

すらっとしたモデルのような姿が印象的な木村さんは、
盛岡の「ふだん」を綴る本『てくり』を手掛ける方です。

この本、盛岡に入ってからというもの、
あらゆる本屋さんやカフェなどで見かけました。

世帯当たりの雑誌・週刊誌支出が1位というお土地柄からなのか、
盛岡には、数々のミニコミ誌が存在します。

なかでも、この『てくり』は、
盛岡で活動する人たちの素顔や想いに焦点が当たっていて、
そこから醸し出されている空気感がとても素敵なんです。

本の中でも、ひと際目を引いたコピー。

「東京ではなく、富良野のでもない。
盛岡で働き、暮らす理由。
あなたはなぜ、ここにいるのですか?」

そのインタビュー記事が創刊以来9年間続いているのですが、
この疑問こそが、木村さんがこの雑誌を始めた理由なんだそうです。

福島を除く東北5県を転々としてきた木村さんが、
故郷、盛岡に戻ってきたのが10年前。

現存しているものもあるとはいえ、
取り壊されつつある古き街並みを何かの形で残していきたい。

そして、純粋に盛岡で活動し続ける人への興味。
この想いが『てくり』を創刊するきっかけとなったそうです。

この視点が、地域の方たちからの支持を集め、
当初1000部の予定だった発行部数は、4000部に増刷。

こうして創刊してから9年、
今年の春で15号目を発行することになりました。

ここまで取材してきて、
盛岡で生きることの意味について分かってきたことはありますか?

と尋ねると、少し間があいて、

「まだです。いつかはまとめていきたいと思いますが…」

と木村さん。

その回答は、まだ解はまとめずに、
もう少し取材を楽しんでいきたいんです、
というようなニュアンスにも聞こえました。

今では、
取材したモノや本を扱うShop「ひめくり」の運営や、

ラヂオもりおかで「ほにほにラジオ」まで手掛けています。

「取材でそのモノ・人のことを知ると、
それを誰かに伝えなきゃって思うんです。
モノだったら、その目で見てもらいたいし、
人だったら、その声を聞いてもらいたい」

それを言葉では表現できなくとも、
何かとても"大切なモノ"を受け取った時、
返礼を相手に贈り返したり
より多くの他者にそれを"贈りたい""伝えたい"と思うのは、
交換の本質であり、文明の起源に関わる行為と言われます。

そしてもちろん、私たちがこうして毎日ブログを綴るのも、
同じ想いからであることは言うまでもありません。

北海道のヒミツ☆

2012年08月03日

北海道を訪れるのは今回が初めてではありませんでしたが、
やはり地元の人に情報を教えてもらうと見えてくるものが違うものですね!

まずは北海道の食事情から。

最初は居酒屋の定番メニュー、
「ラーメンサラダ」

冷やし中華のようでもあるのですが、
野菜がメインなので北海道では副菜の位置づけのよう。
ツルっと食べられてヘルシーなので、主食としてもいいですよね。
ちなみに小学校の給食でもメニューにあるんだとか!

続いて、北海道民にとってのカップ麺の定番といえば…

「やきそば弁当」

初めて聞きました、そして見ましたコレ。
付属の粉末スープを、麺を茹でて湯切りしたお湯で溶いてスープにするそう。
道民いわく、普通のお湯で溶くと味が違ってしまうんだそうですよ。

それから、北海道限定ドリンクの
「リボンナポリン」

なんと戦前の1911年からあったというから驚きです。

発売当時はブラッドオレンジを原料に使用していたので、
地中海を代表する果実ということで
地中海に面したイタリアの都市「ナポリ」にちなんで
「ナポリン」と命名したといいます。

さて、今回これらを教えてくださったのは
無印良品 旭川西武店のスタッフさん。

彼女が手にするのはこのお店の人気商品★

土のかわりに再生粉砕パルプを使用した「猫草栽培セット」で、
毛繕いのときに舐め取った自分(猫)の毛を排出するのに役立つもの。

通常販売されている猫草は
猫が草を食べた後の土の扱いに困ってしまうらしく、
この無印良品の猫草の場合は、可燃ゴミとして捨てられるのが便利だそうですよ!

MUJIキャラバン隊、MUJItoGOイベントに!

所変わって札幌。

札幌では、無印良品 札幌ステラプレイス店の、
「MUJI to GO」イベントで、僭越ながらお話しさせていただきました。

私たちキャラバン隊が、この3ヵ月半の旅路で見つけたモノの紹介や
地元のみなさんから教わったこと、そこから感じたことなどを話しました。

短い時間でしたが、ご参加いただいた方に
来てよかった、旅に出たい、
日本のこと・キャラバンのことをもっと知りたい!
と少しでも思ってもらえたら嬉しいです。

ご来場いただいたみなさま、どうもありがとうございました!

また、翌日には、この旅初めて、店舗のスタッフさんに合流してもらい、
"とっておきの場所"をご案内いただきました♪

向かったのは、札幌市東区にある「モエレ沼公園」。

彫刻家イサム・ノグチのデザインで、
札幌市の市街地の周囲を緑化しようという構想で造られた場所です。
もともとゴミの埋め立て地だった所を活用したそうですね。

公園内はとーっても広いのでレンタサイクルをして回りました。

緑が生い茂る森の中に、カラフルな遊具が設置してあったり、

夏に水遊びができる"モエレビーチ"があったり。

家族連れの多くが日よけのテントを立てていて、
なんだかキャンプ場のようでしたよ。

この公園のために人工的に造られた"モエレ山"からは
札幌の街並みが一望可能!

いやぁ、とっても気持ちがいいです☆
お弁当持って一日中ゆっくりしたい公園ですね。

地元の人々に愛されている憩いの場所、
これこそ地域の貴重な観光資源だと感じました。

「美しい村」、美瑛

2012年08月01日

世界には、一目で脳裏に焼き付いてしまうような光景がたくさんありましたが、
その中でも、10本の指には入るであろうと思える景観が、
北海道、美瑛町にありました。

この最後の写真「青い池」は、
アップル社Mac Book Proの壁紙にも採用された場所です。

この付近の湧水と、美瑛川の水が混ざることによって生まれる成分が、
この青さを放つ原因といわれていますが、
その美しさには引き込まれるような不思議な力がありました。

北海道のほぼ中央に位置する美瑛町は、
人口約1万人強の小さな町。

十勝岳の麓に広がる丘陵地帯で、
町は畑作によるパッチワーク柄で彩られています。

しかも、このパッチワーク柄、毎年彩りが変わるんです。

それは、麦・馬鈴薯・豆・ビートを輪作しているためで、
人と自然が畑作で織り成す光景といえます。

中でも、耕地面積の一番大きいのが小麦畑。

これまで稲作が主体となってきた日本では、小麦の栽培技術の遅れから、
外国産の小麦を増量するための用途にしか考えられていませんでした。

しかし、ここ美瑛で採れる小麦は現在、
国産ブランド小麦として注目を集めています。

中でも、今年から販売開始予定の「ゆめちから」と呼ばれる小麦は、
たんぱく質が15.5%と通常の外国産のものよりも高く、
「日本発 超強力小麦」として、もちもちパンの製造などで期待されているんです。

他にも、うどんやお菓子などで利用されている「きたほなみ」や、

種を春にまく、その名も「春よ恋」など。

同じようで異なる品種の小麦がたくさん生産されています。

今でこそ、こうして注目されつつある美瑛の小麦ですが、
ほんの7年ほど前まで美瑛の人たちは、
自分たちの町でこうした作物が生産されていたことすら知らなかったようです。

「美瑛には毎年、年間120万人の観光客が訪れています。
ただ、そのほとんどがバスの中から景色を眺めながら通過するだけ。
その観光客の方々に、少しでも美瑛に立ち止まっていただくために、
町の商工会の青年部などが中心となって、
美瑛産の小麦を使ったメニューを考えていったんです」

美瑛町の塚田副町長は、当時のことをそう振り返ります。

それまでは原料の供給基地として、
ひたすら一次産業に取り組み、小麦は小麦として出荷していましたが、
潮目が変わったのが2005年。

地元産の食材を使ったご当地グルメのプロデューサー、
ヒロ中田氏の「食による観光まちづくり」の講演が、
美瑛町 西森商工会長の心を掴みます。

それから、美瑛産の食材を調べるところから始め、
メニュー開発に取り組むこと約4カ月弱。

こうして生まれたのが、美瑛のカレーうどんです。

美瑛産の小麦を使ったうどんのカレーつけ麺に、
トッピングの野菜や豚のしゃぶしゃぶ肉、牛乳もすべて美瑛産。

なぜ、カレーうどんか?

それは、美瑛の北に位置する下川町が「手延べうどん」、
南の富良野町が「オムカレー」で有名なことから、
その間に位置する美瑛は「カレーうどん」というわけです。

その脈絡はともかく、つけ麺にした理由がまた素晴らしい。

美瑛町に唯一残る製麺屋さんで、
美瑛の小麦を使ってうどんを作ってみたところ、
くすんだ色のうどんが出来あがったんだそうです。

当時、世の中は讃岐をはじめとした、
透き通るように白いうどんが一般的ななか、
くすんだ美瑛産のうどんは敬遠されるのではないかと危惧されました。

ただ、それこそが美瑛産のうどんの特徴だとして、
カレースープの中に沈めてしまうのではなく、あえて外に出すことで、
美瑛産のうどんの特徴として知ってもらおうとしたわけです。

これが見事に功を奏し、
美瑛のカレーうどんとして定着し始めています。

甘くてコシのあるうどんの味は、
確かに他のうどんとは違う味がしました。

美瑛ではその後も新たな加工品が数々生まれていっています。

地元産の食材を使い、
それで生み出される食品の特徴は個性としてあえて強調する。

彼らは、そうした食を「新・ご当地グルメ」と呼び、
真の地産地消の社会を目指そうとしています。

こうした共通の目的のもと、観光街づくりを進めたことで、
今では官・商・農が一体となりつつあるようです。

帰りがけ、JAが運営するご当地食材店
「美瑛選果」に立ち寄りました。

その開放的な空間のお店づくりは、
北海道出身の建築家が手掛けるなど、
新たなコラボレーションも生まれつつあるようです。

自らの魅力・特徴を把握し、それを様々な形で表現・発信する美瑛町は、
正直、まぶしいほどでした。

世界にひとつだけの椅子

2012年07月25日

子供が生まれたらプレゼントしたいものがあります。

それは、北海道旭川市近郊で作られる、
世界にひとつだけの椅子。

木でできた椅子は、温かみがあります。
ステンレスよりも傷つきやすいかもしれない。
でも、使った分だけ、時が刻まれる…そんな気がします。

「君の椅子」プロジェクト。

新しい市民となった子供たちに、
"生まれてくれてありがとう"の想いを込めて
居場所の象徴としての「椅子」を贈る取り組みが
北海道旭川市近郊の3つの町(東川町・剣淵町・愛別町)で
2006年から行われています。

「子供が生まれたことを共に喜び合える地域社会を作りたいと思ったんです。
子供は地域社会の宝ですからね」

そう話すのは、「君の椅子」プロジェクト代表の
旭川大学大学院の磯田客員教授。

なぜ椅子なのでしょうか?

子供の椅子は一見すぐに使えなくなってしまうようにも思うのですが、
椅子は座る機能だけではないと、磯田教授はいいます。

例えば、絵本を置くのに使ったり、踏み台として使ったり。
子供の成長に合わせて用途は変わりますが、
日々の暮らしにそっと寄り添いながら、子供の成長を見守っていく椅子は
"思い出の記憶装置"なんだそう。

また、この「君の椅子」プロジェクトは
コミュニティ形成に加えて、
産業振興、ものづくりの観点での目的もあるのです。

もともと旭川市近郊で盛んな旭川家具の技術を活かしたいと、
毎年椅子づくりを地元の工房作家や家具メーカーに交代でお願いしています。

2009年からは全国の誰もが参加できる、「君の椅子倶楽部」が発足。
これにより、3つの町と「君の椅子倶楽部」に参加した方の
新生児分の椅子が旭川市近郊で作られています。

この「君の椅子」プロジェクトにいち早く参加の意思を示したのが、
古くから「写真の町宣言」をして町づくりを行う、東川町。

「東川町は北日本で3番目に大きい旭川市に隣接していて、
旭川空港まで約10分、旭山動物園に日本一近い町だし、大雪山もある。
こんなに条件がそろっている町が活性化しなかったら、他の町は無理ですよ」

そう話す松岡町長の元では、次々と新しいアイディアが生まれています。

例えば、2005年からは新しい婚姻届を採用。
入籍の際には、夫婦になった瞬間の写真を撮影してプレゼントし、
記念のメッセージシートにメッセージを残し写真と共に
保管しておける形の婚姻届です。

用紙の文字の色ひとつとっても、ピンク色でなんだかそれだけでも
ハッピーな気分が増すものです。

「君の椅子」プロジェクトについて、松岡町長に伺いました。

「この椅子は、親から子へ伝えていけるもの。
昨年の東日本大震災の際には、我々にできることは何かを考えた結果、
3月11日に生まれた子供たちに形に残るものをプレゼントしよう
ということで、私も福島に椅子を届けに行ってきました」

2011年3月11日、2万人近い方が亡くなられたあの日、
一方で新しい命が誕生しました。
しかし、その数は誰も統計をとっていませんでした。

「君の椅子」プロジェクト代表の磯田教授は
東川町の松岡町長、剣淵町・愛別町の各町長と相談して、
被害の大きかった岩手県・宮城県・福島県の全128市町村に
「あの日、あなたの町で何人の子供が生まれましたか?」
という手紙を出しました。

ダメもとで送った手紙には続々と返事が寄せられ、
あの日、3県で104人の赤ちゃんが生まれていたことが分かりました。

こうして作られたのがもうひとつの「君の椅子」、
"希望の「君の椅子」"でした。

ひとつひとつの椅子の裏には、
"希望の「君の椅子」"のロゴと名前、誕生日、各県のシリアルナンバー、
そして「〜たくましく未来へ〜」という文字が刻まれています。

今回、椅子の制作をしたのは、東神楽町にある株式会社匠工芸。

設計を担当した業天さんは

「今回の椅子づくりはものづくりの原点を思い出させてくれました。
あの椅子を作れれば、何でも作れるんじゃないかと思うほど」

と振り返ります。

ひとつの椅子を作るのに11個のパーツが使われ、
パーツの接続には、10本の竹釘を使ったそうです。

「私たちには、遠い森からはるばるやって来た木に
かけ心地のいい椅子としての、
あるいは使いやすい収納としての新しい人生を授け、
未来へ船出をさせてやる責任があると思っています」

匠工芸の桑原社長がものづくりへの想いを語ってくださいました。

「木はぶつけると傷つき、乱暴に扱うと機嫌が悪くなる。
でも大切に扱うと素直になるし、心をかけると思い通りに美しく育ってくれる。
まるで子供のようなんです」

世界にひとつだけの「君の椅子」は
発案者の想い、町の想い、そして作り手の想いがひとつになり、
形となって子供たちに届けられているのです。

子供たちへのメッセージはひとつ。

君の居場所はここにあるからね。
生まれてくれて、ありがとう。

君の椅子プロジェクトは、くらしの良品研究所・小冊子でもご紹介しています。
くらし中心 no.06「手渡すこころ」(PDF:10.3MB)

また、『君の椅子』プロジェクト展(Living Design Center OZONE)が、
2012年8月21日(火)まで東京都新宿区で開催中です。
※「君の椅子」プロジェクト展は、2012年9月4日(火)まで会期が延長になりました

そこにしかない魅力

2012年07月12日

なまはげ文化の残る男鹿半島の先端、入道崎。

北緯40度線に位置するこの岬の先には、
ニューヨーク、マドリード、北京などがあるそうです。

この地で、この先の秋田での旅路を左右する、
偶然の出会いが待ち受けていました。

「MUJIキャラバン隊の方ですか?」

ソフトクリームを食べる男性に、ふと声を掛けられます。

「そうです! どうして、分かったんですか?」

「車のロゴを見まして。スゴい、まさか男鹿でお会いできるなんて…」

男鹿半島でカフェを営んでいるという猿田さん。
その日は定休日で、男鹿に来ていた友人を案内してきたところだったそうです。

「せっかくなんで、うちのカフェに寄っていきませんか?」

お言葉に甘えて、お邪魔したのは
田んぼに囲まれた里山のカフェ『ににぎ』。

古い実家を活かした空間には、
とてもゆったりとした時間が流れていました。

中には、無印良品の家具も!

4月にオープンしたばかりで、まだ試行錯誤中ということでしたが、
そのしつらえはどこか落ち着きます。

一人暮らしの母親を想い、東京から男鹿に帰郷したのが約5年前。

「もともと、カフェなんて少ない男鹿半島。
こうした古い建屋を活かせば、懐かしいと感じてくれる
お客さんもいるのではないかと思いまして」

その狙い通り、今となっては老若男女問わず、
足を運んでくれているようです。

今年からは、年末の恒例の民族行事でなまはげ役にも抜擢され、
猿田さんは男鹿のための活動の一歩を踏み始めています。

「伝統を新しい形で表現しているといえば、
秋田市に良い方がいらっしゃいますよ」

そうご紹介いただいたのは、
秋田の『casane tsumugu』の田宮さん。

秋田を起点に、この地域に既にあるモノ・ヒト・コトの普遍的な魅力を見つめ直し、
角度や形を変えながら、内外に発信する事業を進めていらっしゃる方です。

現在、進めているのが『WAPPA Project』。

わっぱとは、秋田県が誇る伝統工芸品『大館曲げわっぱ』の略称で、
樹齢200年以上の天然秋田杉を使った曲げ細工です。

数ある曲げ細工の中でも、唯一、
国の伝統工芸品の指定を受けています。

この素晴らしい伝統工芸の技術を活かしながら、
今の生活に寄りそう暮らしの道具が作れないかと考えられたのが、
「ピンバッジ」、「壁掛け時計」、「ルームミラー」。

どれも、もっと身近なところに秋田杉を感じられるようにと、
現代の生活スタイル向けにアレンジされた商品です。
(※現在、商品化されているのはピンバッジのみ)

大学進学を機に上京し、駅ビル開発の仕事を手掛けながら、

「なぜどこにでも同じようなモノを作るのか?
もっと、そこにしかない魅力を出していくべき」

と考えるようになっていった田宮さん。

いつかは故郷、秋田のために地域振興の活動をすることを決めていたそうです。

2009年末に帰郷を果たした田宮さんは、
大館を中心に活動している「ゼロダテ(0/DATE)」と出逢います。

「ゼロダテ(0/DATE」とは、
大館出身のアーティストやクリエイターが中心となり、
街づくりをゼロリセットして考えることを目的に、
2007年から活動を開始したアートプロジェクト。

今や県の緊急雇用事業としても認定を受け、
県内外から若手を中心に人が集まり、
北秋田の魅力を再確認、発信する活動に取り組んでいます。

その「ゼロダテ(0/DATE」とデザイン・製作会社も加わり、
曲げわっぱを活用した新たな商品開発に取り組んでいるわけです。

「それぞれの地で、長い年月をかけて、自然や人によって築き上げられた
地域や場所、人に宿る、有形無形の固有の資産。
それらを次の時代へと循環させていく、
メビウスの輪のようにつなげる仕掛けを講じたい」

そう話す田宮さんは今年36歳。
この中間世代の果たしうる役割というのは、
とても大きいのではと感じさせる言葉でした。

人にも個性があるように、地域にも個性があるもの。
そこにある魅力が、これからも残っていきますように…。

その日しか食べられない団子

2012年07月06日

山形県北東部にある大石田町(おおいしだまち)を車で走っていると、
人気のほとんどない町で、
突如行列のできるお店に出くわしました。

そこは「横丁とうふ店」というお豆腐屋さん。

気になったので、私たちも車を止めて列に並ぶと、

みなさん注文しているのは、お豆腐ではなく、お団子です。

確かにお豆腐の陳列もありますが、
ここのお団子はお豆腐で作られているのでしょうか?

話を聞いてみると、この地域では
お豆腐屋とお団子の組み合わせは珍しくないんだとか。
お豆腐づくりの過程で、大豆を蒸かす際に
お米も一緒に蒸かすようになり、
それをお団子にするようになったといいます。

同じエネルギーで、2つの商品ができてしまうのは
一石二鳥、素晴らしいことですね。

また、店内にはこんな看板や注意書きやがありました。

「一本からでもお作り致しますから
本日中に召し上がる分だけお買い求め下さい」

つまり、贈り物やお土産には不向きなお団子なのです。
多く買わせようとするのではなく、
"本物の味を提供しよう"という食品づくりの基本を実現されています。
でもこれは、商売をするうえでは案外実現できていないことかもしれません。

12年前にデパートのフェアで販売した際、
「いつまでもつの?」というお客さんの質問に、
「明日には確実に硬くなります。今日中にお召し上がりください」
と正直に答えたところ、それでも
「本物だから仕方ないわね…」
と1日のうちに1000本以上が売り切れ、
『最上川千本団子』という名称になったんだそうです。

作り置きではなく、注文してから作られるそのお団子は、
ふわふわモチモチで柔らかい!

また、お団子の原料であるお米はもちろん山形県産、
「くるみだんご」(写真上)は地元産のくるみを、
「ずんだんだんご」(写真下)は地元産の枝豆を使用されています。

昨今はインターネットや物流の発達により、
自宅にいながらも全国のグルメやスイーツが味わえてしまう時代ですが、
そこに行かないと食べられない、
作り立てだから美味しい、
もしかすると、それが本来の食のあり方なのかもしれないな…
そう感じました。

納豆汁を作ろう!

山形といえば、

さくらんぼに、

玉こんにゃくが有名ですが、実は「納豆」の消費量が高い
って知っていましたか?

スーパーには山形県産の納豆が多数並び、

"塩納豆"や"南蛮納豆"なんていう、
これまでに見たことのない納豆もありました。

また、家庭料理にも納豆は頻繁に登場するそうです。

例えば、山形でお餅を食べる時には、「納豆もち」が一般的なんだとか。
納豆好きの私たちですが、これまで納豆とお餅の組み合わせは
食べたことがありませんでしたが、おいしい!

次に、山形県の内陸部で食べられているのが、
つゆに納豆と卵、サバ缶などを入れて食べる
「ひっぱりうどん」「ひっぱりそうめん」。

それから、冬の定番料理のひとつが「納豆汁」。
昔から消化が良く体が温まる汁物として親しまれ、
山形では、大みそかや1月7日に七草粥の代わりに
納豆汁を食べる習慣があるといいます。

今回は季節はずれというのと、各家庭で作られているものとあって、
なかなか巡り合えないなか、
酒田市にあるちゃんこ鍋屋「北の富士」さんの料理長にご協力いただき、
「納豆汁」の作り方を教えてもらいました!

材料はこちら。
納豆に、厚揚げ、なめこ、月こんにゃく、山菜、せり。
(季節や家庭によって材料は異なります)
調味料はだし汁、味噌、酒、醤油。

材料がそろったら、まずは納豆にお酒を少々加え、
すり鉢でよくすります。
(すり鉢がない場合は、包丁で細かく刻んでもいいそう)

続いて、だし汁に納豆以外の材料を入れて煮ます。
具材が柔らかくなったら、お味噌と醤油少々で味付け、

最後に納豆を入れます。
(納豆を入れる際に、煮汁でゆるめて溶かし入れるのがポイント!)

器に入れて、お好みでせりやネギをのせたら出来上がり!

とっても簡単です♪

食べてみると、少しとろみがあり、
食べているうちに早速、体がぽかぽかしてきました。

「雪道と納豆汁は後の方がいい」という言葉があるそうで、
降り積もった雪道は、誰か先に歩き踏み固まった後の方が良い。
納豆汁も出来上がりをすぐに食べるよりも、
半日くらい寝かせて食べるとさらにおいしいんだそうです。

高たんぱく、低脂肪で胃腸にやさしい納豆を使用している納豆汁は、
整腸作用や肝臓障害防止にも最適のようです。

すぐに真似のできそうな、山形県の郷土料理「納豆汁」を
家庭で作ってみてはいかがですか?

山形の暑い夏の過ごし方

2012年07月03日

「山形って夏暑いんですよ!」

無印良品イオン山形北店に伺うと、
そう店長が教えてくださいました。

山形が冬寒いのは知っていますが、夏暑い?
意外でしたが、山形市は2007年まで、
なんと74年間にわたって日本最高気温の記録を保持していたんだそう。

そんな暑い山形で人気の商品とは…

店長の身につけているもの、なんだか分かりますか?

水に濡らして使う・UVカットクールバンド ネック用

水だけあれば何度でも使えるクールバンド、いいですね☆
さりげなくつけられますし。

以前、インドの砂漠でラクダに乗っていた時に、
同じく水に浸した布をかけると暑さをしのげると
ラクダ使いに教えてもらったことを思い出しました。
暑さ対策は万国共通なんですね!

他にも山形の暑さ対策を聞く中でお薦めいただいたのがコレ。

氷が浮いたラーメン!?!

山形市のとあるラーメン屋で、常連客の
「夏には冷たい蕎麦を食べるんだから、ラーメンも冷たいのが食べたい」
というひと言から考案された一品、
「冷やしラーメン」だそうです。

食べてみて納得!
さっぱりしたスープにつるつるコシのある麺がおいしい♪

スーパーに行ってみたら、家庭で作れる
「冷やしラーメン」もありましたよ。

また、あるようで食べたことのなかったお蕎麦、
「冷やし肉そば」もぜひ!と言われて実食。

鶏だしのきいた醤油味の冷たい汁そば。

つけ蕎麦の場合、どちらかというとお蕎麦そのものを味わうのに対し、
この「冷やし肉そば」は冷たいつゆと、歯ごたえのある鶏肉が
すべてセットになって出来上がっている味のようですね。

「冷やし肉そば」のルーツは大正時代にさかのぼるそうですが、
こちらも常連さんがおかずのお肉をお蕎麦にのせて食べたのが
キッカケなんだとか。

暑い山形で生まれた「冷やしラーメン」に「冷やし肉そば」。
食文化の中にも、こうした暑さを乗り越えるコツがあるんですね!

みなさんの地域の食べ物はいかがですか?

ネットストアの裏側

2012年06月27日

無印良品のモノが欲しい時、2つの買い方があります。
1つは直接お店に足を運ぶ。
そしてもう1つはネットで注文し自宅に届く。

後者の場合、商品はどのように私たちの手元に届いているのでしょうか?
新潟県長岡市にある「新潟物流センター」に潜入取材してきました!

ここは無印良品のネットストアの商品が置かれている場所。

広くて風通しの良い空間に音楽が流れ、
スタッフの皆さんが笑顔で挨拶をしてくれる、
活気のある職場だなというのが最初の印象です。

スタッフには女性が多く、
フォークリフトをスイスイ操る方もいて、なんだかかっこいい!

私たちがネットで注文した商品は、
ひとつひとつスタッフの手で棚から集められ、レジへと進みます。
このレジを通すことで、
注文通りの商品がそろっているかが分かる仕組みになっているそう。

衣服などの割れ物ではない商品は機械で自動に梱包されますが、

食器などの割れ物はそれぞれスタッフの手で
丁寧に梱包されていました。

意外だったのですが、
作業のほとんどが人の手によって行われているんです。

物流の業界では通常いかにいい機械を導入するかに
注力するそうなのですが、
この新潟物流センターでは逆に機械を廃止したんだそう。

機械の場合、時間内に作業可能な範囲が決まってしまいますが、
人の方が忙しければその分パワーを発揮でき、流動性が利きます。
また、人の場合は、何より「丁寧さ」と「正確さ」が担保できる。

業界内でもこの"人ありき"の業務工程は注目を浴びているといいます。

梱包された商品は、すぐに配送業者の手に渡り
お客様のご自宅に配送されます。

家から1歩も出ずに買い物ができてしまうネットショッピングは、
買い手である私たち消費者にとってはとても便利なものですが、
その裏ではスタッフさんたちが私たちの代わりに
商品をピックアップして、レジを通し、
梱包して持って来てくれるんですよね。

当たり前のことですが、普段考えたことのなかった
ネットストアの裏側を垣間見ることができました。

今度からはネットショッピングで注文ボタンを押す際に
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
と心の中でつぶやこうと決めました。

新潟はマンガ王国!?

新潟市の無印良品ラブラ万代店にお邪魔しました。

いつものようにお店の人気商品を伺うと…

ご紹介頂いたのが
ポリプロピレンペンケース(横型)

数ある商品の中で、このペンケースが出てくるとは!

理由を尋ねると、

「新潟って実はマンガ王国なんです。
定かではありませんが、もしかするとマンガを書く人が多いから
このペンケースも人気なのかもしれません!?」

と店長。

新潟県は『ドカベン』の水島新司さん、
『うる星やつら』の高橋留美子さん、『デスノート』の小畑健さんをはじめ、
100名以上の漫画家を輩出しているんだそうですね。

新潟市ではマンガを街おこしに利用しようと、
1998年から毎年「にいがたマンガ大賞」なる
マンガのコンテストが開催されていたり、
「マンガキャラクターストリート」の設置や
「マンガバス」の運行などもしているんだとか。

将来有望な、若き漫画家さんたちが無印良品のペンケースを
使っていてくれたとしたら、なんだか誇らしいです。

ペンケースから見えてきた、知られざる新潟県の姿でした!

大地の芸術祭

2012年06月26日

新潟県南端の十日町(とおかまち)市と津南(つなん)町からなる
「越後妻有(えちごつまり)」地域は面積760㎢で
東京23区がすっぽりと入る大きさです。

今年の冬には全国一の積雪を記録したという豪雪地帯ですが、
ここの土壌では"魚沼産コシヒカリ"をはじめ、
どんな作物でも育つといわれるほど、豊かな自然が今でも残っています。

この美しい里山を舞台に、
2000年から3年に1度開催されているのが
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」。

地域にあるものを活かしながら、"場に根ざした作品"を
アーティストと地元の人とが恊働して作り上げていくこの芸術祭は
今年で5回目の開催となります。

期間中は、越後妻有の200の集落に300点以上のアート作品が展示されますが、
期間が終わっても約200点はそのまま里山に常設されています。

今回は、事務局の大木さんにご案内いただき、
いくつかのスポットを見て回りました。

これはフィンランドの建築家達が手がけた「ポチョムキン」という作品。
もともと産業廃棄物の不法投棄場所になってしまっていた河川横の場所に
鉄やガラス、廃材を使って表現された空間です。

タイヤでできたブランコに揺られながら川を眺める。
ただそれだけのことですが、
小鳥のさえずりと水の音を聞きながら過ごすその時間は
とても贅沢なものに思えました。

2003年に作られた作品ですが、
今では地元の人のデートスポットになっているそうです。

他にも「たくさんの失われた窓のために」や

「再構築」といった作品が

広大な大地の上に突如として現れます。

これらの作品は、アーティストが地元を視察したうえで
この地に合わせて作り上げたものであり、
それぞれの作品にはメッセージが込められています。

例えば、上記の「たくさんの失われた窓のために」という作品は、
越後妻有を来訪したアーティスト自身が、この景色に圧倒され、
窓から見えるであろう越後妻有の風景をもう一度発見しよう!
と作り出したものだそう。

確かに、もしかするとこの場所にもかつては家があり、
窓から誰かがこの風景を見ていたのかもしれません。
そして、同じ窓からの風景でも季節や天候、
その日の気分によって見えるものが違ったんだろうな…
そんなことを感じました。

トリエンナーレはこの越後妻有以外の
横浜や福岡などの地域でも行われていますが、
越後妻有のすごいところはやはりその規模と、
地域住民と一体となって進めているところ。

いったいどのようにして、作り上げていったのでしょうか?

「初めはすごく大変でした。
地元のおじいさんやおばあさんに"アート"の話をしても伝わらない。
ディレクターは1000回以上ここに足を運びました。
あとは、"こへび隊"の存在が大きいと思います」
と大木さん。

"こへび隊"とは、全国から集まった「大地の芸術祭」のサポーターで、
農作業や雪掘りなど地元の人のお手伝いをはじめ、
作品制作や来訪客の案内までしている人たちのことだそうです。

彼らが地域のことを学んでいき、地域のファンになっていったことで
地元の人たちとの交流が深まったといいます。
大木さんももともとは学生時代に、こへび隊として関わり、
今こうして事務局として働いているんだそう。

外から地域に入って活動するポイントを伺うと、
「当たり前のことですが、元気よく挨拶をする。
『使わせてもらっている』という気持ちを忘れないことでしょうか」
と教えてくれました。

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2012」は、
2012年7月29日(日)〜9月17(月・祝)まで
越後妻有地域で開催されます。

そして、無印良品津南キャンプ場からも
期間中の土日に、シャトルバスが出る予定!

キャンプ場を拠点にアウトドアを楽しみながら、
「大地の芸術祭」でアートに触れてみるのもいいかもしれませんね。

シャトルバスでは、地元出身のガイドが
地域の自然やくらしについて説明してくれるそう。
アートを体感しながら、地元のことも知れるいいチャンスです。

これまでのキャラバンでも様々な地域づくりの現場を見てきましたが、
地元の人とそれ以外の地域の人を結びつけながら、
今あるものを活かし、長期にわたって活動されている好事例を
越後妻有に見ることができました。

同じようで違う、無印良品のキャンプ場

2012年06月25日

「嬬恋は"湖畔の野原"、南乗鞍は"山間の高原"とたとえるならば、
津南は"里山の森"ですよ」

無印良品キャンプ場スタッフにそう教えられ、
やってきたのは6月上旬に今シーズンが始まったばかりの
無印良品津南キャンプ場

これでキャラバン隊、無印良品3つのキャンプ場制覇です!

そう、無印良品のキャンプ場の歴史は、
ここ津南で1995年に幕を開けました。

すぐ裏に山伏山がそびえる立地は、
確かに里山の森の中のキャンプ場といった印象です。

その地を知り尽くした地元出身のスタッフたちで運営されていることもあり、
そこでの滞在はとても濃いものとなりました。

まずはキャンプサイト選びから。

眺望、間取りなどを考えながら、場所を絞っていきます。
こうして居住地を選んでいく様は、
人間が昔から繰り返し行ってきた営みなんですよね。

吟味して決めたサイトに、
みんなで協力して、テントやタープを張っていきます。

家づくりも、元来、共同体の重要な営みでした。

こうして見晴らしのいいアジトが出来あがりました!

完成するや否や向かった先は、晩ご飯の調達。

「晩飯は、ここで採れるかにかかってますから」

そうスタッフに告げられ、道なき道をどんどん山奥へと入っていきます。

すると、ありました!
「根曲がり竹」です。

主に東北や北陸といった豪雪地帯の山地に群生する
タケノコの一種です。

これを手で根もとの方からもぎ取ります。

「津南キャンプ場の魅力は、何といっても
山菜やタケノコといった山の恵みですから」

思わず時を忘れて、山菜・タケノコ採りに没頭していました。
汗だくになりながら、みんなでこれだけの晩御飯を集めましたよ♪

大漁!大漁!一食分には十分すぎるぐらいです。

灰汁が少なく、そのまま食べられるため、
晩御飯では、姿焼にしたり、

炊き込みご飯にしたり、

味噌汁に入れたりと、大盤振る舞いで頂きました。

どれも本当に絶品!

なかでもお味噌汁は、今まで食べたことのない出汁が出ていて、
癖になる味わい。

それもそのはずで、このお味噌汁、
なんと鯖の缶詰を入れてあるんです。

この根曲がり竹と鯖の缶詰を入れたお味噌汁は、
長野県の北信地方と、新潟県の上越地方の山間部の郷土料理だそう。

私たち、完全にハマってしまいました。

こんな山の恵みを共にしたら、お酒も進みます。
乾杯!

津南キャンプ場では、今年お酒のセレクションを、
地ビールはもちろん、世界各国の瓶ビールを取りそろえています。
大自然に囲まれながら飲むビールの味は格別ですよ!

夜は火を囲いながら、また語らい合いました。

旅のこと、津南のこと、それぞれのこと。
深夜まで話題が尽きることはありませんでした。

思えば、火を囲って暖をとるのも、
古来からの人間の営みには欠かせないものですよね。
火という自然が放つエネルギーを囲うことによって、
素の自分をさらけ出したくなる気持ちになるのかもしれません。

翌朝も、自然の恵み豊かな津南らしい朝食をとりました。

津南キャンプ場には、他にも、
カヌー・カヤックで全面を漕いで回れる広い湖もあります。

新しくラフティング用のラフトボートも導入され、
暑い夏にはもってこいのアクティビティになりそうですね!

「地元出身のスタッフたちなので、地元の話ができる。
それが何よりも津南キャンプ場の魅力です」

そう語る津南キャンプ場のスタッフたちは、
アウトドアの熟練で、元気いっぱいの方たちでした!

"湖畔の野原"のカンパーニャ嬬恋キャンプ場
"山間の高原"の中の南乗鞍キャンプ場
"里山の森"の中の津南キャンプ場

どこも大自然に囲まれた環境ながら、
その魅力は同じようで、ひと味もふた味も違っていました。

自然は語るものではなく、感じるもの。

今年の夏、是非、無印良品のキャンプ場で、
外遊びしてみませんか?

アウトドアを日常に

新潟県三条市の山間部にその会社はありました。

株式会社スノーピーク、日本のアウトドアメーカーです。

私たちがキャンプ場で使わせてもらったテントや、
写真(下)のアイアングリルテーブルもスノーピークのもの。

三条市は全国的にも金物工業が有名ですが、
スノーピーク社ももともとは金物問屋だったそうです。
登山が趣味だった初代社長が、出入りしていた金物屋に
オリジナルの山道具を作ってもらったことが
アウトドアメーカーとしての始まりなんだとか。

今でも三条市に本社を置くワケを

「ここにはスペシャルな技術を持っている企業が周りにたくさんいますから。
それがモノを作り続ける我々の武器でもあります」

と、販売促進課の片山さんは話してくださいました。

これは世界でも有数の技術を持つ、
燕三条の技術が生んだピカピカのステンレスマグ。

驚くほど軽くて丈夫、そして、研ぎ澄まされたこのデザインですから、
キャンプだけでなく、フェスを楽しむ若者にも人気だそうです。

さらに、分解できるこのお箸。

細い方を太い方にしまえるため、携帯もでき、かつ、衛生的。
海外でも大人気の商品だそうです。

このスノーピーク社ですが、実は1年ほど前に
長年の夢を叶えました。

それは、本社を移転して、キャンプ場の中に置いたのです。

「私たちの商品コンセプトは、『自分たちが欲しい物を作る』。
そのためには、こういう環境で仕事をしないとダメなんです。
社員がユーザーさんより遊んでないとね!」

日焼けしてTシャツの似合う片山さんが発したこの言葉には
とても説得力がありました。

三条市の技術を結集し、海外でも注目される企業へ。

「アウトドアを日常にするのが理想です。
将来的にはアウトドアという言葉をなくしたい」

片山さんがそう語るように、
スノーピーク社のあくなき探求は続きます。

美味しい食づくりを通じて伝える心

2012年06月22日

長野県下高井郡、野沢温泉村。

日本屈指の標高差を誇るスキー場を有する温泉街には、
冬になると世界中からスキーヤーたちが集まります。

この地を初夏に訪れた私たち。

そこには、熱い温泉と熱い想いを持った人たちによる、
オフシーズンでも楽しめる、様々な取り組みが待ち受けていました。

まず訪れた先が、村のホテル「住吉屋」さん。

風情ある旅館といった雰囲気ですが、
前社長がホテルのプライベート性と旅館のサービスの良いところを目指して
「村のホテル」と命名したそう。

また、贅を尽くしたサービスよりも、
普段着の心でのお出迎えをモットーに、
料理も、野沢で昔ながらに食されているおかずを提供しています。

その代表格が"取り回し鉢"と呼ばれる、
野沢に江戸時代から伝わる祝い膳料理。

特別な材料を使ったものではなく、
地元の野菜や山菜を使った田舎料理で、
夕飯時に2〜3品選ぶことができるそう。

素材の持ち味を生かした素朴な味付けで、
都会ではなかなか巡り合えない味わいです。

それもキチンとした説明と共に提供してくれるのが、うれしいところ。

こうした昔ながらに食べられている味覚こそが、
本当に旅人が求める味なのではないでしょうか?

過剰なサービスはありませんが、十分に心のこもった住吉屋さんのお出迎えは、
無印良品的な宿とでも言いたくなるほど心地の良いものでした。

続いて訪れたのは、ハウスサンアントンジャム工房。

オーストリアで学ばれたというジャムづくりを手掛けるのは、
なんと過去2回もスキーの日本代表としてオリンピックに出場したことのある、
片桐幹雄さんと奥様の逸子さん。

主に長野で採れる厳選した果実と、
腕自慢のシェフの力を使って、
「素材に新しい命を吹き込むようなピュアで素材感たっぷりのジャムを作ろう!」
という想いから、ジャム作りをスタートされたようです。

「同じフルーツでも、その年の気候で味も香りも異なるんです。
素材そのものの味を引き出すよう心掛けているので、
毎年、味が違うんですよ。ほら、ワインだってそうでしょ」

そう話す片桐さんご夫妻のジャム&ジュースは、
常に最高の出来を追求した逸品です。

そのお味は、口の中いっぱいに自然の甘みが広がりました。

Found MUJIを扱う一部の無印良品の店舗でも、
お買い求め頂けます。

こうしてジャムの製造販売を始めたことによって、
スキーのオフシーズンでも、
この地に雇用を生み出していくことができるようになったと言います。

そんなハウスサンアントンさんのジャムがよく合うパン工房があると紹介され、
伺ったのは、長野市にある「ベッカライ麦星」。

偶然にも前述の片桐さんと同様、
オーストリアでパンづくりを学ばれてきたという鈴木さんご夫婦が営む、
ライ麦パンを主としたパン屋さんです。

薪で焼き上げる理由は、
間伐材を燃料にすることで少しでも森の循環を取り戻したかったから。

ライ麦というのも、雪国でも育つ農作物として、
追々は近隣の休耕畑を生かしたいと考えているからだそう。

一つひとつに想いのある工程から作られたライ麦パンは、
想像していたような酸味は少なく、まろやかな甘みすら感じる味でした。

「ライ麦パンというのは、正しく発酵させてあげれば、
酸味を抑えることができるんです。
今はまだまだですが、美味しいライ麦パンづくりを通じて、地域に貢献したい」

ここにも一つ、これからの時代における、
ものづくりのヒントが眠っていました。

美味しい食づくりを通じて心を伝え、
それが新たな需要を生み出すことに繋がる。

長野で出会った取り組みは、着実に実を結び始めています。

原点回帰

2012年06月21日

長野県に入り、信州蕎麦でも食べたいなと、
ふらっとお蕎麦屋さんに入りました。

時を忘れるようなひと時を過ごしてほしい、
と、名付けられたお店の名前は「時香忘(じこうぼう)」。

木の廊下を曲がった先には、
確かに現実を忘れるような空間が広がっていました。

「昔は、小麦粉なんてなかったから、
蕎麦粉十割で打つのが当たり前だったんです」

元商社マンだったという亭主が、
そう話しかけてきてくれました。

原点に立ち返り十割で打たれた蕎麦はみずみずしく、
蕎麦の味が口いっぱいに広がる美味しさでした。

「原点に立ち返ることの大切さは、
この会社に教わったともいえます」

そう亭主に強くお薦めされ、ご紹介頂いたのが、
長野県伊那市にある「伊那食品工業株式会社」。

敷地に入った瞬間から、
なんて素敵な会社なんだろう、と感じるほどの雰囲気が漂っています。

一見、どこかの公園の写真のようにも見えますが、
れっきとした伊那食品工業の会社の敷地の一角です。

歩いている方々は、地元か観光客の人たち。
そう、敷地内は誰もが出入り自由なんです。

「敷地内の緑は、すべて社員たちの手によって整備しているんですよ」

突然の訪問にもかかわらず、快く迎えてくださったのは、
営業推進部の太田課長。

「もともとは社員の憩いの場の整備のつもりだったのですが、
それが自然と社外の人たちにも受け入れられるようになりましてね」

太田課長がそう話すように、
地元の人たちの憩いの場になっている敷地内には、
中央アルプスからの伏流水を汲み上げた水汲み場があったり、

レストランやショップがあったり、

さらには、無料で身体測定をしてもらえる施設まで。

標榜していないものの、会社の発展は地域の人たちの健康と共に、
といった会社のスタンスを表しているかのようです。

会社の一角には、こんな社是が掲げられていました。

「いい会社をつくりましょう。」

この社是の補足文章には、こう続きます。

「いい会社とは、単に経営上の数字ではなく、会社を取り巻くすべての人々が
『いい会社だね』と言ってくださる会社のこと」

この文章を読んだとき、上記のような施設があるのも納得させられました。

100年先の会社の維持発展を目指して掲示されている「100年カレンダー」は、

現場では当たり前のように、顧客先や関連企業の機械のメンテナンスや
入れ替え時期を明示するためのツールとして活用されているそうです。

自社のみならず顧客先や関連企業の維持発展も、
重要な仕事と考えているのです。

そんな伊那食品工業では、
創業以来、一度もリストラを行ったことがありません。

さらに、寒天という斜陽産業のなか、
ブームの到来する平成18年までのあいだ、
48年間増収増益を果たしてきたといいます。

経営理念には、
「企業は社員の幸せを通して社会に貢献すること」
と明記してある通り、
社員には家族や趣味を大切にするように促しているそうです。

そして、例えば社員の釣り好きから発展して、
釣りで使用するワームを寒天で開発したりなど、
社員の趣味から仕事に展開されることも多々あるんだそう。

社員も草木も生き生きしているように見えたのは、
こうしたブレない経営理念から来ているものなのでしょう。

塚越寛代表取締役会長の言葉を紹介します。

「日本社会には今、『改革』という言葉が満ち溢れています。
真の改革とは、本来あるべき姿に帰ること、つまり『原点回帰』にほかなりません」

原点を見つめ直すことの大切さは、
これまでのキャラバンでも多々、感じてきたことでした。

この原点こそが、伊那食品工業にとっては"寒天"であり、
経営視点では"社員の幸せ"なんだろうと思いました。

伝統産業に新しい付加価値を与えながら発展し、
社員とその周囲の幸せの波紋を広げていく姿は、
これからの企業が目指すべきモデルといえるのではないでしょうか。

ほお葉祭り

2012年06月19日

「木曽谷では昔から"朴(ほお)の葉"を様々な形で生活に使ってきました。
6月に行われる『ほお葉祭り』に向けて準備中です。
よかったら遊びに来てください」

Twitterでキャラクターのほおちゃんからこんなメッセージをもらい、
ちょうど近くを通った私たちは、ほお葉祭り実行委員会を
訪ねることにしました。

これが朴の葉。

もともと、「ほお」は「ほう」(包)の意で、
大きな葉に食べ物を盛ったことからの命名だそう。
昔は葉っぱがアルミホイルの代わりでした。

長野県木曽地方と岐阜県飛騨地方周辺の郷土料理のひとつ、
「ほお葉寿司」もそうです。

昔から農業・林業を生業とする家庭が多く、
昼食を畑や山で採ることが多かった為、
携帯性が良く、殺菌効果で日持ちし、
さらに近隣との作業の助け合いで、お裾分けにも便利な
このほお葉寿司が広まったといいます。

また、柏の木が育たないこの地域では端午の節句に、かしわ餅の代わりに
「ほお葉巻き」(米の粉を練った餅にあんこを包んだ和菓子)
を食べてきたんだそう。

葉の香りで、中のお寿司も一段と味わい深くなるのも
先人の知恵ですよね。

「ほお葉巻きはたくさん作って、ご近所に配っていましたよ」
と実行委員の丸山さん。

ほお葉巻きが地域のコミュニケーションの
きっかけになっていたのかもしれませんね。

当時は、各家庭の庭に必ず朴の木が生えていたほど、
朴の葉は人々の生活に欠かせないものだったようです。

しかし、時代の移り変わりと共に、朴の葉の活用が減ってきており、
この文化を絶やしたくないと10年ほど前から、
上松(あげまつ)町を中心に始めたのが「ほお葉祭り」だそうです。

「ほお葉寿司」や「ほお葉巻き」の調理体験コーナーや、
ほおの葉を使ったグッズなどが販売されているようですよ。

「先人の知恵を絶やすことなく、私たちも学びながら
次の世代にも伝えていきたいと思います」

木曽の恵みを"ほおば"る、「ほお葉祭り」は
6月初旬〜7月頭まで、木曽町・上松町・大桑村・南木曽町・木祖村・王滝村の
道の駅他の会場で開催されているそうです。

ちなみに、この時期がちょうど朴の葉が採れる季節なのだそうですが、
これは毎年端午の節句に合わせての開催なんだとか。

そう聞いて、頭に「?」マークがつきました。
だって、5月5日はもう既に過ぎていますから…。

聞いてみると、この地域では昔から端午の節句は
6月5日に祝うんだそうです!

そういえば、道中、鯉のぼりが空を泳いでいるのを見て、
てっきりまだ片付けていないだけかと思っていたのですが、
そういうことだったのですね。

森の木々がより緑深くなる旧暦に合わせているのでしょうか。
どちらにしても、季節を味わう行事が根付いていることは
本当にステキなことだと再認識できました。

夏を楽しむコツ

無印良品では、元気に心地よく夏を過ごすために、
夏コツ100選」と題した、夏のコツをご紹介しています。

私たちが長野市で訪れた、無印良品MIDORI長野店では
こんな夏の人気商品を教えていただきました。

水出し飲料シリーズ

水の中にポンッと入れるだけで、
アイスティーやジュースが簡単に作れるティーバッグです。

夏の暑さ対策のひとつは、水分補給にあるっていいますものね!

またその種類が多いのがうれしいところ☆

スタッフさんのお薦めはそれぞれ、
水出し ブルーベリー&クランベリー」と「水出し 茉莉花茶
だそうです。

家庭で作る際には、私たちも自宅で愛用していた
アクリル冷水筒」を使うととっても簡単。
横に寝かせて冷蔵庫に収納できるのが便利なんです。

また、外出時にいいのが「組合せできる ステンレス保温保冷携帯マグ」。
キャラバン隊の旅のお供として大活躍中です!
運転中に片手でふたを開けられるのがいいんです。

この夏の私たちの目標のひとつは、水出し飲料シリーズを全制覇すること!

ちょっとした工夫で夏の暑さもワクワクに変わるかもしれませんね!?

気持ちいい街づくり

2012年06月18日

東西に約128km、南北に約220kmと広い長野県。

各地域の異なる気候風土により、北信、東信、中信、南信と4エリアに分けられるほど、
なかなか一括りにまとめて表すことのできない県です。

そんな中に、興味深い発展を遂げている街が2つありました。

1つは中信の松本市。

かつて、松本城を中心とした城下町として栄え、
いまだ街並みはその時の風情を残しています。

その多くは、民芸品・工芸品を扱うお店が占めているんです。

手仕事の日用品の中にこそ「用の美」があると、
20世紀初頭、柳宗悦を中心に始まった民芸運動に、
松本出身の池田三四郎が加わり、
その運動を広げていったことに由来するそうです。

そんな歴史がある町ゆえに、街の人の懐も深く、
全国から工芸師が集まる町として発展しました。

一方、善光寺の門前町としての風情が残るのが、長野市。

松本市の城下町の雰囲気とはまた異なり、
善光寺参拝の宿場町として栄えていた雰囲気が漂っています。

ただ、昨今では、古くなった空き家が取り壊されるなど、
徐々にその風情も薄れつつあったそうです。

そんななか、古き街並みを活用しながら、
新しい試みを始める方々にお会いすることができました。

まずは、無印良品のスタッフの方にご紹介頂いた、
「ch.books(チャンネルブックス)」という長野市にある本屋さん。

もともと、同じ出版社に勤めていたという共同経営者のお二人。
青木さん(男性)は、東京のデザイン会社からのUターン組で、
島田さん(女性)は、2年に及ぶ世界一周を経て、今に至ります。

「チャンネルというネーミングは、
ちゃんとアイディアを練る、ちゃんと寝る、といったあたりからきてるんです。
前職ではあまり寝ることができなかったので、
ちゃんと人間らしい生活を送ろうという想いも込めて(笑)」

そう話してくれたお二人のアジトは、
写真では伝わりにくいと思いますが、
なんと築80年ともいわれる建屋を改築したもの。

風情ある佇まいの中では、時間もゆったりと流れている感じがして、
まさに、お二人がいう「人間らしい生活」が送れる空間なような気がしました。

続いて、青木さん島田さんも親しいという
BOOK&CAFE「ひふみよ」さん。

大好きな本とコーヒーに囲まれながら、
おばあちゃんの家のような懐かしい空間をつくりたいと、
古い建屋を改装して、この店を始められたのが今井さんです。

結婚を機に、好きなことを仕事にしようと決め、
奥さまの実家のある長野へとIターンで移り住み、このお店をスタートされました。

お店のコンセプト通り、古い建屋を改装した2階のカフェは、
何とも懐かしい雰囲気が漂っていました。

経営は大変ですが、大好きなことに携われているから幸せ、という今井さん。

「このご縁があったのも、門前暮らし相談所の開催する
"空き屋巡り"に参加したからなんです」

そう今井さんにお聞きし、
"空き家巡り"を主催する「ナノグラフィカ」の清水さんにお会いできました。
ここ門前で20年ほど前から活動している方です。

地元雑誌用の写真を撮ったり、記事を書いたりする仕事の傍ら、
善光寺のそばにある古い民家を利用した喫茶室や空き家巡りなどを
企画・運営されています。

清水さんによると、門前地区が今のような形に発展していったのは、
ここ2~3年ぐらいの話なんだそう。

「自分たちが慣れ親しんでいた古い街並みが
次々と壊されていくのを、見ていられなかったんです。
最初は単純にそんな想いからでした」

事実、昭和30年代には約1万8000人いた門前町の人口は、
平成20年に約6000人にまで減少。

増え続ける空き家が次々と壊され、新しい建物が立ち並ぶ様に
我慢できなくなった清水さんは、まずは空き家の現状から調査しました。

そして、貸出可能な空き家を洗い出し、大家さんと交渉。
そこへ移り住みたい人を募集し、"空き家巡り"のツアーを開催しました。

平成21年から始めたこのツアーは今年の5月で既に16回を数え、
結果、30軒ほど空家への入居が決まったそうです。

驚いたのは、清水さんはそれをすべて無償でやっているということ。

「街づくりをやろう、ではなく、好きでやっていることなんで。
今あるものをうまく使って、違う形で街が進化していければいいなと。
昔を取り戻すのではなく、未来は新しく変化していっていいと思ってます」

そう話す清水さんのスタンスは、あくまでもニュートラル。

「こうしなければいけない」ではなく、「こうなればいいな」
という、自分の中から自然に湧き起こる想いを行動に結び付け、
それに賛同する人たちが、全国から集まりだしているわけです。

その後、行政も巻き込んで、
「門前暮らしのすすめ」という冊子も発行されています。
人々の想いに、行政が後から付いてきているのです。

こうして、若い人々を中心に歴史ある街においても
新しい取り組みが育っていることを知りました。

街の人々の魅力とエネルギーに、奮い立たされるキャラバン隊でした。

大人の外あそび

2012年06月08日

雨の多い今日この頃ですが、
最近、「外あそび」してますか?

私たちキャラバン隊は、毎日が移動の日々ですが、
道中、自然と触れ合うことで、頭をリフレッシュしています。

世界一周の旅をした時にも感じたのですが、
大自然を前にすると、不思議と頭の回転が良くなる気がするんですよね。

面積も大きく、移動も激しかった岐阜ラウンドの締めくくりは、
大自然の中で身も心も整理すべく、
無印良品南乗鞍キャンプ場へお邪魔しました!

無印良品のキャンプ場への訪問は、
4月末にお邪魔したカンパーニャ嬬恋キャンプ場に引き続き、2回目です。

けわしい山道を登ると、
そこには雄大な山々に囲まれた空間が広がっていました。

天気が良いと、乗鞍岳や御嶽山といった雄山を見ることができます。

キャンプサイトの数も200を超える広大な敷地は、
日本のキャンプ場の中でも最大級を誇るそうです。

起伏の激しい山間部に位置するキャンプ場のため、
サイトによって特徴が大きく変わるのも、南乗鞍キャンプ場ならでは。

奥行きのあるサイトから、

こんな2段構えのサイトまで。

当然、場所によって、景観も変わるわけなので、
サイト選びは、まるで家を建てる時のような感覚が味わえます。

そして、その広大な自然を堪能できるよう、アプローチが色々用意されています。

森林浴を楽しめる遊歩道をはじめ、

ゆっくりと寛げる、せせらぎ広場や、

マウンテンバイクで山林を駆け巡る、
シングルトラックまで!

このマウンテンバイク向けのコースは、
敷地内に全部で6本も用意されていて、
それぞれ味わえる魅力が異なるんです。

「コーナーリングをしやすいように、
ルート設計には気を配ってますので、安心して滑走してください!」

そうスタッフに言われた通り、
道中、御嶽山が拝める全長4.5kmのコースを颯爽と駆け巡りました。

「これぞマウンテンバイク!」と思えるルートで、アドレナリン大放出でした!

そして、汗をかいた後、用意されていたのが…、

なんと御嶽山が目の前に広がる露天風呂!
大自然のパノラマを眺めながら入浴ができるんです。

とっても優雅な気分で、汗を流せましたよ。

「山道を上がってきてもらうようなアクセスなので、
その分、自然の魅力をたっぷり味わえるキャンプ場なんです。
そんな自然に触れられるアウトドア教室を
たくさんご用意してお待ちしています」

そう語るキャンプ場のスタッフたちも、
釣り、山登り、スノーボードなど、
多彩な趣味を持つ、個性豊かな面々です。

心と体をリフレッシュしたくなったら、
こんなユニークなスタッフの待つ南乗鞍キャンプ場へ。

大人も思う存分、外あそびできると思います♪

岐阜県の無印良品の人気商品とは?

岐阜県は大垣市にある、
無印良品アクアウォーク大垣店へお邪魔しました!

「この地域は夏場、とっても暑いんですよ」

そう店長が教えてくださったように、
過去最高気温を記録するなど、岐阜県南部の一帯は猛暑地帯。

私たちが訪れたのは5月下旬でしたが、
既に30度近い気温で、確かに暑かったです。

そんな地に位置する店舗とあって、
人気商品はやはり暑さ対策商品。

リネンコットン サンバイザーにもなるハット

その名の通り、ハットなのにサンバイザーにもなって、
かつ、後ろのリボンをほどけば、首回りの日除けにもなる逸品です。

これなら、一つ持っていれば、
気候に合わせて様々な形に展開できますね♪

他にも、サーキュレーターといった
室内の空気の循環を良くするアイテムも人気。

冷房で冷やした空気は、下に溜まりやすいので、
これで室内の空気を循環させることで、部屋全体が快適な状態を保てるそうです。
もちろん、それは省電力にもつながります。

無印良品でも、「夏コツ百選」のキャンペーンが始まりました。

キャラバン隊も、暑い夏を乗り切るための、
各地の知恵を取材していきたいと思います!

飛騨に生きる

2012年06月07日

岐阜県の地図を眺めていると、目に入ってきた北部の町「高山市」。

「飛騨・高山に来る際には、是非ご連絡ください」

ふと、過去にこんなお誘いを頂いていたことを思い出しました。

誘ってくださったのは、私たちよりも5年ほど前に世界一周を果たしたご夫婦。

その後、クールな田舎をプロデュースすべく飛騨に移住し、
日本の里山の魅力を国内外に発信していく事業に取り組まれていて、
私たちにとっては、生き方そのものが参考になるご夫婦です。

なぜ、移住先が飛騨だったのか? 飛騨の里山の魅力とは?

個人的にも、このキャラバンのテーマとしても、
飛騨でこの人に会わないわけにいかず、
すかさずメールをしてみました。

しかし、残念ながら海外出張中で、いらっしゃらないとのこと…。

ただ、同じ想いの別のスタッフが歓迎してくださるとのことで、
お邪魔して参りました!

迎えてくださったのは、「飛騨里山サイクリング」の
国際色豊かなスタッフの皆さん。

すると、なんとその中のスタッフの1人が、
私たちと同じタイミングで世界一周をした仲間のフィアンセだったことが判明!

こうした出会いは偶然なのでしょうか?
最近、すべての出会いは必然なのではないかと思ってしまいます。

さて、サイクリングツアーでは、緑豊かな飛騨の里山を自転車で巡りながら、

道中、農家の田植えシーンに遭遇したり、

茅葺き屋根の家を見学したり、

飛騨牛の牛舎を見学したりと、

車や電車に乗っていては気付けない風景や、
地元の方々との触れ合いがそこにはありました。

また、地元の情報に詳しいガイドさんが
色々と説明してくださるので、
自分たちだけでは知りえない、地域の話を聞くことができました。

このツアーの参加者の約50%は、外国人が占めるようです。
つまり、飛騨の里山の魅力を、国内外問わず発信し、
観光需要を掘り起こしているんです。

飛騨の魅力について、ガイドの松尾さんはこう語ります。

「岐阜県は日本の中心に位置しています。
ここを拠点に置けば、東は東京、西は京都・大阪、
北は金沢、南は名古屋と、どこへでも出やすい立地なんです」

確かに、道中でもこんな看板を見かけました。

首都機能移転先の議論の際にも、
岐阜は候補先として名前が挙がった地だったほど。

外国の方が本当の日本を探す観光をされるなら、
拠点に最適な土地なのかもしれません。

同時に、飛騨の抱える問題点についても語ってくれました。

「この地域の約25%の建屋が、空き家になっているんです。
若者はどんどん都会へ移住してしまい、このままではは戻ってこない。
産業を生み出していく働きかけをしていくことが、
地域を活性化していく鍵だと思っています」

彼らは、こうした飛騨の民家の状況の実態を把握することから始め、
今はこれらの空き家を活かして、
里山に来たい・住みたい人たちとのマッチング等も手掛けています。

今あるものを活かしながら、需要を掘り起こしていく。

千葉県いすみ鉄道で学んだ地域活性のヒントは、
ここ飛騨にもありました。

なによりも、旅路の果てに一つの地に腰をおろし、
その地に根ざして活動する生き方は、
私たちにとって大いに参考になるスタイルです。

皆さんも、飛騨に訪れる機会があれば、
是非、「飛騨里山サイクリング」へ。

ゆったりとしたペースで、
里山の空気を思いっきり吸いながら、
飛騨の里山の魅力を堪能することができますよ。

日本一短い手紙

2012年05月31日

突然ですが、みなさんは最近いつ手紙を書きましたか?

普段生活をしていると、手紙を書く機会や
手紙を受け取る機会はあまりないかもしれません。

そんななか、毎年秋になると、全国各地からの手紙が届く町が福井県にあります。

入試の日の朝御飯、
大きな大きなとんかつと母さんの笑顔。
緊張もふっとんだよ。
(富山県 16歳)

お母さん、八十二歳になりました。
よい爺さんで、世に尽くしております。
(鳥取県 82歳)

おかあさん ぶた
おかあさん ブス
おかあさん バカ
おかあさん…でもすき
(石川県 7歳)

これらは、1993年に福井県丸岡町に全国から寄せられた、
3万2236通の『母』への手紙の一部です。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
これは、徳川家康の家臣・本多重次が長篠の戦いの陣中から妻に書いた手紙で、
日本一短い手紙と呼ばれています。
手紙中の「お仙」は息子・本多成重のことで、
彼は後の初代丸岡藩主になりました。

このことから、福井県坂井市にある丸岡町(まるおかまち)では、
「一筆啓上」の発信地として、手紙文化の復権を目指そうと
1993年から毎年、日本一短い手紙文のコンクールを行っているのです。

毎年テーマが決められていて、
条件は1~45文字(当初は25~35文字)で、手書きであること。

「手書きだからこそ、伝わるものってありますよね。
言葉は"ことだま"であり、言葉には魂がある。
人の想いを届ける手紙は、なくしてはいけない文化だと思うんです」
と、発起人の大廻さん。

丸岡町の子供たちは、小・中学校で毎年必ずこのコンクールに参加していて、
手紙の文化を継承しているそうです。

たしかに、その土地の言葉の中でしか
語り継げないことがあるのではないでしょうか。

ちなみに、今年度のテーマは「ありがとう

「"ありがとう"という言葉は美しい日本語のひとつだと思うんです。
"Thank you"は"No,thank you"と否定で使う場合もありますが、
"ありがとう"の場合は肯定、感謝の意味しかないですからね」

今年度からは、「美しい日本語を海外に伝えたい」と
"Arigatou"を含む1~25wordsの英語の手紙もWEB上で募集するそうです。

「ありがとう」

みなさんだったら、誰に、何の「ありがとう」を伝えますか?

あの時、手紙を書いてくれてありがとう。

私はこの一文を家族と友人に伝えたいです。
高校時代にアメリカに留学した時、
日本から届く家族や友人からの手紙にどれだけ支えられたか。
毎日、ポストをのぞいて、手紙を心待ちにしていたのを思い出します。
今でもそれらの手紙は私の宝物。

電話やメールがある昨今、なかなか手紙を書く機会はないかもしれませんが、
これを機に手紙を書いてみるのもいいかもしれませんね。
電話やメールは形に残りませんが、手紙はいつまでも
その時の気持ちを形に残しておいてくれます。

この一筆啓上の手紙コンクールを主催している、
(財)丸岡町文化振興事業団では、
時を超えて想いを伝えることのできる
おもひでカプセル便」なるものも実施しているそう。

これは、3~20年先の未来に、想いを伝えられる手紙のタイムカプセルです。
5年後の恋人に、10年後の自分に、20年後の生まれたばかりの我が子へ…
など使い方は様々。

私たちも、3年後の自分&お互い宛に手紙を書いてみました。

忘れた頃に届く、「おもひでカプセル便」。

MUJIキャラバン隊として過ごしている、今の素直な気持ちを
書き綴っておこうと思います。

オバマ市からもらった、くらしのヒント

2012年05月29日

米・オバマ大統領を応援する市として
一躍有名になった、福井県小浜(おばま)市。

街の至る所に、オバマ大統領が…!
次の大統領選でも注目されることは間違いありません。

さて、そんな小浜市は若狭湾に面しており、海産物が豊富に採れます。
平安・奈良時代には、サバをはじめとする高級特産物を朝廷に献上していた、
御食国(みつけのくに)のひとつなんです。

食の歴史もあるなかで、2001年には、
全国初の食をテーマにした、「食のまちづくり条例」を制定。

これはご当地グルメのような観光客誘致が目的ではなく、
住民を主なターゲットにしたものだそう。
その土地にくらす地域住民にこそ、地場の農林水産物の
ファンになってもらうべく、様々な取り組みがされているようです。

今回、そんな食のまちづくりの拠点施設、
「御食国若狭おばま食文化館」を訪れました。

施設内は、食に関する歴史・伝統・文化の展示があり、
例えば特産物のサバのレシピ30種のレプリカ、なんていうのもありました。

また、「キッチンスタジオ」も併設されていて、
季節の食材を使ったお料理や郷土料理の教室が開催されています。

ちょうどお料理教室の日程に訪れた私たちは、
地元の主婦の方にまざって、季節の調理体験に参加してきました!

旬のたけのこやそら豆を使った煮物や、梅の香寿司をみんなで作りました。
毎月この料理教室に参加している、という方も多く、
地元のみなさんの交流の場になっているんですね。

他県から嫁いできたという方もいて、
「地元の食材の食べ方が分かっていい」とおっしゃっていました。

さらに、小浜市では小浜で生まれ育つ子ども全員に、
"食育"の機会を提供するため、義務食育体制を構築。
公立、私立問わず、市内の全幼稚園・保育園の年間行事に
「キッズ・キッチン」と呼ばれるお料理教室を組み込んでいるそうです。

小学校や中学校の給食では、
近隣の農家や漁師さんに食材を提供してもらい、
「本日の食材の若狭カンラン(キャベツ)は
○○おじさんの畑で収穫されたものです」 
といったアナウンスが流れ、
生産者への感謝の気持ちを育み、給食の残食も減少したんだとか。

このキャラバンが始まってから、
各地で"地産地消"のワードを見かけてきましたが、
この小浜市の給食の取り組みは、ひとつの地産地消のお手本かもしれません。

群馬のキャンプ場で焚き火をした時もみんなと語り合いましたが、
"なぜ地産地消がよいのか"ということについて、
私たちは分かっているつもりになるのではなく、
腹に落ちるまで考え続けようと思います。

「無駄な輸送費がかからないためエコである」
ということはよくいわれます。

そして、今回、小浜市で考えたのは、
「生産者の顔が見えることは、安心安全につながるだけでなく、
消費者が生産者や自然の恵みに感謝を忘れず、共に育んでいくことにつながる」
ということでした。

そして何より、その特産物を作る人こそが、もっとも愛情を持っているのだから、
その地域にこそ、その特産物の活かし方が伝わっているんですね!

改めて、地産地消は、これからの良いくらしへのヒント
といえるのではないでしょうか。

いったん立ち止まって考えることは、とても大事なことですよね。

福井県は日本のブータン!?

2012年05月28日

昨年、国王夫妻が来日したブータンは
「世界一幸せな国」として話題になりましたが、
法政大学大学院が出したとある調査によると、
「日本一幸せな都道府県」は福井県なんだそう!

福井県は緑がとても多く、心も豊かなのかもしれませんね。

また、人口10万人あたりの社長輩出数はなんと全国1位。
いったい福井県にはどんな産業があるのでしょうか?

福井県の代表的産業のひとつは繊維。
福井の温暖多湿の気候が、繊維産業に適していたようです。

繊維産業の主な担い手は女性であり、
福井県では女性も働き手であるという意識が伝統的に醸成され、
女性の就職率も全国一高いんだそう!

ちなみに、福井市でお邪魔した福井西武の無印良品では、
そんな働き者の福井の女性にもピッタリな人気商品をご紹介いただきました。

裏メッシュカップ入りキャミソール

これからの季節、暑くなってくるので
1枚で下着と肌着の役割をしてくれるカップ入りキャミソールは、
女性に、とってもうれしい商品ですよね♪

キャミソールといえば、こちらも。

脇に縫い目のないシリーズ

その名の通り、脇に縫い目がないので、肌触り抜群!
女性のみなさん、夏の到来に向けて要チェックです!

続いて、繊維に並ぶもうひとつの福井の代表的産業について。

福井県の西部にある鯖江(さばえ)市は
国内の約9割、世界の約2割にあたる
めがねフレームを生み出している、めがねの産地なんです。

鯖江におけるめがねフレームの製造は明治38年に始まったそう。
農閑期の副業として、室内で仕事ができ、かつ、
少ない初期投資で現金収入が得られるめがねフレーム作りに着目し、
当時めがね作りが盛んであった大阪や東京から職人を招いて教わりました。

そんな鯖江市にある無印良品のめがね工場を訪ねました。

めがね作りの工程は200~250にも及ぶため、
分業制が敷かれているといいます。

「すべてを自社でやろうとすると効率が悪いんですね。
それぞれの部品を作る会社が市内にあって、
だから社長の数も多いんじゃないですかね」

今回、工場をご案内いただいた前川さんはそう教えてくださいました。

「日本におけるめがねは、海外と比べて特殊なんです。
多品種小ロットで、常に新しいモノを作っていますよ」

同じめがねでも、お国が違えば好みのポイントも変わってくるようで、
ドイツはデザインよりも構造、フランスはデザイン・奇抜さ
が特に求められるそうです。

一方、日本の場合は、デザインはもちろんのこと、
かけやすさや軽さなどの使い勝手も重視される。

日本のお客様の様々な要望に応えてきた工場だからこそ、
その技術を買われて、全体生産の約4割が海外のものだそうです。

地域の人々がともに産業を育て、
ローカルな取り組みがグローバルにも評価される。

"地域力"のお手本のような福井。
ブータンに学ぶ前に、福井から学べることも多いのではないでしょうか。

職人たちの作りだす、無印良品「ボーンチャイナ」

2012年05月25日

磁器は英語で「チャイナ」と呼ばれるように、そのルーツは中国。

中国から日本へと伝わった磁器は、有田や多治見、瀬戸、先述の九谷と、
日本各地で作られるようになり、やがてそれは海を渡るようになりました。

一方、磁器に適した陶石が採れなかったイギリスでは、
ボーンアッシュと呼ばれる牛骨灰を混ぜた陶器が開発されます。

それが「ボーンチャイナ」の由来のようです。

イギリスのウエッジウッドに代表されるように、高級洋食器として知られていますが、
その特徴は、光に当てると生地が透けるような高い透光性を備えています。

無印良品でも展開されている、この「ボーンチャイナ」。

今回はその生産地、石川県白山市を訪ねました。

ここは、原料加工→生産→出荷までを一手に担う、
国内では希少な生産工場です。

均一の品質を保つべく、原料加工やロクロ成形など、
機械が担える部分は機械が行っていますが、
驚いたのが、手作業による工程が想像以上に多いこと。

検品はもちろんのこと、難しい形の成形やうわぐすりがけまで、
多くの工程が人間の手で行われていました。

「人間の目は、最高のセンサーですから」

そう話すのは、陶磁器事業部の西岡さんと剱持さん。

「Made in Japanのものづくり体制として、
大量生産型ではなく、多品種少量生産型を基本に据えています。
それに対応するためにも、やはり人が担う役割は大きいんです」

そんな人の技術が重要視される工場ゆえに、
人の成長を促すための仕組みも準備されていました。

金バッジホルダーの従業員はシニアマイスター、
銀バッジホルダーの従業員はジュニアマイスターと呼ばれるそうです。

同じ作業の繰り返しの中でも、こうした明確な基準を定めることによって、
従業員のモチベーションを高めることにつながるのだと思います。

そして、何よりも追求されているのが、安全性。

人の目を通した徹底した検品体制はもちろんのこと、
安全性を担保したうわぐすりを利用するなど、
長く使い続ける食器ゆえに、安全面には徹底して力を入れているそうです。

最後に、生産者代表として、お二人の大切にしていることを伺いました。

「本質を追究することです。対症療法ではなく」
と西岡さん。

「ウソをつかないことです」
と剱持さん。

Made in Japanのクオリティは、お二人のようなものづくりに対する
真摯な姿勢から生み出されていることを知りました。

それにしても、これだけ人の手を介して、安全面を担保しながらも、
無印良品のボーンチャイナシリーズの価格を実現できているのは、
生産者の努力の賜物だと感じました。

店舗でボーンチャイナを見かけたら、
こんな国内生産者のことを思い出してみていただけたら幸いです。

金沢市のMUJIの意外な人気商品とは!?

石川県では、北陸の中核都市・金沢市内にある、
無印良品 めいてつ・エムザ店にお邪魔しました。

入り口を入ってすぐに目に入ったモノとは…

なんと傘やカッパなど、雨除けグッズです!

そう、ここめいてつ・エムザ店での人気商品は、
これらの雨除けグッズなんです。

金沢市内の中心地に位置する百貨店内の、
1F入り口付近に店舗を構えていることもあって、
急な天候変化にも、すぐ応えられるというのもあるかと思いましたが、

「弁当忘れても、傘忘れるな」

といわれるほど、石川県は雨が多いようなんです。

事実、石川県の降水日数は163日で全国4位。
(総務省統計局 『社会・人口統計体系』2009年)

ちなみに、富山県は170日で全国2位、福井県は161日で全国6位と、
北陸はもともと、雨の多い地域なんですね。

そんな雨の多い金沢市内では、
バスや電車の乗降口や、市内の各所に自由に使える傘が置いてありました。

この2009年から始まっている『eRe:kasa』と呼ばれるプロジェクトは、
金沢の街に『自由に使えて自由に返せる置き傘を』をコンセプトに、
本来だったら捨てられるはずだった忘れ物の傘などを利用し、
もう一度、大切に使うことによって、ゴミを減らす試みのようです。

雨の多い都市ならではの、素敵な取り組みですね。

ちなみに、無印良品には「しるしのつけられる傘」なんて逸品もありました。

これなら、どこかに忘れた時も見つけやすく、
傘の取り間違いなんてことも起きにくくていいですね♪

それにしても、店舗ごとの人気商品にも、
やっぱり、その土地柄が出るものです。

さて、他の店舗にはどんな人気商品があるのでしょうか!?

その土地に根ざして生きる、ということ

2012年05月23日

日本初の世界農業遺産として認定された、「能登の里山里海」。

1004枚あるという能登の白米千枚田では、
実際に今でも米づくりが営まれています。

能登ではこうした美しい自然との出会いだけでなく、
とても印象に残る人たちとの出会いもありました。

まずは、能登半島の北部、珠洲(すず)市で出会った、
伝統的な塩づくりを守り続ける角花さん親子。

揚げ浜式製塩法という、この辺りだけに残っている塩づくりの方法は、
塩田に汲み上げた海水を打桶で霧のように撒き、天日で蒸発させ、
乾いた砂に海水をかけてろ過し、さらに平釜で焚くという製法です。

雪の降りしきる冬や、雨の日にはつくることができません。

海水を原料に、浜辺の砂、廃材の薪を使ってすべて手作業で作られるこの製法は、
今でこそエコともいわれますが、塩の専売制が敷かれている時代にも、
角花家では代々、守り継がれてきました。

「この家に生まれたからには、この揚げ浜式の塩づくりを
守っていきたいと思っています」

そう語る6代目の洋さんは、伝統製法を守りながらも、
新しい試みにも取り組み始めています。

洋さんの開発した「塩のジェラート」。

甘さの中にも、海の香りがいっぱいに広がる味でした。

そんな洋さんが、ふらっと訪れるという能登のレストランが、
民宿兼レストランの「民宿ふらっと」。

かつて日本三大民宿に数えられた「さんなみ」の後を継ぎ、
今は娘の智香子さんご夫妻が、新しい民宿を運営しています。

夫のベンさんはオーストラリア人で、イタリア料理のシェフ。
智香子さんがオーストラリア滞在中に知り合い、
能登にまで仕事を辞めて追いかけてきたんだそう!

そんなお二人のレストランでは、
能登の食材をふんだんに使ったイタリア料理が味わえます。

大吟醸粕を使ったこちらのスープ、

うまみを引き出すために、能登の調味料「いしり」(魚醤)が入っています。

また、毎朝手打ちしてつくるというパスタには、

山菜「こごみ」と能登の保存食「こんかいわし」が使われていました。

「この場所だからできるイタリア料理をつくりたい。
ここで採れる食材を使って、能登テクニック(=発酵)でね」

こうした料理からも、能登に見事になじんでいるように見えるベンさんですが、
実際、日本文化や能登の生活に慣れるのは大変だったのではないかと伺うと、

「ベンさんは、文化を受け入れるんではなくって、文化に入っていったんです。
お盆は率先してお墓の掃除をしてくれたり。
今では、近所のおばさんに能登の郷土料理のつくり方を聞かれるんですよ」

お二人によって、能登に新しい風が吹いているのは間違いありません。

外からの視点で、能登を活気づけている人たちといえば、
この方たちのこと抜きに語れません。

先日お邪魔した、高澤ろうそくさんからも、
「能登を知るのに欠かせない人がいる」
とご紹介いただいて、お会いしたのが萩野ご夫妻。

萩野さんご一家は、8年前に東京から
能登半島の三井町市ノ坂(みいまちいちのさか)
という集落に移住してきました。

新しい土地に暮らすなかで、自然の豊かさから学ぶことはもちろん、
毎日出会う農家のおじいちゃんやおばあちゃんから、
里山くらしの知恵を教わったといいます。

そして、自分たちの学びをもっと多くの人と共有したいと、
里山にある豊かさを「食、農、自然、伝統、教育、健康、福祉、アート」
などの切り口で楽しみながら学ぶ、参加型のワークショップ、
"まるやま組"を企画・運営しています。

例えば、奥能登に古くから伝わる「アエノコト」という行事。

目に見えない田んぼの神様をお迎えして、
1年の感謝や豊作の祈願をする農耕儀礼です。

毎年、収穫の終わった12月に、各農家が神様を自宅に迎え入れ、
お風呂にご案内したり、ご馳走を振る舞ったりするそう。

まるやま組では、各農家のアエノコトを見学させてもらい、
自分たちでもオリジナルのアエノコトを行いました。

老若男女、様々なバックグラウンドを持った人々が一緒に集い、
アエノコトのご馳走をつくって食べて。

「当たり前に口にしている食べ物が、どこで、誰によって、
どのようにつくられているのかが見えにくい時代。
つくる人と食べる人、里山で暮らす人と街の人、
小さな人と人とのつながりが、
大きな何かを変えていく時かもしれません。

本来、家単位で行ってきた農耕儀礼ですが、
ワークショップに参加した人のつながりたいと思う気持ちが、
人と人に家族のような絆をつくり、
そのことが里山と新しい形で向き合うきっかけになって欲しいと思います」

そう、萩野さんは語ってくださいました。

伝統的な塩の製法を守り続けながらも、
その延長線上で新しい試みに挑む角花さん親子。

民宿という親の遺伝子を引き継ぎながらも、
能登の伝統食材とイタリア料理を掛け合わせ、新しい風を吹かせる智香子さんご夫妻。

外からの視点だからこそ感じる能登の魅力を、
今に伝えるための活動に取り組む萩野さんご夫妻。

皆さんに共通していえることは、
それぞれの立場で、能登に根ざして活動しているということ。

その土地に根ざして生きるというのは、
必ずしもその土地生まれじゃなくても、
心の持ち方、視点の捉え方次第でできる、ということを知りました。

キャラバンに対しても、多くのヒントを得た気がします。

能登には、必ずまた戻ってきたいです。

2人の野菜プリンス

2012年05月22日

能登半島に囲われるようにして存在する能登島に、
全国のレストランから注目を浴びている農園があると聞きつけ、
突撃訪問して参りました。

突然お邪魔したにもかかわらず、快く会っていただいたのが、
高農園を経営する高利充さん。

日本でも希少な赤土の土壌でつくられる、高さんの野菜は、
今や全国200軒のレストランから引き合いがあるそうです。

能登島で唯一、有機認証を受けながらも、

「近隣の農家が農薬を使っていれば、それが飛散してくることもあるので、
無農薬野菜とは呼んでいないんです」

と言うほどの正直さ。

高さんから頂いた野菜は、
野菜そのものの味が口の中でしっかりと広がりました。

ほんのわずかな出会いにもかかわらず、
高さんの誠実さには心打たれるものがありました。

「金沢に加賀野菜のプリンスと呼ばれる人がいますよ」

そう高さんに紹介いただいたら、行かないわけにはいきません。
向かった先は金沢市近江町の「北形青果」。

80年以上の間、加賀野菜を取り扱う八百屋の、
4代目を務めるのが北形謙太郎さんです。

ところで、加賀野菜って一体何なのでしょう?

「○○県では○○野菜、といった大規模産地ブームとは相反して、
金沢では昔から、在来種を使った様々な野菜がつくられてきました。
四季折々で、地元の人に親しまれてきたのが加賀野菜です」

そう話す北形さんのお店の店頭には、
今が旬の大きなたけのこや、

加賀太きゅうりが、強烈な個性を放ちながら並んでいます。

シーズンも終わりに差し掛かったれんこんや、

さつまいもは、均一な大きさごとに分けられ、大きく棚を占拠していました。

加賀野菜の品種は、今では15種にも上り、
旬ごとに、店頭を彩る野菜が違うようです。

そして、それぞれの野菜によって、
幾通りかの地元特有の食べ方があるのも加賀野菜の特徴。

「加賀太きゅうりはだし汁にさっと通して、あんかけで食べるのがお勧めです。
夏には、金時草を使ったおひたしで、夏バテ防止、
冬には、加賀れんこんを使ったれんこん団子汁を食べれば、体が温まりますよ」

こんなふうに、店頭で食べ方まで提案してもらえるんです。

季節ごとに旬の野菜を食べて、厳しい気候を乗り越える。
金沢では、昔ながらの生活の知恵が、今でも生活に根付いていました。

当たり前のように食べたい野菜を食べたい時に買っていた私たちは、
今まで野菜の旬などを意識したことなどほとんどありませんでした。

でも、当然野菜には収穫時期があって、
そこには自然の摂理に基づいた効能もあるんですよね。

このように、地場でつくられた旬の野菜が八百屋に並び、
地元の人が、「旬がきたわね~」とその野菜を買っていく姿こそ自然で、
あるべき光景なのだと思いました。

地産地消とは、まさにこういうことを言うのでしょうね。

「あかり」のある、くらし

2012年05月21日

先日、世界各地で観測された「スーパームーン」
みなさんはご覧になりましたか?

月が地球に最も接近する時と満月が重なった日、
私たちにとって驚きの出来事が起こりました。

ブログを書くために、偶然入ったカフェでのこと。

旅人が好きそうなカフェだなぁ…。

そう思っていると、そのお店のオーナーから驚きの一言が飛び出しました。

「僕、お2人にインドで会いましたよ!」

なんと!!!
2年前の世界一周の旅の途中に、インドの宿ですれ違った人だったのです。
こうした出会い、再会があるから旅はやめられません。

いつもよりも明るい、月のあかりに照らされながら、
「人と人との出会いは必然なのかもしれない…」
そんなことを感じました。

奇跡的な再会を果たした石川県七尾(ななお)市では、
もうひとつの「あかり」との出会いがありました。

明治25年から、七尾で"和ろうそく"をつくり続けている
「高澤ろうそく」さん。

七尾は信仰心のあつい土地柄であることと、
七尾港が栄えていたために、原料や和ろうそくの運搬が可能であったことから
ろうそく生産が古くから盛んだったそう。

ところで、"和ろうそく"ってどんなものかご存じですか?

もともと仏事での利用がメインの和ろうそくは
もしかするとあまり身近ではないかもしれません。

私たちが普段バースデーケーキの上に使ったり、
アロマキャンドルとして使ったりしているのは、西洋ろうそくです。

ろうそくには"和ろうそく"と"西洋ろうそく"があり、
それぞれ原料が違うんです。

石油を分留して作られるパラフィンロウを主な原料にするのが、西洋ろうそく。
一方の和ろうそくは、ハゼノキの果実からとった植物性のロウを原料にしています。

それから、西洋ろうそくは木綿糸製の灯芯を使うのに対して、
和ろうそくは、棒状にまるめた和紙にイ草を巻き付けた灯芯を使います。

和ろうそくの灯芯は太く、また芯の中心が空洞なので、
和ろうそくが燃えている間も、常に灯芯から酸素が供給され、
最後まで大きな炎で燃え続けるのが特徴なんだとか。

また、油煙(すす)の出が少ないのも良いところだそうです。

この和ろうそくをもっと身近に、
仏事以外にも"あかり"として使ってもらうために、
「高澤ろうそく」では様々なろうそくを展開されています。

5年以上の月日をかけてようやく開発した、モダンなろうそく「ななお」や、
菜種油のロウからできた「菜の花ろうそく」に、
米ぬかを主原料にしている「米のめぐみろうそく」など。

「うちでは、ごはんの時にろうそくを灯すんですよ。
子供が100点とったら、朱色のろうそくを使ったり。
ろうそくのあかりの方が人との距離が縮まるんですよね」

と若女将は話してくれました。

確かに、ろうそくのあかりは心を和ませてくれたり、
人の距離をグッと近づけてくれたりする力があるように感じます。

その昔、親友が失恋をした時に我が家に集まって、
ろうそくを灯して話をしたことがあり、
心が落ち着けたと同時に、私たちの絆もより深まったことを思い出しました。

花嫁のれん

さて、この高澤ろうそくの店内を見ていると、女将さんが一言。

「今、花嫁のれん展もやっているから、見てってくださいね」

え? 花嫁のれんって何ですか??

加賀・能登の庶民生活の風習の中に生まれた独自ののれんで、
幕末から明治時代初期より、花嫁が嫁入りの時に「花嫁のれん」を持参し、
花婿の家の仏間の入り口に掛け、花嫁がのれんをくぐって、
ご先祖様の仏前に挨拶をしてから結婚式が始まったんだそう。

今の60代くらいの世代まで、この風習は残っていたそうなのですが、
一生に1回しか使う機会のなかったこののれんは、
各家庭でたんすの肥やしになっていたといいます。

そこで、町興しの一環として、花嫁のれんを商店街の店舗内に飾ろう
と発案したのが、高澤ろうそくの女将さんをはじめとした、女将会だったのです。

今年で9回目となった花嫁のれん展ですが、
七尾市の一本杉通り商店街の各店舗に、
合計100枚以上ののれんが展示されていました。
(※花嫁のれん展は4/29〜5/13で終了)

「こんにちは〜!のれん見せてください」

「ようこそ! ゆっくり見て行ってくださいね。
よかったらお茶も飲んでってください」

私たちが店内にいる間に、何度となくこのような会話を耳にしました。
1枚ののれんを通して生まれるコミュニケーション、素敵です。

また、のれん展を通じて、自分の両親や祖父母、親族などの
結婚当初の話などに花が咲くそう。
そういえば、祖父母の馴れ初めって聞いたことがないような…。

自分の先祖やルーツを知ることは、自分自身を知るためにも
必要なことかもしれないなと感じました。

水と共に生きる

2012年05月17日

水を飲みたい時には水道の蛇口をひねる。

そんな生活が当たり前の私たちにとって、
富山県黒部市生地(いくじ)の人たちの生活は驚きでした。

この地区では、飲み水は汲みに行くものなんです。

かつて暴れ川と称された黒部川の扇状地に位置するこの地区は、
昔から、洪水などに見舞われながらも、
こんこんと湧き出る清らかな水を、生活に利用してきました。

黒部ダムの建設によって、黒部川の氾濫は抑えられるようになりましたが、
今でもその大量の伏流水が湧き出ており、町の至る所に水場が存在しているんです。

この湧水は「清水(しょうず)」と呼ばれ、
今でも飲み水、炊事用などに利用されており、
タンクに水を汲みに遠方からも人が来るほどです。

生地にはこうした水場が11ヵ所も残っており、
「共同洗い場」と呼ばれ、一昔前まではここで野菜を洗ったり、洗濯をしたりと、
地域の人たちのコミュニケーションの場ともなっていたんだそう。

今でも、こうした洗い場は、地域ごとに地元の方々によって管理され、
みんな自分のところの水が一番!と信じて疑わないため、
町のボランティアガイドは、どこの水が美味しいとは、案内できないそうですよ。

実際に、その内の一つで水を口にすると、
水温が低い軟水で、とっても爽やか!

しかも、これが水場によって、汲み上げている深さが違うようで、
100mのところと70mのところで、また味が変わるんです。

多くの家庭にも湧水が出るようで、
町の酒蔵は清酒に合う水を利用したり、
住人はご飯を炊くのに適した水を利用したりと、
用途ごとに水を使い分けているんだとか。

なんと贅沢な水の遣い方でしょう。

水場の近くでは、おばあちゃんたちが井戸端会議をしていました。
話しかけてみると、とても元気で肌艶もこの通り。

「これも清水のおかげだよ」

と、笑顔で答えてくれました。

翌日、この清水の源流を見てみたくなり、
黒部峡谷、立山へと足を運んでみました。

その渓谷は険しく、流れ込む雪解け水は確かに豊富。

そして、その源が、
この立山をはじめとした北アルプスに降り積もった雪です。

GW時で、この積雪量(17m)ですから、
真冬時の豪雪ぶりは相当なものでしょう。

そりゃ、この雪解け水が流れ込めば、川も氾濫するわけです。

豪雪と、黒部川の氾濫に見舞われ続けたこの地のくらしは、
その環境を受け入れ、共存しているものでした。

その地で生活する人たちは、
水の脅威とありがたみを誰よりも知っている気がしました。

地元で愛され続ける、駄菓子屋さん

2012年05月16日

富山市街から車で30分ほど行ったところに、
「八尾(やつお)」という、城下町のような雰囲気のただよう町があります。

9月の頭には「おわら風の盆」という、富山を代表する祭りが開催され、
3日間で観光客約25万人が訪れ、賑わうようです。

この町に、ふらっと訪れた私たち。

その日は偶然にも、八尾のもう一つのお祭り、
「曳山祭」の開催日でした。

江戸時代中期から続いているというこのお祭りは、
町内で6地区ごとに保管されている自慢の曳山(山車)が一斉にお目見えし、
町中で曳かれるというもので、
その日は年に一度の記念すべき日だったのです。

「○○ちゃん、久しぶり~!」
「父ちゃん、こっち!こっち!」

至る所からこんな掛け声が響き合っています。

お祭りの日ならではの、今日だけは許された開放的な雰囲気がたまりません。
毎日がお祭りのような都心では、もうこのワクワク感は
味わいにくいのかもしれませんね。

夜も更け、町中を巡った曳山が蔵に戻る頃、宿へ戻ろうと帰路につくと、
通りの一角にひっそりと開いているお店がありました。

中に入ると、そこは駄菓子屋さんでした。

夜9時を回って、開いている駄菓子屋さんがあることに驚きましたが、
さらに驚かされたのが、そこで働いていたおばあちゃんの年齢。

このおばあちゃん、なんと今年98歳を迎えるんだとか!

こんな遅い時間まで、立って店番されるなんて、
どれだけ元気なんでしょう。

しかも、この駄菓子屋さん、この地で60年以上も続いているそうです。

おばあちゃんに、それだけ長く続けられる秘訣を聞くと、

「わたしゃ子供が大好きでねぇ。逆に子供から元気をもらっているんだよ」

と、笑顔で答えてくれました。

我々が旅路の途中だということを伝えると、

「ありゃ、そうですかぁ。わたしゃ、この通り老いぼれなもんでねぇ。
宿まで見送りに行きたいけど、行けなくて申し訳ないねぇ」

と、本当に申し訳なさそうに言うんです。

あまりにも優しいおばあちゃんの態度に心打たれた私たちは、
その日以来、おばあちゃんのことが頭から離れませんでした。

八尾を離れる日、私たちは今一度、
そのおばあちゃんの元へ足を運んでみました。

「こどもや」と呼ばれる、その駄菓子屋さんの店内は、
元気な子供たちで、賑わっていました。

その時間、おばあちゃんは休憩中で、あいにく会うことはできませんでしたが、
息子さん夫婦にお話を伺うことができました。

「戦後、東京から帰郷した母と父は、問屋からお菓子を仕入れて、
少しずつ拡大して、今に至っているんですよ。
もちろん、単価の安いものなんでね。
儲かる商売じゃないから、大変な時期もあったと思います。
ただ、子供たちの憩いの場をなくしたくない、という母の想いがあるから、
今でも続けているんです」

確かに、今は閉店してしまった、私の地元の駄菓子屋さんも、
幼少期の憩いの場となっていたことを思い出しました。

少子化が押し寄せているのはこの町も同様ですが、
それでもお店が続いているのは、
何よりも地元の人に愛されているからではないでしょうか。

事実、私たちがこのお店に滞在中にも、ひっきりなしにお客さんが出入りしており、
なかには、孫と一緒に来るおじいちゃんの姿も。

「昔、来てくれていたお客さんが、
今度は自分の子供や孫を連れて来てくれるんですよ!」

60年余り続いているお店ならではの光景ですが、
後に、それもそのはずだと感じるシーンを目にしました。

お金を遣いすぎる子供に対し、きちんと叱っているんです。

「こらこら、ちゃんと自分で稼ぐようになったらにしなさい」

聞かない子に対しては、親に忠告することもあるんだとか。

あくまでも子供のためになることを前提としたこの姿勢こそが、
この地で60余年、祖父母から子供の世代にまで、
愛され続けている秘訣ではないでしょうか。

八尾の子供を愛し、愛されてきた駄菓子屋さん「こどもや」。

私たちも、またいつの日か、おばあちゃんに会いに、
必ずや戻ってきたいと思います。

富山市の取り組み

2012年05月15日

富める山の国、富山。

山に囲まれた風景は、まさにその名を実感させます。

総務省統計局「社会・人口統計体系」(2012)調べによると、
富山県の持ち家率は77.5%で、秋田に次ぐ全国2位、
また、持ち家1住宅当たり延べ面積は全国1位だそう。

旅路で出会った富山県民の女性にはこんな話も聞きました。

「昔、お見合いの話が来た時は、顔よりも何よりも
"あの人大きな家持っているわよ~"
って、親から目を輝かせて言われたもんよ」

富山県民には、どうやら自分の家を持って一人前という風潮があるようです。

そんな富山では、富山市にある、
富山ファボーレの無印良品に行ってきました。

すると、お店の入り口付近で目に入ったのが家具のセット。

スタッフに聞いてみると、やっぱり持ち家率の高い富山では
家具類が人気商品なんだそう!

お家ができる前に家具を一式買っていく方も多いんだとか。

新しく建つ自分のお家に「これ置こうか、いやこっちがいいかな!」
なんて想像を巡らせながら、家具を選ぶのは楽しそうですよね♪

富山ファボーレ店では、「インテリア相談会」も行っていて、
図面を持ってきて、家具やインテリアの相談をされるお客様もいるそうですよ。

さて、富山市では車を置いて、自転車で市内を散策してきました!

富山城を目指して、サイクリングを始めると
市街には発見がたくさん!

まず、自転車に乗っていて気づいたのが、

道路がしっかりと、歩道路と自転車路に分かれているんです。

これは自転車大国のベルギーやオランダでは
当たり前のように見られた光景
です。

でも、日本ではこうしてきちんと分かれているのは珍しいですよね。
通常、自転車は車道を走ることに決まっていますが、
よく歩道を走っていて、歩行者としては危険な思いをすることもしばしば。

続いて、目にしたのがこちら。

LRT(Light Rail Transit)と呼ばれる新しい交通システムで、
富山市では、2006年に富山ライトレールが国内初のLRTとして開業しました。

LRTとは、環境や人にやさしいトラムを使った交通機関で、
「短い停留所の間隔や低床の車両など、高齢者を含めた誰もが利用しやすい」
「都市内の自動車交通がLRTに転換されることにより、道路交通が円滑になり、
かつ、CO2の削減にもなる」
という特徴があり、人を中心とした街づくりに欠かせない、
これからの交通システムとして注目されています。

また、こんなものも見かけました。

これは、「バイクシェアリングシステム」。

市内各所に設置されたステーションから、自由に自転車を利用して、
任意のステーションに自転車を返却できるシステムです。

これを見た瞬間、
「あ!イギリスのロンドンやフランス、スペインでよく見たやつだ!」
そう、ピンときました。

それもそのはず、富山市では2010年3月にパリのVerib(ヴェリブ)
というバイクシェアリングシステムを参考に、
ヨーロッパ以外で初めて、このシステムを導入したんだそう。

他にも、富山市では新しい文化の創出と地場産業育成の観点から、
「ガラスの街とやま」を目指して、早くから様々な取り組みがされているんです。

将来のガラス文化を担う優れた人材の育成の「富山ガラス造形研究所」、
地元ガラス作家の作品販売や異業種間交流を推進する「富山ガラス工房」、
道行く人々に気軽にガラスの魅力に触れてもらう
「ストリート・ミュージアム・プロジェクト」、

さらには今年の秋には、ガラスの制作体験などができる
「新ガラス工房」もできるそうですよ。

こうした取り組みが評価され、
富山市は今年1月に国が指定する「環境未来都市」に制定されました。

初めて知ることの多かった、富山市散策。
今後も富山市の取り組みに目が離せません!

おきぐすり

2012年05月14日

突然ですが、みなさんはケガをしたり、体調を崩したりした時に
どのように対処しますか?

病院に行く前に、まずは市販の薬を…なんて人も多いのでは?

だけど、買った薬をすべて使い切ることって意外に難しく、
次使う時には使用期限切れということも経験あるかもしれません。

それを解決してくれるのが、「おきぐすり」。

以前は「売薬」といわれていた薬の販売方法で、
配置員が、直接消費者の家庭を訪問して、薬をあらかじめ消費者に預け、
次回訪問した時に、消費者が服用した分だけの代金を集めていくというもの。

これであれば、使い損じが生じなくていいですよね。

そんな「おきぐすり」が始まったのが、300年以上前の富山といわれています。
当時、加賀藩から分藩した富山藩は、財政難に見舞われていました。
そこで、自分も体の弱かったお殿様が、薬産業を始めさせたんだとか。

当時の一般庶民の日常生活では、貨幣の流通が十分ではなかったために
この「先用後利」(用を先に利を後に)の仕組みは大変重宝がられたそう。

"信頼"がないと成り立たないこの仕組みは
今のクレジット商法の前身でもあるようです。

富山市内には、当時の薬売りの様子を表した像もありましたよ。

そして、この「おきぐすり」とともに発展したのが、「越中和紙」。

薬を包む紙や袋はもちろん、
子供たちのお土産用に配る、紙風船や版画絵にも使われていたそう。

もともと字を書くための紙ではなく、
加工する紙として製造されてきた越中和紙は、
おきぐすりやさんのカバンとしても活躍していたほど丈夫。

今でも名刺入れやブックカバー、小物入れなどが作られています。

ところで、レトロな薬袋のデザインを見ていて
気づいたことがありました。

だるまの絵が多いこと!

先日、群馬の高崎でそのルーツを探った"だるま"ですが、
こんなところにも登場していたとは。

なにやら、だるまは寝てもすぐに起き上がることから、
薬袋のデザインに多用されていたそう。

他には、早く治ることの象徴として、ロケットや飛行機のデザインも
多かったそうですよ。

こうして、ひとつの事柄を見ていくと、
付随してどんどんと別の事柄も見えてきて面白いですね。

「まいどはや まめなけ」

これは「ごめんください 達者でしたか」の意味を含む、
富山のおきぐすりやさんの昔ながらの挨拶言葉。

現在も1300人ほどのおきぐすりやさんが、
富山を出て全国を回っていると聞きます。

信用で成り立っている「おきぐすり」は
日本ならではの商売手法なのかもしれませんね。

自然の恵みに感謝して

2012年05月10日

群馬県北東部、武尊山の南麓に位置する川場村。
人口約4000人弱のこの村には、豊かな自然とその恵みを求めて、
毎年約90万人の観光客が押し寄せます。

水はけの良い土壌は、豊富な地下水をどんどん流し、田畑を潤すことから、
お米をはじめ、こんにゃく、リンゴ、ブルーベリーなど、
様々な農産物を作り出します。

なかでも、注目されているのがお米。

「雪ほたか」と呼ばれるそのお米は、
平成19年から23年までのあいだ、5年連続で
米・食味分析鑑定コンクールで金賞を受賞しました。

その生産量の少なさから、
一般には流通しない「幻の米」ともいわれています。

実際に、その雪ほたかで握られたおにぎりを頂きました。

米粒がしっかりしていながらも、絶妙のもちもち感。

美味しいお米を作り続けられる要因は何なのでしょう?

「特別なことはやっていないんですよ。
あくまでも基本に忠実にお米を育てているだけで、
あとは川場村の土壌や環境が育ててくれるんです」

株式会社雪ほたかの小林社長(写真右)はそう答えてくれました。

基本に忠実にというのが肝のようで、
生産農家には年5回の栽培講習会に、必ず出席してもらっているんだとか。

徹底して量より質を追求する姿勢は、
小さい村の一つの模範ではないかと感じました。

そして、川場村の自然がもたらしてくれる環境…。

武尊山より湧き出るミネラルたっぷりの天然水による恵みのことは、
次の生産者さんも同様のことをおっしゃっていました。

明治19年創業の酒蔵、清酒「水芭蕉」醸造元の永井酒造。

世界初のシャンパン製法を日本酒づくりに取り入れ、
スパークリングする清酒「MIZUBASHO PURE」を開発された酒蔵です。

このお酒は、世界13カ国にも輸出され、
スペインの世界最高峰のレストラン「エル・ブリ」にも採用されました。

日本酒づくりにおいても、顧客の口に運ばれるまでの工程を見直し、
生酒の状態を極力キープするため、マイナス気温下で貯蔵する貯蔵庫や、
瓶詰め後の火入れ処理など、独自の製法を追求していっています。

人でしかできない五感を使った工程は人が行い、
機械でも行える工程は機械を導入し効率的に行う、
という柔軟な姿勢も印象的でした。

「こうしてお酒がつくれる喜びを忘れないようにしたい」

そう語るのは、この酒蔵の杜氏を務める後藤さん。

このお酒がつくれるのも川場村の美味しい水があるからこそ、
という感謝の意を忘れないため、
毎年、社員で川場村の源流で滝行を行うんだそう。

ここまで生産者の方々が、その土地に愛着と感謝の意を持って、
ものづくりに励まれているとは…。

恥ずかしながら、今まで地理や土地を意識しながら
生活してきたことはありませんでした。

ただ、普段、私たちが口にしている美味しい飲食物は、
すべてその土地にある、自然の恵みから来ているんですよね。

自然に感謝するというのは、至極当然のことなのかもしれない、
と思い知らされました。

無印良品のキャンプ場へ!

2012年05月09日

群馬県嬬恋村。
「嬬恋=つまごい=妻恋」ということで、愛妻家にはなじみ深い地です。

誕生日を迎える妻を祝う場所にはうってつけと、
キャラバン隊の夫はひらめいたよう。

向かった先は、「無印良品 カンパーニャ嬬恋キャンプ場」。

周りを山々に囲まれ、目の前に湖がある、標高1300mの高原。
写真だけ見て、「ここはニュージーランドだよ」と言われたら、
信じてしまいそうな大自然が、そこには広がっていました。

無印良品は、1995年に新潟県の津南キャンプ場
翌年96年に岐阜県の南乗鞍キャンプ場
そして2004年にこの嬬恋キャンプ場をオープンしました。

「へ〜!無印良品ってキャンプ場もやってるの!?」

そう思った方もいるかもしれません。
実は、私たちキャラバン隊も初め知った時は、そう思いました。

ただ、そこには、なるほど納得の理由が隠されていました。

キャンプはまず、テントの設営から始まります。
何もないスペースに、自分たちの家(テント)を建てて、
キッチンはここ、リビングはここにしよう、って考えていきます。

生活空間に自分たちの好みで物や家具を組み合わせていく。
この行為って、まさに無印良品で買い物するときに考えていること
そのものなんですよね。

お家ができたら、後は完全フリータイム!

子供たちは自然の中を駆け回り、大人たちは昼間からビールなんてのもOK♪
誰に決められることもない、みんなが好きな時間を過ごせます。

でも、せっかく無印良品のキャンプ場に来たなら、
そこでしか味わえないアウトドア・アクティビティを体験してほしい!
と、様々なアウトドア教室も用意されているんです。

私たちキャラバン隊が今回参加したのは、ふかしまんじゅう作り。

子供たちに混ざって、地元のお母さんから
嬬恋産の花豆入りふかしまんじゅうの作り方を教えてもらいました!

地元の方にその土地のくらしを教えてもらえるのって、いいですよね♪

おまんじゅうを作りながら、子供たちは自然に仲良くなって、
「じゃあ、後でテントに遊びに行くね!」
こんなやりとりも生まれていました。

「私たちがここで提供できるのは、"自然・文化・人"。
安全に冒険ができる場所を用意し、
また、小さなコミュニケーションができる場所でありたいと思っています」

そうキャンプ場のスタッフが語ってくれたことを、実感しました。

夜は火を囲みながら語らい合いました。

旅好きのキャンプ場スタッフと旅の話で盛り上がったり、
"地産地消って何がいいんだろう?"
"1人ひとりが便利を数個やめれば、エコになる?"
そんな真面目な話までしました。

なぜでしょう? 大自然に囲まれると、頭がフル回転して、
いつもとはちょっと違った深い話になるんですよね。
いい意味で。

それから、誕生日だったキャラバン隊妻に
なんと、サプライズで夫がケーキを用意してくれていました!!!

キャラバン中、夫婦でいつも一緒に行動しているので
何か用意できるはずはないと、期待していなかったのですが、
やっぱりサプライズで祝ってもらえるのはうれしいです。

1日目キャンプ場に到着した時は、辺り一面霧に包まれていたのですが、
ふと空を見上げると、この頃には満天の星空がありました☆

キャンプ場で過ごした誕生日は、これまでとはまた違った、
素敵な思い出になりました。

久しぶりに大自然を満喫して、リフレッシュしたキャラバン隊に
キャンプ場スタッフは、最後にこう話してくれました。

「自然は何の印もついていない、まさに無印良品そのものなんです」

笑顔がまぶしいスタッフたちが待つ、
カンパーニャ嬬恋キャンプ場は11月上旬まで営業しています。

また、5月15日からはこの夏、3つのキャンプ場で行う、
2012キッズサマーキャンプ」の受け付けが始まるそうです。

みなさんも、無印良品キャンプ場を、ぜひ体感してみてください♪

群馬の無印良品

群馬では、イオンモール高崎にある、無印良品にもお邪魔してきました。

「群馬って、全国でも公園の数がとても多い県なんです」

そう教えてくれた、スタッフさんが手にするのは
森のなかまプリントTシャツ」。

前述したように、群馬には公園が多いため、
外で遊ぶ子供たちもたくさん着替えをするのでしょうか?

ちなみに、このTシャツ、ネットストア限定で
大人サイズもあるんです。

親子で同じ柄を着ても、兄弟・姉妹で別の柄を着てもかわいいですよね★

キッズ売り場は、これまで洋服や雑貨しか見てこなかったのですが、
今回じっくり売り場を見てみると…

こども用のデスクとチェアもあるんですね!
子供の成長とともに机の高さも、椅子の高さも調整できるそう。

他にも、面白いと思ったのがコレ↓

おえかきペン・陶磁器用5本セット」は、食器にお絵描きをして
オーブンで焼くだけで、オリジナルの食器を作ることができちゃいます。

売り場に行くたびに発見のある無印良品、
みなさんのお気に入りも教えてください!

実はだるまって…

2012年05月07日

群馬県出身であれば、必ずと言っていいほど知っている文化があります。

「上毛かるた」

試しに、何人かの人にたずねてみると、みなさん本当に答えられました!

戦後、GHQの統治下で、地理や歴史を教えることが許されなかった時代、
なんとかして子供たちに群馬の歴史・文化を伝えようと始まったのが、
このかるたでした。

「え」縁起だるまの少林山。

そんな上毛かるたでも紹介されていた、だるま。

それもそのはず。
その生産量の約8割が、群馬県高崎市で生産されているんです。

空っ風の吹く、高崎の気候が、だるまづくりには適しており、
昔から農家の副業として作られてきたんだとか。

実はこのだるま、全国各地でも作られていますが、
産地によってその表情や形が異なるようなのです。

右が、私たちが出発時に片目を入れてきただるま、
左が、高崎だるまですが、その違いが分かりますか?

高崎でだるま製造に携わる、「中喜屋だるま」の峯岸さんに、
私たちのだるまを見せると、

「これは神奈川県の平塚のだるまだねぇ」

と、教えてくれました。

産地や職人によって、髭や眉毛の描き方に特徴があり、
高崎だるまは、眉毛は鶴を、髭は亀を表しているそうです。

また、祈願が成就した時に両目がそろうだるまのことを「縁起だるま」と呼び、
これは高崎だるまが発祥だそう。

「だるまのことをもっと知りたかったら、少林山へ行くといいですよ」

そう、峰岸さんに教わって、高崎市内の少林山を訪れました。
そこにあったのは、「少林山達磨(だるま)寺」。

たくさんのだるまが、ところ狭しと奉納されていました。

そこで私たちは、さらに驚きの事実を知ることになります。
だるまって、実在する人物がモチーフとされていたんですね。

達磨大師と呼ばれるこの方は、南インドの第三王子として生まれ、
その後、中国へ渡り、仏教の禅宗の開祖となった人物として知られています。

今のだるまの姿は、達磨大師が中国・少林寺で9年間、
座禅を組んでいた姿を表しているんだそうです。

当然、その姿は描く人によって異なるため、
日本国内でも異なれば、中国やインドのだるまはもっと違うようです。

同じようで違うもの。
「だるま」には、そんな背景があったのですね。

そういえば、子供の頃よく遊んだ遊びの一つに、
「だるまさんが転んだ」がありますが、その由来も、
親が子へ、我慢や努力を強いるときに散々使われた、達磨大師の座禅の話に対し、

「達磨さんだって、誰も見ていないところでは寝転んでいただろう」

と、子供が反発して使われるようになった掛け声、といわれているそうです。

そう思うと、幼い頃から、
達磨大師は私たちの身近な存在だったのですね!

身近なことにも、まだまだ知らないことが多いと思い知らされます。

栃木の"人気もの"

2012年05月04日

栃木県民ならびに周辺の茨城県民や福島県民がお買い物に行くのが
インターパーク宇都宮南。
北関東最大の複合型ショッピングセンターです。

行ってみると、本当に広い!!!
敷地内の駐車場収容台数は1万台以上に達し、
駐車場で迷ってしまいそうなほどでしたが、
その中にある無印良品に行ってきました。

平日の午前中だったのですが、お子様連れのお母さんたちで
賑わっていましたよ。

さて、そんな宇都宮インターパークビレッジ店の人気商品を伺ってみました。

エイジングケアシリーズ

なかでもオールインワン美容液ジェルは、洗顔後にそれひとつをつければいい
ということでとても便利なんです!

子育てで忙しいお母さん、朝時間のないOLさん、
私のようなめんどくさがり屋さんなどにピッタリですね。

そう、私たちキャラバン隊の一人もこれ愛用しているんですが、
とにかくお肌がしっとりしますよ。

続いて、地元出身のスタッフに宇都宮の情報を聞いてみると、
やっぱり出てきました、餃子の話題!

もともと宇都宮が餃子の街として知られるようになったのは、
1990年に、町興しにつなげられるキーワードを探していた市の職員が、
総務庁統計局の家計調査年報において「餃子購入額」で
同市が常に上位に挙がっていることに注目し、
餃子による町興しを提案したのがきっかけだそう。

地元の人には「正嗣(まさし)」と「みんみん」が人気だそうですが、
時間のない人にお薦めの場所を紹介していただきました。

宇都宮餃子会に加盟する27店の味が味わえる、「来らっせ」。
日替わりで、2個ずつ5店の味を1皿で
楽しめるプレートもありました。

観光客はもちろん、地元の人たちにも人気の場所だそうですよ。

さて、他に栃木といって思い浮かぶものといえば…

「いちご」です。

栃木県は昭和43年産から平成22年産まで、
43年間連続日本一のいちごの生産量を誇る県なのです。

県央部から南部に広がる関東平野の肥沃な大地とキレイな水、
そして冬の日照時間が長いことがいちごの生育に向いているのだそう。

さらに、地下水の豊富な芳賀町にある、「きみじまいちご園」で伺った話によると、
地下水を利用した自然のウォーターカーテンで、ビニールハウスを暖め、
長い間、甘いいちごが収穫できるようにしているんだそうです。

ちなみに、いちごは、実はビタミンCの宝庫。
ビタミンCが100g中62mgも含まれていて、
中程度の大きさのいちごを1日9~10粒ほど食べれば、
必要なビタミンCがとれてしまうとか。
オレンジやグレープフルーツよりも、ビタミンCが多いというから驚きですね。

他に栃木の人気ものといえば、これ↓

「レモン牛乳」

てっきりレモンの酸っぱい味がするのかと思って飲んでみると、
レモンは風味程度で、酸っぱいわけではありませんでした。

宇都宮市の老舗製乳メーカー「関東牛乳」が
第二次世界大戦後、間もない頃に開発し、
同市内の牛乳販売店のほか学校の購買部や運動会など学校行事での販売を通して
売れ筋商品となったそうです。

最後に、栃木の郷土料理。

「ちたけそば」

チチタケというきのこと、炒めた茄子だけが入った
シンプルなものでしたが、
チチタケから出るだしが風味豊かでとても美味しかったです。

ちなみに日本産のチチタケは貴重で、松茸よりも高額で
売られていることもあるそうです。

他にも、佐野市周辺には「佐野ラーメン」、
日光市では「ゆば料理」など、
各地域に"人気もの"がありました。

みなさんの地域には、どんな"人気もの"がいますか?

茅葺き屋根の家

2012年04月24日

茨城県石岡市八郷(やさと)地区、
筑波山の麓には茅(かや)葺き屋根の家が約70棟点在し、
現在も人々が暮らしています。

さらに、江戸時代から守り続けられている、この茅葺き屋根の家のいくつかは
国指定の有形文化財にも選ばれています。

この辺りでは農地だけでなく、きれいな水にも恵まれて、
豊かな暮らしが営まれてきました。

その証は、屋根の造りに表れています。

グラデーションに重ねられた屋根の層や、

屋根の上の飾りは、「筑波流」と呼ばれる装飾の特徴で、
家にお金をかけることができたからこその造りだそうです。

そんな茅葺きの屋根ですが、
空気層を持つ自然素材が50cm以上も重ねられているがゆえ、
水はけをよくするために屋根の傾斜が急になっていて、
その結果、屋根裏に大きな空間があるんだとか。

このため太陽からの熱を室内に伝えにくく、風通しも良いため、
夏はとっても涼しいそうです。

さらに写真を見て分かるように、
すべてのドアが引き戸で、窓も大きいのでこれは涼しいですね。
でも逆に冬はかなり寒そう…。

そう思って伝えると、
「"火のこたつ"があるから平気ですよ」
と家主の大場さんが教えてくれました。

一見普通のこたつと同じように見えますが、その中を覗いてみると…

炭がありました!

こたつというと、当たり前のように電気ごたつを思い浮かべましたが、
こたつの原型はこれだったのですね!!

ところで、そもそも「茅」とは屋根を葺く材料の総称で、
筑波周辺ではススキが最もよく使われているそうですが、
他にも藁(わら)や草など様々な材料が使われるそう。

天然素材なので、雨や虫などの被害はないのでしょうか?

その昔は囲炉裏やかまどなどを使って、家の中で火をたいていたため、
煙の燻蒸効果で虫を抑え、屋根を守っていたといいます。

それでも25年前後で葺き替えの必要があった茅葺き屋根ですが、
現代では屋根の寿命が縮み、15年前後で葺き替え時期を迎えるのだそうです。

しかし、そこには「職人不足」という深刻な問題があります。

昭和20年代には、石岡市内に80人以上の茅葺き職人がいましたが、
今では1人にまで減ってしまったとのこと。

また、集落内の家屋の多くが茅葺き屋根だった時代は、
共同の茅場を持って、各家の葺き替えを順番に手伝うなど、
近所や親戚同士による「結い」が営まれていましたが、
今では職人や業者に葺き替えを頼むしかないため、お金がかかるそうです。

それでも、ぶどう園を運営しながら、茅葺き屋根の家に住む大場さんは
「自分が生まれ育った場所だし、この家をきっかけにみんなとつながれるから」
と、この家を大切に想う気持ちを話してくれました。

3年前からは、この八郷の茅葺き屋根の家と田園風景に魅了された、
武蔵野美術大学の学生たちが、冬の休耕田をアートサイトに、
現地の里山から調達した間伐材や竹で制作した作品を展示するイベントを
毎冬行っているそうです。

現地を訪れて、実際にその風景を目にすると分かるその魅力。

少しでも多くの人が、この地を訪れ、
この魅力を継承していく大切さが伝わるといいなと思います。

茨城の無印良品

茨城では、イオンモール水戸内原の無印良品に行ってきました。

笑顔で迎えてくれた、スタッフさんにこのお店の人気商品を伺うと…

それは「レトルトカレー」だそうです!

さらに、それぞれのお気に入りを聞くと
"グリーンカレー"と"10種類の彩り野菜カレー"を紹介してくれました。

グリーンカレーのように、5辛の辛いカレーもあれば、
10種類の彩り野菜カレーのように、1辛のまろやかなカレーもある。
選べるバリエーションがあるのがうれしいですよね。

イオンモール水戸内原店のスタッフの中には、
実際にこのカレーが作られている工場を見学に行った人もいて、
その製造工程を知ったことで、
益々お客様に自信を持ってお薦めするようになったのだそうです。

また、このお店で目に留まったのがこちら。

子供たちの遊び場所です。

百貨店やモールなどでは見かける遊び場ですが、
無印良品のお店にもあったのですね。

無印良品の木のおもちゃで楽しそうに遊んでいる、子供たちの姿が印象的でした。

最後に、地元茨城出身のお2人の、
とっておきの場所を教えてもらいました。

「偕楽園と千波湖」

早速行ってみると、そこは至るところで桜の咲き誇る、とても大きな公園でした。

それもそのはず、偕楽園と千波湖を合わせた偕楽園公園は、
合計面積が300ヘクタールあり、都市公園としては
ニューヨークにあるセントラルパークに次ぐ、世界第2位の広さなんだとか。

お花見をする人、犬の散歩をする人、通学路として自転車で走る学生、
そしてランニングをする人など、
この場所が地元の人に愛されていることがよく分かりました。

こんな素敵な公園が近くにあったら、毎日通ってしまいそうです…。

ムーミン列車の舞台裏

2012年04月20日

さくら満開の千葉県いすみ市。

ここには、鉄道ファンならずとも、迷わずカメラを構えたくなる風景があります。

菜の花が咲き誇る丘の上を走る、一両のローカル列車の「いすみ鉄道」。

最近でこそ、メディアにもよく取り上げられるようになり、
この鉄道目当ての観光客がどんどん増えていますが、
3年前までは赤字経営が続き、鉄道廃止の危機にさらされていたのです。

このいすみ鉄道は、もともと国鉄だった木原線を引き継いだ路線で、
沿線自治体などが出資する、第三セクターの鉄道事業者です。
すなわち、それは、地域の人たちが自分たちでローカル線を守っていくということです。

地元の人たちは、ローカル線を守るために、乗る必要がなくてもとりあえず切符を買う…
そんな"乗って残そう運動"をしました。

しかし、他のローカル線も同様、それで残った鉄道はひとつもないといいます。

では一体どうしたらよいのでしょうか?

「今あるものをどう活かすかが、地域活性化の鍵だと思います」

そう話すのは、2009年6月に一般公募から、いすみ鉄道の社長に就任した、鳥塚社長。

「地元の人たちは、たとえ列車に乗る必要がなかったとしても、
列車のある、この風景を守りたいと言ったんですね。
つまり、それが"郷土愛"なんですよ。

田舎の人は田舎が恥ずかしいと思うんです。
でもお客様は県外から来る人たちで、彼らが求めているのは原風景だったりする。

田舎の人が自信を持つには、外から人が来て、"いいですね~!"と褒められること。
そうすると、結果、地域が進化していくのだと思います」

そう語った鳥塚社長は、いすみ鉄道に様々な仕掛けを行っていきました。

その代表例のひとつが、「ムーミン列車」の運行です。

ムーミンファミリーが暮らしている、ムーミン谷は
山・森・渓谷があり、川が流れていて、お花畑もあるし、遠くに海がある。
その自然豊かな環境は、いすみ鉄道沿線の房総半島のそれによく似ていたのです!

また、鉄道好きには女性よりも男性の方が多いそうですが、
ムーミン列車を導入することで、女性のお客様を増やそうと試みたのです。

今ではすっかり女性客にも人気のいすみ鉄道、
今度は男性向けに、東京湾アクアラインを使うだけで、
昭和にタイムスリップできるこの町並みを活かそう!
と近々あるイベントを計画しているそう。

4/29・30に行われる、
みんなでしあわせになるまつりin夷隅」は、
昭和な香りが漂ういすみの町に、レトロな車やバスがやってくるそうですよ!

ちなみに、鳥塚社長は東京のご出身だそうですが、
お父様の実家が勝浦にあったので、小さい頃はよく千葉に遊びに来ていたのだそう。

しかし、ご事情があり、30年近く千葉に来ることはなくなったのですが、
その後再び千葉を訪れた時に、千葉の良さを再確認したのだといいます。

中にいると分からないけど、外から来てみて分かることがある。

地域活性というのは、ゼロから作り出すものではなく、
書いて字の如く、そこにあるもの(地域)をどう活性させていくのかが大切。

そういう意味で、私たちキャラバン隊が
地域のためにできることが少しでもあるのかもしれません。

引き続き、外から見た各地域の魅力を見つけていきたいと思います!!

千葉の無印良品

千葉県には20店舗の無印良品がありますが、
今回は船橋市にある「ららぽーとTOKYO-BAY店」にお邪魔してきました!

案内をしてくれたのは、稲毛出身のスタッフさん。

このお店は、ショッピングセンター内にあるため、お客様の層が幅広いそうです。

そんな幅広い年齢層のお客様に愛されているのがこちら。

【化粧水・敏感肌用】

この化粧水は、スキンケアのベースになる"水の質"にこだわっていて、
探し求めて見つけたのは、岩手県釜石の洞窟から汲み出される天然水。
料亭や飲料水にこだわる人たちに支持され、「仙人秘水」と呼ばれている超軟水だそうです。

この化粧水、店舗での売り上げが家具の売り上げに次ぐ時もあるんだとか。
ちなみにこの季節は"高保湿タイプ"が人気だそうですよ。

最後に、地元の人お薦めのとっておきの場所を聞いてみました。

「やっぱり海が好きです。稲毛の浜や九十九里浜が好きですね」

帰りに九十九里浜に寄ってみました。
平日なので人はほとんどいませんでしたが、果てしなく続くこの海岸を見て、
この場所がサーフィンの人気スポットであることにうなずけました。

今後も全国の無印良品のお店に伺い、各地のスタッフのとっておきの場所も
レポートしていきたいと思いますので、お楽しみに♪

  • プロフィール MUJIキャラバン隊
    長谷川浩史・梨紗
    世界一周の旅をした経験をもつ夫婦が、今度は日本一周の旅に出ました。
    www.cool-boom.jp
    kurashisa.co.jp

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